シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

ゲームで高まるエモーションのかけがえなさ──スプラトゥーン3と思秋期

 

 
9月9日、待ちに待った『スプラトゥーン3』がリリースされて、家族総出でプレイしている。ファミ通によれば、発売から三日間で345万本が売れたのだという。しかも国内に限った数だから怖ろしい。
 
そんなスプラトゥーン3について、はてな匿名ダイアリーでは以下のような投稿がプチバズっていた。
 
旦那のスプラトゥーン3のデータを消した
 
細かいところに粗があるといえばあるが、妊婦である妻の視点で語られているおかげで理解しやすい筋になっている、と私は読んで思った。
 
この場合、家族の大きな負担になっているのだから、夫はスプラトゥーン3のプレイをとおして家庭内に公害を引き起こしているようなものだ。大音量や振動もたいがいだが、エモーショナルな言葉がグサグサ聞こえてくるのもそれはそれで大変だ。家庭内でコンフリクトになるほどなら、なんらか、害をなくす工夫が必要だろう。
 
対戦ゲームをプレイしていて負けると (ときには勝つと) ディスプレイを前に激しい感情をあらわす人、プレイ中に言葉遣いが荒くなる人がいるのはわかる。私だって対戦ゲームをやっている時は多かれ少なかれ言葉遣いが荒っぽくなるし、家族の誰かがプレイ中、一緒にゲームについてしゃべっている時も、勝っていてすら語彙が荒っぽくなる。そういえばゲーム界隈のスラングにも2022年の基準からみて荒っぽいもの・けしからんものがあったし、20世紀のゲームセンターでも、ミスったプレイヤーがゲーム筐体をバンバン叩いたり、より甚だしい場合には蹴ったりしていた*1。で、当時のゲームセンターはそういった振る舞いがぜんぜんあり得る空間で、それはUFOキャッチャーやプリクラが流行った90年代になっても完全には変わりきらなかった。
 
では、そうしたゲームの世界にありがちな荒さがどこにどれだけ持ち込まれて構わないのか?
 
最近、eスポーツ選手の言動やゲーム実況で用いられるスラングが荒々しい……というより暴言が含まれていると批判されることが増えた。90年代、いや80年代の暗いゲームセンターの世界なら、荒々しいスラングや暴言も見て見ぬふりをされるのかもしれないが、2020年代の、全世界配信されるインターネットメディア上で許されるものとは思えない。
 
後で書くように、私はゲームをやっていて興奮してエモーションがたかぶること自体は否定したくないし、許容可能な場所や仲間内では、荒ぶる言動が飛び交ってもいいのだと思いたい人間のひとりだ。ゲームがただの暇つぶしならともかく、ゲーム体験をとおして大事なエモーションを受け取ったり、ゲーム体験に大事な何かが賭けられていたりする限りにおいて、エモーションが揺れるのは当然だし、多少なりともそれが言動にあらわれてしかるべきだろう。
 
といえ、そのエモーションの揺れ動きや言動が社会が許さないものだったとしたら、問題アリ、ということになる。別にそれは(コンピュータ)ゲームに限ったことではなく、スポーツファンが暴徒と化したとしてもそうだろう。
 
よって、ゲームをやるならルールを守って行儀良く。誰にも迷惑をかけるな、危害原理を破るな、害になりそうな振る舞いをするな、ということになる。あるいは自分自身に害が及ぶようなゲームプレイ、たとえば課金をし過ぎるだとか、ゲームで学業や仕事の生産性に影響が出るだとか、そういったことも厳につつしむよう啓蒙しなければならないのだろう。そしてこれらの要件から逸脱したゲームプレイヤーは、逸脱者として、なんとなれば精神疾患として、治療されなければならない──。
 
これは、精神医療がテリトリーを広げているという以上に、社会から治療を要請されているのだろう。
ゲームに際してのエモーションや言動に限らずだが、現代社会においては、個人のエモーションや言動は一定の枠内におさまっていなければならず、枠内におさまることで予測可能な個人、いつも生産的で健康な個人が保たれなければならない。
 
と同時に、技術や法治や制度が個人の感情生活や言動をマネジメントすることを可能にし、マネジメントされなければならない布置をつくりあげたってことでもあるだろう。だから現代社会で模範的な社会適応をやっていくなら、そうしたマネジメントに耐えうるエモーションや言動を維持できなければならない。たとえ、スプラトゥーン3が発売されたばかりであってもだ。
 
 

自分が落ち着いたのか。それともエモーションが禿げてしまったのか。

 
そうした、ゲームとゲームプレイヤーに対する社会からの要請をおぼえておいたうえで、これから私とスプラトゥーン3の場合について書きたい。
 
スプラトゥーン3は、案の定、めちゃくちゃ楽しい。
負けるとひたすら悔しいが、勝っても負けても炎のような時間を過ごさせてくれるゲームだ。私はこのゲームジャンルが主戦場ではないから、スプラトゥーン3にそこまでアイデンティティを賭けて挑んでいるわけではないけれど、それでも、勝利とファインプレーにこだわる瞬間にはエモーションの賭け金が上がっていく。
 
ところが前作『スプラトゥーン2』の時に比べると、負けても感情が落ち込まない。9月12日には信じられないほど大敗を喫したのだけど、私の言動はそこまで大揺れしなかった。それはなぜなんだろうか。
 
前作は販売500万本超え、『スプラトゥーン3』は敗者のメンタルケアまでを徹底した対戦ゲーム | DIAMOND SIGNAL
 
上掲リンク先記事によれば、スプラトゥーン3は、敗者のメンタルケアがよく考えられたゲームなのだという。そうかもしれない。実際、前作のガチバトルの、ぼっきり折れたような負け演出はとても似合っていた半面、グサリと刺さるものがあった。そういう、似合っているけれどもグサリと刺さる演出を、より無害に漂白した演出に置き換えていく改変は、いかにもゲームアーキテクチャによるプレイヤー管理、それも、とにかく安全・安心な方向への管理という、優良企業コンテンツじみた雰囲気がぷんぷんして嬉しいような憎らしいような気持ちになるが、ともかく私自身もそうした管理下に置かれ、前作より憤慨しにくくなっているとは思う。
 
でも、本当にそれだけだろうか?
 
私の子どもを見てみると、案外、ちゃんと憤慨していたりする。
 
負けがこめばイライラが出てくるし、勝てば調子に乗る。ゲーム体験とエモーションや言動がバッチリリンクしている。当然、ときには荒っぽい言葉が出ることもある。子どもを礼儀作法の無菌室で育てるのが最適解だと思っている人々の目線で想像すれば、スプラトゥーン3を巡る我が家の状況は好ましいものではないと思う。
 
しかし、そうやってスプラトゥーンの勝ち負けにむきになっている子どもの姿を見ていると、なんというか、これはこれで貴重な瞬間に見えるし、ひょっとしたら、ゲーム愛好家としての私が失いかけているものではないか、と思えたりもする。
 
何かを経験し、エモーションが揺れ動くことは、そんなにいけないことだろうか。
感情生活の起伏は、悪いものでしかないのだろうか。
 
こちらの記事の中盤に書いたけれども、中世においては、感情の起伏の大きさが人間に求められ、感情の起伏が少ない者が修道院に入らなければならなかった=社会からの逸脱とみなされていた。それから何世紀も経つなかで、社会から期待される感情の起伏の大きさは、小さいほうへ・なだらかなほうへと変化し続けてきた。今日では、感情の起伏が大きいことのほうが社会からの逸脱とみなされやすい。くだんの、ゲームで感情的になりすぎる夫もそうした逸脱者のひとりと(これからの社会では)みなされる一人だろう。
 
しかしゲームは遊戯だ。
単なる暇つぶしではなく、真剣に取り組んでいる人の多い、そういう遊戯のはずである。
ゲームの勝敗はしばしば冷静さによって決まる。しかし必ず冷静さによって決まるわけでなく、瞬間瞬間においてはエモーションによっても導かれ、ことの進行に沿ってエモーションも動いていく。言動だって動くだろう。
 
そうしたことも含めてのゲーム体験、ゲームとのお付き合いではなかったかと私は自分の子どもを見ていて思う。これから大人になっていくにつれて、たとえばゲームで感情的になりすぎる夫のような存在にならないよう、私は注意をうながさなければならない。と思うと同時に、ゲームで悔し涙を流すこと、ゲームで負けて転げまわること、イカを立て続けに4キルして勝ち誇ること、その折々の瞬間をかけがえのないもののように感じる。
 
もちろん節制は必要で、私たちは社会的存在だから、社会の求めにあわせてエモーションと言動をフィルタリングしなければならない。その方法を子どもと一緒に学んでいくのも親のつとめではあるし、ゲームもまた、そうした技法を学んでいく題材のひとつではある。
 
しかし、ゲームをとおして、いやゲームに限らず遊戯やカルチャーと呼ばるものをとおして強いエモーションや言動が現れ出ること自体、貴重な体験であるはずだし、少なからぬゲーム愛好家はしばしばその貴重な体験を期待してゲームを購入する。あるいは、ゲームこそ、自分にとってそうしたエモーションや言動が現れる場所、自分がそれらをあらわにできる場所だと感じている*2
 
子どもがスプラトゥーン3のプレイに一喜一憂しているしているさまを見ていると、「大人になってもこれじゃ大変だな、正さないと」という思いと「今、本当にゲームの渦中にいて、本当にゲームを体験しているな、守らないと」という思いが相半ばする。
 
と同時に、スプラトゥーン3に大揺れしなくなった自分自身を省みて、「落ち着いて遊べている。いまどきのゲームプレイヤーのあるべき姿だ」という思いと「ゲームの渦中にとどまる力が弱くなって、エモーションが禿げてしまっている」という思いが相半ばする。大人になったといえば聞こえはいい。が、これは思秋期の兆候ではないか? そして現代社会にどれほどアジャストしているようにみえても、私は自分のエモーションを小さく折り畳んでしまっているのではないだろうか。
 
2018年から2019年にかけて、私はのめり込むようにソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』のガチャを回していた。あれも、いまどきの社会では褒められない、大変にエモーショナルな体験だった。だけど、今にして思えばあれは記念碑的な経験で、当時の私のゲーム体験に、ひいては2018~19年の人生にかけがえないアンダーラインをひいてくれた。スプラトゥーン2もそうだったし、90年代にゲーセンで遊んだゲームたちもそうだった。ゲーム愛好家なら、そういう人生にかけがえのないアンダーラインをひいてくれたゲームを複数挙げられるに違いない。社会がしのごの言おうとも、そのエモーショナルな体験それ自体は、やっぱり貴重な財産であるはずだ。
 
どこまで現代社会で許容されるのか/されないのかの線引きはいつも難しい。そしてゲーム症(ゲーム障害)に該当するような、尋常ならざる状態に陥る人がいるのもまた事実。それでも私は、ゲーム体験をとおしてエモーションや言動が揺れること、それそのものは貴重に思う。そして大人になったのか老いたのかわからない理由で揺れの振幅が小さくなってしまっている自分自身を、寂しく思う。
 
 

*1:ゲーム筐体のほうも、それはそれで頑丈だったが

*2:ゲームに限らず、自分にとってエモーションや言動が現れる場所が単一であることは、依存や嗜癖、耽溺など、コントロールの難しい状態に陥りやすいとは、よく事情を知っている人がしばしば指摘するところではある。だから、単一じゃないようにしなさいよ、依存や嗜癖、耽溺を避けなさいよ、という「アドバイス」も世の中には溢れている。そうだろう。そうでしょうとも。しかしだね……いや、これ自体とても長い話になるから今日はやめよう。