シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

古典や文豪を知らなければ「日本が好き」と言っちゃいけないの?

 


 
Xというプラットフォームは、何かしら意見が衝突するようにできているのかもしれない。それが反目を生むのか議論を生むのか、社会の一隅を照らす窓となるのかは、さまざまだろう。

今朝、私は上掲のようなポストをXで見かけて「なんだこれは?」と思った。 だからブログで問うてみたい。
 
古典の作品や文豪の作品に日本らしさ・日本ならではの良さがあるのは私も理解しているつもりだ。私は勉強不足なので古事記や日本書紀についてあまり知らないし、伊勢物語も読んでない。しかし源氏物語については部分的に読んだ記憶があるし、なにより、漫画『あさきゆめみし』や大河ドラマ『光る君へ』などとおして楽しんだ記憶もある。
 

 
文豪も、正直私はあまりよく読めていない。それでも、夏目漱石や太宰治や芥川龍之介などは私の胸を深くえぐった。それらも日本人の手による日本ならではの作品で、外国の作品では摂取できないエッセンスを宿していると思う。
 
「日本が好き」と言う時、その日本の文化や風習と深く関わる日本にしかないものが連想されること、それ自体はとても自然なことだ。上掲のポスト主の方にとって、古事記や日本書紀や源氏物語や伊勢物語、ひいては日本を代表する文豪たちの小説を挙げるのが自然なのも不思議ではない。実際、それらの作品をとおして日本を知る・日本を味わう・日本が好きだと感じる人は他にも結構いらっしゃるに違いない。
 
 

でも、「古典や文豪を知らなければ何が好きなのかな」っておかしくないか??

 
でも、だからといって古典や文豪を知らなければ日本が好きって言っちゃいけないってことはないですよね?
 
上掲のXのポストは、婉曲な言い回しで「古典や文豪を知らなければ日本好きにあらず」と言っているようにも私には読めた。少なくとも、ポスト主の方にとって、古典や文豪を知らない日本ラバーの存在とは、少し考えにくいものであるようだ。それは不幸な認識だと思う。この世には、古典や文豪をたいして知らない日本ラバーが、古典や文豪をよく知る日本ラバーよりもずっと多い。その存在に気付かないのは、とりわけ、出版社で働いているとされるポスト主の方にとって、きっと良くないことだと思うから私は伝えなければならないと思った。
 
だいたいから言って、私も古典や文豪をよく知らない日本ラバーの一人である。ちゃんと源氏物語を通読したわけじゃないし、夏目漱石だって全部読んだわけじゃない。古典や文豪を知らなければ日本が好きと言ってはいけないのだとしたら、私も日本が好きと言えない、欠格者ということになろう。
 
でもって、この考え方を突き詰めた先にあるのは、「専門家に準じるレベルで日本古典や日本文学を読んでいなければ日本が好きとは言えない」だろう。ここまでくると、明らかにおかしい。大昔に言われた「SF1000冊読んでなければSFファンにあらず」も十分におかしかったが、この場合は「しっかり日本古典や日本文学を読んでいなければ日本が好きにあらず」となってしまうから、「SF1000冊~」より一層おかしいと言える。
 
「別に古典や文豪を読んでいなくったって日本が好きでいいじゃないか!」と私はディスプレイの前で叫んでしまった。どうして伊勢物語や森鴎外を読んでいなければ日本が好きと言えないのか。そんなのは絶対におかしい。
 
私は、古典や文豪の場所に、『葬送のフリーレン』や『呪術廻戦』や『初音ミク』が入っていたってまったく構わないように思う。それらは現時点ではサブカルチャーとみなされている作品やキャラクターだが、それらには日本で生まれた、日本にしかない良さが充溢している。幾星霜ののち、そうしたサブカルチャーの作品の一部は古典とみなされるかもしれない。いや、そんなことはどうでも良い。私の心が叫びたがっているのは、日本で生まれた日本にしかない良さが充溢している限りにおいて、古典や文豪を愛する人の「日本が好き」という気持ちと、現代の作品やキャラクターを愛する人の「日本が好き」という気持ちはそんなに変わらないんじゃないか、ということだ。
 
もう少し補足すると、別に、いかにも文化的な作品やキャラクターでなくても構わない、とも思う。
日本の食事や食習慣が好き、もっと具体的には煎餅や寿司や(日本風)カレーライスが好きって気持ちが「日本が好き」と繋がっているのはぜんぜん不思議じゃない。今となっては、サイゼリヤが好きとか日高屋が好きだって構わないだろう。日本の競馬が好きな人、日本のプロ野球が好きな人もあるかもしれない。
 
私は日本の海も好きだ。マリアナや東南アジアの海、地中海ももちろんいいが、それでも一番好きなのは日本の海、特に日本海側の海だ。これだって私のなかにある「日本が好き」であり、古典や文豪とは違った背景に基づく「日本が好き」だと思う。同じように、静岡や山梨に住む人なら富士山のある景色が「日本が好き」と繋がっていることだってあるだろう。
 
「日本が好き」は「地元が好き」とも無関係ではない。日本、という言葉を狭義のナショナリズムに限定するなら、「日本が好き」とは近代的かつ観念的な代物となり、それは「地元が好き」とも、ひょっとしたら「初音ミクやサイゼリヤが好き」とも乖離するかもしれない。が、げんに日本が好きとなんとなく思っている大半の人は、そんな厳格なナショナリズムに基づいているわけではなく、もっと曖昧に、もっと広く「日本が好き」とイメージしているだろう。そういうものだと思うし、それで構わないとも思う。
 
せっかくなので付け加えると、「日本が好き」という気持ちを厳格なナショナリズムに基づいて考えすぎるのも、それがために広く存在する「日本が好き」という気持ちを認めなかったり見て見ぬふりをするのも、なんか違うと思う。
 
だから、古典や文豪を知らなければ「日本が好き」と言っちゃいけないかのようなポストには、私はつい反応せずにいられない。日本が好きである条件が厳しく制限されてしまった気になってしまうからだ。そして古典や文豪は初音ミクやサイゼリヤや日高屋に比べて敷居が高いから、言い方次第では、ある種の選民主義にも聞こえかねない。冒頭リンク先のポストにはそういう性格は無さそうだけど、こういうのは言い方次第で、「勉強ができる人でなければ『日本が好き』を言っちゃいけないような雰囲気」に作り替えられるかもしれない。
 
 

「日本を論じる」だけでなく、「日本が好き」すら勉強ができる人のものだとしたら

 
こうして私が「日本が好き」についてブログに書いてしまっている背景には、2026年2月8日に行われた衆議院議員選挙と、それに至るまでの選挙期間中に見聞した、やたらと選民主義的な言葉たちがあったと、私は自己分析する。
 
選挙期間中、日本の将来について自分たちはちゃんと考えているが、ろくに考えていない人間がたくさんいることを憂いている言葉がたくさん飛び交っていた。自分たちには熟慮があり、そうでない有権者には浅慮しかないと言ってはばからない人を何度も見かけた。選挙が終わってからもそうだ。有権者について、選民主義的なことを言う人は後を絶たない。息を吐くように、物凄く失礼なことを平気で口にしている「日本を一生懸命に論じている」人の発言を見るたび、私はひどいなぁと思った。
 
いつも政治について考えている人、"わかっている"人でなければ日本を論じるには値しない・日本について何も考えてもいない、とみなすようなポストをX等では頻繁に目にした。職場やインターネット上では政治に対して無言の人々のなかにも、日本のことを考えている人、考えたうえで投票所に足を運んでいる人だってたくさんいるに決まっている。だのに、どうしてそんなことが言えてしまうのだろうか? そんなひどいことを当たり前のようにメンションする支持者が溜まっている政党は、選挙では苦戦するだろうと思う。そのような排他的で選民的なメンションは、幅広い支持を獲得するうえで、足手まといになるだろうからだ。
 
それでもまだ、選挙にある種の選民主義が顔を覗かせるのはまだわかる*1。だが「日本が好き」にまである種の選民主義がしみ込んでくるとなったら、これは、一層あってはならないことのように思う。日本を好きな理由なんて、なんだっていいじゃないか。どんな人がどんな理由で日本が好きになったっていいじゃないか。ついでに言うと、どんな人がどんな理由で日本が嫌いになっても、それはそれで構わないと思う。そういう、好き嫌いの次元にまで、条件とか、資格とか、正当性とか、そういう話が紛れ込んでくるのは息苦しい。私はとうてい、そういうの好きになれない。
 
そして「○○を愛好していなければ日本が好きとは言えない」的な考えの地平線の向こうには、「日本人はすべからく○○を好きにならなければならない」が待っているかもしれない。
 
いや、これは少し考えすぎか。
 
とにかく私が言いたいのは、「日本が好き」ぐらい好きにさせてくれよってことだ。高邁な日本が好きもあれば低俗な日本が好きもあるでしょう。でも、それでいいじゃないですか。選挙前後の毒気にあてられて、つい、書いてしまいました。「日本を論じる」ばかりか「日本が好き」までもが一部の人々の専有物や特権であるかのように思われたらたまったものじゃないので、このように私は過敏に反応してしまいました。
 
 

*1:この文章を全部書き終わってから読み直して、いや、わかっちゃいけない気がしてきた