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アメリカ大統領選挙でトランプ氏が次期大統領と決定してから、やたらと「分断」という文字を見かけた。
私はトランプ氏が大統領になるとは予想していなかったから、選挙結果に驚いた。しかし、アメリカ社会が「分断」している、ひいては、日本でも「分断」が起きているということは知っていたし、みんなも知っているんじゃないかなぁと思っていた。
そもそも、選挙戦の最中から「分断」を示唆する兆候はみえていたはずだ。「分断」があればこそ、史上最低といわれる選挙戦が繰り広げられたわけだし。
しかし、本命視されていたヒラリー氏が敗れた後、ようやく、または久しぶりに「分断」を意識した人も多かったようだ。少なくとも、幾つかのメディアにはそのような論調が滲んでいた。このことは、「分断」に気づかないまま日常生活を送れるか、見て見ぬふりをしながら日常生活を送れるような素地が、アメリカ社会や日本社会に存在している証拠のように私は思う。
アメリカ大統領選挙やイギリスのEU離脱のような歴史的イベントが起こらない限り「分断」に気づかない、しかして「分断」が存在している社会とは、一体どういう社会なのか。
社会は複雑に入り組んでいるので、ひとつやふたつの要因で語りきれるものではない。それでも、このように明らかになった「分断」――すなわち、異なる価値観や境遇を持った者同士がお互いを理解しあおうとせず、反発しあい、軽蔑しあい、にも関わらずそのことをおくびにも出さずに暮らしている現況――を理解するにあたって、どうにも無視できない要素はあると思う。
そのあたりについて、今は半熟卵のような文章しか吐きだせないが、後日のために書き残しておく。
1.思想的分断――先鋭化した個人主義
アメリカに限らず、先進国の社会で「分断」が起こっている一因として、個人主義というイデオロギーに触れないわけにはいかない。
個人主義は、ロックやルソーといったヨーロッパの思想家に端を発する。あるいは、遡って活版印刷や宗教改革やルネサンス期の商業経済を挙げる人もいるかもしれない。いずれにせよ、個人主義は太古の昔から浸透していたものではない。社会が発展していくなかで徐々にあらわれ、民衆に少しずつ浸透したものだった。
個人主義には、「自分のことは自分で決める」というドグマがある。だから個人それぞれに考え方の違いがあってもおかしくはない。が、それゆえに「他人のことは他人のこと。むやみに干渉するのは良くない」という態度がついてまわる。後者の態度のおかげで、考えの違っている者同士でもそれぞれのポリシーで生きることが可能になる。
もちろん、「自分のことは自分で決める」「他人には無干渉」が徹底すれば、国はバラバラになってしまうだろう。だが、かつてのアメリカやその他の国は、そういった個人主義を掣肘し、繋ぎ止めるものがあった。たとえば、宗教的な共通項や地域や共同体を愛する共通項、それらについてまわる歴史感覚などだ。アレクサンドル・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』のなかで讃えていたのは、個人主義と、それを繋ぎ止める共通項が揃って機能している、そんなアメリカだった。
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だが、それから長い歳月が経って、アメリカは――いや、アメリカのある部分は――コスモポリタンな様相を深め、宗教的な共通項も希薄になった。人的流動性が高まり、世界を股にかけて働くようになった人々は、国や地域や共同体を愛する必要性を失う。そもそも、愛しようがなくなってしまう。片田舎でローカルに暮らしている人々には、まだそういったものは息づいているかもしれないが、グローバリゼーションに乗っかって暮らしている人々、つまり、アメリカでも日本でもシンガポールでも暮らしていけるような人々には、個人主義を繋ぎ止める共通項などありはしない。
[関連]:【寄稿】同胞を見捨てる世界のエリート - WSJ
[関連]:アメリカのポップスターは、束になってもトランプに勝てなかった - 日々の音色とことば
今、世界でエリートと呼ばれる人々とは、アメリカでも日本でもシンガポールでも暮らしていけるような人々だ。国際的なポップスターもまた然り。こうした人達には、国や地域や共同体といった紐帯はほとんど機能しない。同胞を見捨てるもなにも、グローバルで根無し草なライフスタイルを選択していて同胞意識などどうやって持てるというのだろうか。
いや、エリートに限らず、人的流動性の高まりに乗って*1根無し草のように移動しながら働く人々には、それぞれの個人主義を繋ぎ止めるための、トクヴィルが言及していたような紐帯がほとんど存在しない。控えめに言っても、そういう要素は少なくなってしまった。地元の寺院の定期礼拝に出席するような信仰のかたちも、特定の国や地域や共同体を愛するメンタリティも、根無し草達にはわからないものだ。グローバリゼーションに“乗っている”エリートも、厳しい境遇の派遣労働者も、その点ではそれほど変わらない。
2.空間的分断――棲み分けられた世界
個人主義者同士を結び付ける諸々が希薄になっていったのと並行して、私達の生活空間も変わっていった。
19世紀あたりまでのアメリカや日本では、よほど特別な暮らしぶりの人でない限り、衣食住や仕事や娯楽のために、近隣同士で助け合う必要があった。当時はネット通販もコンビニもスーパーマーケットも無かったから、街のあらゆる職業の人が面突合せながら生きていくのが生活であり、生活空間だった。
このような生活空間では、どんなに個人主義的であろうとしても、「自分のことは自分で決める」には一定の制約がかからざるを得ない。
だが、上下水道が整備され、交通網やスーパーマーケットが整備され、ニュータウンが建設されるようになると、話が変わってくる。マイホームと職場の間を往復するだけで仕事ができるようになり、百貨店やスーパーマーケットで衣食住が賄えるようになり、街に出かければ――いや、街に出かけなくてさえ――娯楽を楽しめるようになると、あらゆる職業の人が面突合せて生きていかなければならない道理は無くなった。
交通網やスーパーマーケットやニュータウンが揃ったことによって、個人主義的であろうとする個人は、精神面だけでなく物質面でも「自分のことは自分で決める」を全うできるようになった。アメリカでは20世紀の中頃までに、日本でも20世紀末までに、このような生活空間は大きく拡大した。
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たくさんの人が、好きなように暮らせるようになったのは、個人主義的に考えるなら素晴らしいことだし、だからこそ、そういった生活空間が「マイホームの夢」などといった触れ込みで(80-90年代の日本では)理想視されたのだろう。だがそれは、個人それぞれ、家庭それぞれの「分断」が起こるに任せるような生活空間ができあがったということでもある。
加えて、ゲーテッドシティ、オートロックの高層マンション、スラム街といったかたちで、似たような収入・価値観・ライフスタイルの人々が集まりやすい生活空間が都市とその周辺にできあがると、「あらゆる職業の人が面突合せながら生きる」などという状況はますます考えにくくなった。たとえば、上級ホワイトカラー層とブルーカラー層の生活が重なり合りあう場がなくなれば、お互いに没交渉になるのは必然だし、没交渉になれば、お互いの立場を知りあうことも価値観を擂り合わせることもなくなる。
そして、そうした没交渉で不干渉な態度は「自分のことは自分で決める」「他人には無干渉」といった個人主義的イデオロギーによって奨励……とまではいかなくても正当化できる。
棲み分けるということ、没交渉であることは、空間的な分断によって可能になり、個人主義的なイデオロギーによって正当化された。これで「分断」が起こらないとしたら、そのほうがおかしい。
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3.階層的分断――新しい階級社会
そうした「分断」も、一代限りなら軽かったかもしれない。
たとえニュータウンで暮らしていようとも、若かりし頃にあらゆる職業の人と面突合せながら生きていれば、自分と異なる価値観やライフスタイルを見知っておく機会もあるし、通信手段や交通手段の発達した現代なら、いったん知己を得た後はバラバラになった後もコミュニケーションが続く可能性もあるからだ。
しかし、個人主義のイデオロギーも生活空間も、一代限りでは終わるものではなかった。
むしろ反対だ。時代が進むにつれて、「自分のことは自分で決める」は先鋭化し、生活空間の棲み分けは進んでいった。そんななかで親が子を産み、子を育てていったわけだから、二代目や三代目は生まれながらにして棲み分けられた世代、ということになる。
これに拍車をかけるのが、学歴や文化資本の偏りだ。
この棲み分けられた社会では、私立の幼稚園に入り、私立の小中学校に進み、一流大学に進む人達と、貧しい家庭で育ち、公立の小中学校に進み、高校中退で働く人達の人生が交わることはほとんど無い。似たような家庭で育った、似たような境遇の者同士が理解し合う機会はあっても、“向こう側”を深く知る機会などそうそうあるものではない。
今日日、たとえばアッパーミドルな家庭で育った子どもは、貧しい家庭で育った子どもと直に付き合い続けて理解しあうのでなく、メディアというフィルターを通してそのイメージを摂取する。ところが、マスメディアであれ、ネットメディアであれ、メディアの選択そのものがアッパーミドルな家庭の基準によって選好されるので、メディアを通して摂取する貧しい家庭のイメージもまた、ある種の偏向を受けざるを得ない。
ヨーロッパと比較すると、アメリカや日本は階級社会ではないという。“一億総中流”という幻想は砕かれたとしても、「個人それぞれが勉強し、働き、キャリアアップして、人生を豊かにする」という個人主義にもとづいた価値観が残留しているという意味では、中流社会的、いや、中産階級的なメンタリティが残存している。
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だが、学歴にしても、文化資本にしても、コネにしても、持てる者のところには集まり、持たざる者のところには集まらない。その構図は、世代を経てもリセットされず、世襲されて強化されていく。貧しい家庭の子どもは豊かな家庭の子どもと接点を持つことが無いばかりでなく、目指すことすら難しい。高い素養を持って生まれてきた子どもでも、勉強するための習慣や方法論に巡り合う機会が無かったり、親が学費を払いきれなかったりする。そうした諸々を克服して“一発逆転”を決めるのは難易度が高い。
このような構図とて、「自分のことは自分で決める」「他人には無干渉」にもたれかかってしまえば他人事である。そして学歴や文化資本に恵まれた者だけでなく、恵まれない者にまで、こうした個人主義的イデオロギーが浸透しているので、好ましい干渉すら、ときとして撥ね退けられる。
「分断」していったのは誰だったのか
ここまで書き進めて、大統領選の前には考えてもいなかった感想が湧いてきたので付け足しておく。
選挙結果が出るまで、私は「分断」の“主犯”はトランプ氏の支持者達であるようになんとなく思っていた。アウトサイダーの候補者に喝采し、ポリティカルコレクトネスも含めた、既に定まった枠組みを動揺させ、国際的な取り決めを台無しにするようにみえた彼らこそ、アメリカから逸脱していく人達ではないか、と。
しかし、都市部ばかりが青く塗られ、地方の大半が赤く塗られた選挙結果を眺めるうちに考えが変わった。離れていったのも、個人主義を先鋭化させていったのも、トランプ氏の支持者ではなく、都市部で暮らしグローバリズムを受け容れている、根無し草な人々ではないか。
そして、青く塗られた都市部の根無し草な個人主義者だからこそ、彼らは「自分のことは自分で決める」「他人には無干渉」を良いこととし、自分達よりも保守的で、地元を離れない・離れられない地方の人々の心情を汲み取ろうともせず、そのことを自己正当化していたきらいはなかっただろうか。
日本に住んでいると、つい、東海岸や西海岸の都市部の価値観がアメリカを体現していると考えてしまうが、歴史的に考えるならたぶん逆で、東海岸や西海岸の価値観、グローバリゼーションに親和的なガチガチの個人主義のほうが、先鋭化し、遊離してきた新機軸であるように今はうつる*2。
[関連]:われわれも、すでに「分断」されているのだ。 - いつか電池がきれるまで
「分断」を見なかった人々の責務
では、このような思想的・空間的・階層的「分断」が起こっていることに気づくべき立場は、誰だろうか。
私は、社会のリーダーを自認するエスタブリッシュメント層やエリート層、たとえば官僚やメディア人のような人々、高学歴で高収入な人々だと思う。
「分断」が起こっていることに本能的に勘付くのは、キャリアアップの道が閉ざされていることを身をもって体感している人々、グローバリゼーションから取り残され、先鋭化した個人主義の恩恵から取りこぼされていく人々だろう。だが、「分断」が起こっていることを理解し、背景を分析し、社会改革を主導していくのは、なんやかんや言っても知識や富を集めている人々ではなかったのか。
個人主義の根底にある「自分のことは自分で決める」と、それと表裏一体な「他人には無干渉」を良しとしているからといって、「分断」が起こっている向こう側を知ろうとせず、また、知らしめようともしないのは、端的に言って、怠慢である――知識や富を寡占し、社会のリーダーを自認している人々に関する限りは、そうだと言って構わないのではないだろうか。
そうした人々がこれまでのように社会を主導していくというなら、「分断」の手前側の価値観だけで考えるのでなく、向こう側の価値観を探っていくための一層の工夫が必要だろう。いみじくも、“多様性を尊重するという立場”を名乗るならば尚更だ。簡単なことではなかろうが、今までとは違ったやり方で、奮起していただきたいと思う。