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先日、アスクヒューマンケアの季刊『Be!』で、ゲーム障害についてインタビューをいただき、「現役ゲームプレイヤーの精神科医という立場から」意見を述べました。このブログで語った内容と方向性は同じだと思います(以下参照)。
[関連]:それはゲーム障害なのか、思春期のトライアルなのか、それとも。 - シロクマの屑籠
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ついでに、「ソーシャルゲームやオンラインゲームで廃課金者*1ができあがる背景」について、プレイヤー側ならだいたい見知っていそうだけど、プレイヤーではない人が知らないかもしれない風景について(確認も兼ねて)記してみます。
世の中には、ソーシャルゲームやオンラインゲームを商っているゲーム企業がいくつもあり、人気ゲームには数十万~数百万人のプレイヤーが集まっています。そうした膨大な数のプレイヤーの大半が課金漬けになっているわけでなく、少数がいわゆる廃課金者となり、さらに少数がゲーム依存やゲーム障害と呼ばれ得る状態になっています。たいていのプレイヤーは、経済的負担や社会的損失が過大にならないよう、コストとベネフィットを見極めながら遊べています。
「財布にやさしい良心的なゲーム」なのに廃課金
では、どんな人がどういうゲームでどんな感じに廃課金しているのか。
私が見聞している範囲でも、廃課金者のありようはゲームによって、あるいはプレイスタイルやプレイヤー本人の性質によってだいぶ違います。
例えばガチャのような射幸心を煽る要素が少なく、課金して得られるメリットの大半がゲームプレイをとおして獲得可能なゲームでも、びっくりするような廃課金を呈する人はいます。
たとえば、ほとんどのプレイヤーが課金せず、一般的なゲームプレイのなかでやりくりできるような(ゲーム内)リソースにもお金を使ってしまう人がいます。ゲームのなかで頻繁に手に入り、現代のゲームプレイヤーなら管理し慣れている基礎的なリソースが課金購入されることはめったにないので、それが割高な価格設定で売られていても、ほとんどのプレイヤーは気にも留めません。
課金で購入せざるを得ないレアなリソースの価格設定が適正で、それをたまに購入すれば事足りるようなゲームバランスであれば、そのゲームはほとんどのプレイヤーからみて「財布にやさしい良心的なゲーム」という評判になります。
世の中のソーシャルゲームやオンラインゲームのけして小さくない割合が、そういう「財布にやさしい良心的なゲーム」で占められています。ゲーム慣れしている人なら、そのゲームが「財布にやさしい良心的なゲーム」か否か、おおよそ見当つけられることでしょう。
ですから、「財布にやさしい良心的なゲーム」で廃課金になってしまう人は、ゲームそのものが問題というより、廃課金になってしまう当人自身の性質を検討しなければならない割合が高い、と私は考えています。
「財布にやさしい良心的なゲーム」と言えるものには、もうひとつのパターンがあります。
背伸びしない遊び方をするぶんには年間に数百円~数千円程度の課金でだいたい遊べるけれども、プレイヤー同士の競争に勝ちたいとか、ゲームのなかで自己顕示欲を充たしたいとか考え始めると急激に課金のレートが上昇するタイプのゲームです。
後述するように、世の中にはプレイヤー同士の競争に勝つことやゲームのなかで自己顕示欲を充たせるようなアイテムを購入することがゲーム内での有利不利に直結するものもあり、そういうゲームは「財布にやさしくない悪魔的なゲーム」と呼ぶべきでしょう。しかし、世のソーシャルゲームやオンラインゲームが皆そうなのではなく、競争や自己顕示欲の充当がトロフィーに過ぎないゲームも結構あります。
この場合も、ほとんどのプレイヤーはレートの高い課金を行わないため、全体としては「財布にやさしい良心的なゲーム」という評判に落ち着きますが、競争やランキングのたぐいを意識するごく少数のプレイヤーによって廃課金が行われることになります。ほとんどのプレイヤーが競争やランキングや自己顕示欲にかき立てられないのに、なぜ、そのごく少数のプレイヤーが廃課金にならざるを得なかったのかが、プレイヤー個別の問題としてまず問われるべきでしょう。
もちろん、これらのゲームを運営している側としては、そうやってごく少数発生する廃課金者をもあてにしてゲームをデザインしているでしょうから、運営サイドに原因の一端が無いなどと言うつもりはありませんが。
「財布にやさしくない悪魔的なゲーム」における廃課金
他方、かなりの割合のプレイヤーを課金に巻き込むタイプのゲームもあります。
課金によってゲームプレイの選択肢が広がりやすいほど、プレイヤー間の競争やランキングがゲームの遊びやすさに直結するほど、そしてガチャをとおして心理的報酬を刺激するデザインが優れているほど、そのゲームはプレイヤーにカジュアルかつ大量の課金をうながすおそれがあり、こうしたゲームはプレイヤーの間でも「財布にやさしくない悪魔的なゲーム」という評判が立つことになります。
いまどきの商売上手なゲームは、プレイヤーに課金させる導線づくりや動機づくり、いわば「ナッジ」の設計がとても巧く、強い意志をもって対峙しなければつい課金したくなるようつくられています。そのようなゲームで課金し過ぎてしまうプレイヤーに関しては、プレイヤー個々の性質を問う前に、ゲームの課金デザインがまず問われるべきでしょう*2。
ゲームの側は日進月歩の勢いでデザインを新たにしているけれども、プレイヤーである人間のほうはファミコン時代からあまり進歩してはいません。今後ますますゲームの商業的デザインが洗練されていくとしたら、ゲームはプレイヤーをますます組み敷き、課金へといざなうことでしょう。
一プレイヤーとしての私は、ゲームが面白く、ゲーム体験が豊穣であれば、そこにお金を払うことにやぶさかではありませんし、それが課金という形式を採ることにも異存はありません。それでも、あまりにもゲーム側の重力が強くなりすぎて、プレイヤーがゲームの重力に魂を奪われた傀儡のように課金する未来がやって来るとしたら、それはやりすぎだと考えざるを得ません。
そんな未来が到来し得るとしたら、今後、ゲーム業界にはこれまで以上の節度や良心が期待されてしかるべきでしょう。
おわりに
「どれぐらい課金デザインの巧妙なゲームなのか、それとも良心的なゲームなのか」といった知識や判断はメンタルヘルスの専門家には求めるべくもありません。また、更に進んだ"ゲーム障害"というステージを取り扱う場面では、重症度の評価や他の精神疾患との鑑別診断にプライオリティがあるのは言うまでもないでしょう。
とはいえ、ほとんどの人が課金しそうにないゲームで廃課金してしまう人と、あまりに強力な行動経済学的カラクリで課金を迫ってくるゲームで廃課金に陥っている人では、やはり相当の違いがあるように見受けられます。専門家にお鉢が回ってくるような場面でも、そこがヒントにはなる場面はあるかもしれません。
ゲームの沼の中から見た風景として、その手触りの違いについて書いてみました。
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