「バイトテロ」でも話題になったネットと承認欲求について専門家に聞いてみました! | 一般社団法人 日本産業カウンセラー協会ブログ 「働く人の心ラボ」
リンク先は、産業カウンセラー協会さんが、先日のインタビュー記事の一部をオンラインに抜粋してくださったものだ。全文掲載ではないけれども、特に後半に述べた私の問題意識はほとんど丸ごと掲載していただいた。
これを再読しているうちに、私が一番ゲームやネットをやり込んでいた頃を思い出したりもした。
皆、何かを切り詰めてハイスコアを目指していた
1990年代の私は大学より長い時間をゲーセンで過ごしていた。とはいえ臨床実習はサボったことが無いし、留年もしなかったので一応の線引きはできていたのだろう、たぶん。
そんな私でも、『バトルガレッガ』と『怒首領蜂』がゲーセンに登場した時は危うかった。1990年代の弾幕シューティングゲームを代表するこの二作品に、私は熱狂した。四六時中ゲーム攻略のことを考えていた。
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私の出身大学の近くには数件のゲームセンター(ゲーセン)があったが、弾幕シューティングゲームの上手いプレイヤーがあまりいなかった。市内には、"全一"*1の栄誉に輝いたことのある一流プレイヤーも何人かいたが、彼らは弾幕シューティングゲームがあまり得意ではなく、敬遠していた。
そうしたいきさつで、私に出番が回ってきた。ゲーセンの店員さんが「君、『ゲーメスト』にスコアネームとスコア載せようよ」と声をかけてくれたのである。地方のゲーセンという小さな世界で、私はだんだんハイスコアを目指すようになっていった。それが、当時の私にはすごく重要なことのように思われた。
朝の臨床実習が終わるや、私はゲーセンに直行した。11時ぐらいのゲーセンは店が空いていて静かなので、集中してゲームをやるにも情報交換するにも都合が良かった。午前の常連のなかには私以外にも大学生が何人かいたが、彼らは私以上にゲームに対して熱心で、やがて留年したり退学したりしていった。もし、彼らの父兄が彼らを2019年の精神科や心療内科に連れていくとしたら、ゲーム障害(ゲーム症)と診断されるだろうか?
いずれにせよ、ゲーセンという空間にはそういう学生がまったく珍しくなかったし、首都圏のゲーセンも似たようなものだったことを私は知っている。
1990年代ということもあって、ハイスコアラーのなかにはフリーターも何人かいた。まだeスポーツなんて言葉は無く、ゲームが上手くてもお金にならない時代だったが、それでも彼らは人生を賭けてゲームに打ち込んでいた。とはいえ、フリーターとして働きながらハイスコアを目指す生活は傍目に見ていてもギリギリで、健康を損ねてしまう人もいた。
ゲーセン仲間から、こんな逸話を聞いたこともある。
曰く。A君は今月の『ゲーメスト』の集計〆切までにどうしてもハイスコアを更新したかったが、ゲームを練習するためのお金が足りなかったので食費を切り詰めることにした。一日に6本の「うまい棒」だけで食いつないでゲーセンに通っていたが、ある日、とうとうゲーセンで倒れてしまって救急車で運ばれた。栄養不良の治療を受けてゲーセンに帰ってきてからは、A君のあだ名は「うまい棒」になった、と。
このA君ほど極端な人は稀だとしても、ゲームに夢中になっている私たちは、必ず何かを切り詰めていて、その切り詰めたぶんをゲームに充てていた。切り詰めていたのは、金銭だったり、睡眠時間だったり、交通費だったり、学校の授業や単位だったりした。そういう人々が血眼になってゲームをやっていても違和感のない雰囲気がマニア系ゲーセンには漂っていた。
ゲームの話しかしないメンバーもいたし、色々な話をするメンバーもいたが、どちらであっても構わなかった。その、どちらでも構わない感じが居心地が良かった。失うものがあったのは間違いないが、私にとってかけがえのない居場所には違いなかった。たぶん、他のメンバーもそう思っていたことだろう。
インターネットという不夜城
それから数年後、私は夜な夜なインターネットを徘徊するようになっていた。
研修医になって以来、だんだんゲーセンに通うのが難しくなっていくなかで、私はインターネットに軸足を移しはじめていた。個人サイトのリンク集をネットサーフィンして、気が済むまでゲームやアニメの情報を読み漁った。と同時に、テキストサイトをはじめ、いろいろな個人サイトでコミュニケーションを楽しんでいた。『PSO』や『ウルティマオンライン』には乗り遅れたけれども『ラグナロクオンライン』には間に合い、20代後半の活力を惜しげもなく流し込んでいた。
インターネットという名の不夜城に、私はすっかり魅了されていた。
もちろん夜更かしをしているのは私だけではなかった。インターネットにおいて午前0時は正午も同然で、誰もその時間を「遅い」とは感じていなかった。テレホーダイの生活習慣の名残り、という部分もあったかもしれない。2ちゃんねるでも、夜はレスポンスが早かった。あの時代のインターネットは、午前2時に向かって加速していくような性質だった。2007~08年頃の、まだマイナーだった時代のtwitterにしても同じだ。真夜中のtwitterは、サバトのごとし。
2019年から回想すると、よくもまあ、みんな不健康なことをやっていたものだと思わずにはいられない。
睡眠不足や昼間の集中力低下をもって「生活への支障」と呼べるなら、当時の私は生活に支障をきたすことがあったように思う。インターネットへのアクセスがきちんとコントロールできていない、と指摘されても、そのとおりとしか言いようが無かった。「午前0時にプロンテラ南口に集合して、午前2時までハイオーク狩りをする」生活は、00年代の私には自然なのものだったが、2019年の私には不健康とうつる。その不健康なネットライフの代償を、当時の私たちは確かに支払っていたように思う。
当時の私にとって、インターネットの不夜城は心理的に必要だったが、その頼りかた、そのコントロールしきれていないありようは、現在の基準では不健康なものと言わざるを得ない。
「疾病の関連要因」とも「貴重な居場所」とも解釈できる
あの頃、ネットで出会った人々の少なくない割合が、メンタルヘルスの治療を受けていたか、後日受けるに至っていた。2010年代以降に発達障害の診断を受けるに至った人もいる。研究報告では、ネット依存はADHDや諸々の精神障害との合併が多いという*2が、少なくとも私が属していた00年代のネットのヘビーユーザーの集まりは、実際、だいたいそんな感じだったと思う。出会った時点では元気だったけれども、後々になって気分障害や不安障害やパーソナリティ障害と診断されるに至った人、発達障害と診断されるに至った人も珍しくなかった。
このように、思春期の私が居場所と感じ、アイデンティティを仮託していた場所はどれも、社会適応の王道からは遠いものだった。多かれ少なかれみんな、何かを切り詰めていたり、不健康をおして娯楽やコミュニケーションを求めていたように思う。みようによっては、社会適応しがたい人々がかろうじて社会にぶら下がるための貴重な場所だったとも解釈できるし、みようによっては、アンコントローラブルで不健康なライフスタイルをもたらす吹き溜まりという風にも解釈できるかもしれない。
ただ、ここ30年ほどの社会変化の潮流を踏まえるなら、90年代のハイスコアラーや00年代のネットのヘビーユーザーのような存在が健康/不健康という尺度でまなざされ、疾病という概念に回収されていくことに必然性は感じる。現在の制度下でも医療保護入院になっておかしくないような(ゲーム障害やネット依存の)中核群だけに病名が適用されるのでなく、もっと広い範囲にも適用されるようになるとしたら……おそらくそれは、精神医学自身の奮闘によってという以上に、社会の側にそのような病名を適用しなければならないニーズが潜在していて……ということになるだろう。
「進歩」が「社会に適応する」を変えていく
平成時代にあり得た居場所が、令和時代に居場所としてNGになる可能性は、私はあると思う。社会適応のマイナーバリエーションとして黙認されていたものが、社会不適応のマイナーバリエーションとして認知される可能性も十分あり得ると思う。そうした可能性は、ゲーム障害やネット依存に限った話でも、精神医学と社会が関わる領域に限った話でもない。平成の30年ほどの歳月のなかで、「社会に適応する」ということの形式や条件はかなり変わった。
一般論としては、その変化は「進歩」と呼んで差し支えのないものだ。だが、「進歩」があったということは、その「進歩」から取り残されたもの、「進歩」からはみ出してしまっているものは、誰かが何かのかたちで取り扱い、「進歩」によって変化した社会の枠組みの内側へと回収しなければならない。
ゲーム障害やネット依存を巡る状況がどう変わっていくかを眺めることで、そうした「進歩」の歩みを見定められるのではないだろうか。
これらの概念が、中核群だけに診断が適用されるものに留まるのか。
それとも数年を経て燎原の火のごときブームになっていくのか。
注視していきたいと思う。
*1:当時の"全一"は、すなわちワールドレコードと考えていただいて差し支えない