仕事が忙しくなり、社会的立場にもとづいて行動する場面が重なってくると、私は人間の皮が剥げて、本来の姿が現れてきそうになる。
世の中には、ほとんど呼吸をするように「人間をやれる」人間と、そうでない人間がいる。
前者は生まれながら、正真正銘の人間といってもいい。最近は正常な人間と書くと誰かに怒られて定型発達と書くのが政治的に正しいのだそうだが、いわゆる発達障害抜きにしても、確かに定型的な人間というか、人間として振る舞う際や、社会的立場にもとづいて行動する際にペナルティ的なストレスやコストを支払う必要のない人というのは、いると思う。
言い換えれば、人間として振る舞う・社会的立場にもとづいて行動することに要するストレスやコストが少なめの人というか。
一方、私のようなそうでない人間もいる。人間らしく、現代人らしく振舞うためには努力が要る。ごく自然に人間をやっているのでなく意識的に人間をやっているとも言えるし、最近のゲーム的表現を使うなら、パッシブスキルで人間をやれるのでなくアクティブスキルで人間をやらなければならないとも言える。
つまり、私とその同類たちは、人間をやるために・社会的立場にもとづいて行動するためにマジックポイントとかスキルポイントとかマジカとかそういったものを消費しなければならない。ゲーム的表現に縁が無い人向きに言い直すなら、「ぐっと息を止めている間に人間をやって社会的立場を遂行しなければならない」と喩えればわかってもらえるだろうか。
で、元気の良い時は私だって中年なんだから、それなり人間をやっていけるし社会的立場もやっていける。四十余年の歳月は、息継ぎをしっかりさえやれば私でも人間の皮を被って生きていけることを証明してくれた。
だが、息継ぎがあまりできない状況が続くと、だめである。
人間を!
やめて!
けだもののようにひきこもりたい!
時々、私に出会ってリアルが充実していると指摘する人がいる。だがそれは私の人間の皮を見てそう思っているだけだし、なまじ皮なものだから、少しツヤツヤにみえるだけのことだ。私は余裕が無くなってくると猛烈に人間がやってられなくなって、社会的立場が白けてしまって、自分の世界に帰りたくなる。ゲームでもブログでも自然でもいい、とにかく、社会の制度や慣習といった重苦しくて、どこか茶番のようだけど茶番だと呼んではならないあのあたりから逃げ出し、透明な政治の針金みたいなもので人間力学が成り立っている世界に背を向けたくなる。
で、今の私はたぶんそうなっている。
もともと私の本業には、社会的立場を伴っている部分と、社会的立場をある程度緩和してくれるところがあって、例えば患者さんと向き合っている時間の何割かは、むしろ私を透明な政治の針金から遠ざけてくれる。もちろん逆に透明な政治の針金を意識せざるを得ない場面もあるけれども、自分自身のことでなく患者さんのことなら、透明な針金で自分の首が締め上げられる心配はしなくていい。
とはいえダメな時はだめで、そんな日は、社会的立場がなまはげみたいに追いかけてくる。で、私は今たぶんそういうものに追い回されていて、小さなタスクが豪雪地帯の雪のように降り積もっていて、そのうえ書籍作成ミッションなどやっているわけだから、髪を振り乱して生きている。まさに人間の皮が剥げてしまいそうだ。さきほども、ある人から「シロクマさん、ちょっと社会性アバターがズレてますよ。」と指摘されてしまった。うん、実はそうなんだ。人間が難しくなってしまってね。
これまでも私は人間をちゃんと遂行するために、社会性を獲得するために、私なりの努力を積み上げてきたつもりである。それで身に付いたものといったら、人間を遂行するための人間の皮がちょっと精巧になったことと、社会的立場にふさわしい振る舞いのシークエンスを覚えただけだった。人間や社会的立場を遂行する際にストレスやコストを支払わなければならない呪わしい性質は、あまり変わらなかった。結局私は、背広を着てネクタイを締めてそれらしい振る舞いを一週間もぶっ続けでやったら、オーバーヒートしてしまうのである。
ひきこもり、けだもののようにマインクラフトで遊ぶのが、今、一番私を癒してくれる選択肢だろう。しかし立場が、状況がそれを許してはくれない。今年はコーヒーを飲んででも戦うのだと決めたのだから、私は戦うのだろう。それにしてもこんな時期に苦手な職務がドサドサ降ってくると泣き言のひとつもいいたくなる。くっそ!人間!