シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

それはゲーム障害なのか、思春期のトライアルなのか、それとも。

 
 
20190220150519
 
 日本産業カウンセラー協会さんの機関誌『産業カウンセリング』2019年2月号の特集「インターネットと承認欲求」にて、インタビュー記事を掲載していただきました。
 ※こちらにインタビュー記事の抜粋が公開されています。→http://blog.counselor.or.jp/business_p/f244

 
 さんざんオフ会に出まくってゲームをやりまくってきたブロガーとしての実体験と、1人の精神科医としてネット依存やゲーム障害と呼ぶべき症例を経験した精神科医としての実体験が融合した内容になったかと思っています。
 
 
 

私がゲーム障害に抱いている懸念

 
 
 このインタビューのなかで、私は以下のようなことを言いました。
 

 総論としてはインターネット依存、ゲーム障害が治療されていくということは、良いことだと思っていますが、過剰診断になってしまうような未来は見たくないんです。世の中には、治療を必要とする人だけでなく、思春期のはみ出しとみなすべき人や、それらに助けられて何とか適応している人もたくさんいます。彼らを肯定的にみる視点を、私は臨床の先生方にも知っていただきたいんです。障害未満のネットやゲームの世界が知られていくことを、切に願っています。

 ゲーム障害(ゲーム症)は、ICD-11という国際診断基準で新たに採用された疾患名で、十分な期間、ゲーム以外の活動や社会機能に重い障害を呈していて、依存の兆候を示しているものが該当するといった感じになっています。ほかの依存症*1の診断基準と比較して、それほどおかしな診断基準だとは思えず、字面のうえでは妥当だと私は思っています。
 
 精神科医をやっている手前、数こそ少ないものの、ゲーム障害が主たる問題とみて差し支えなさそうな症例を経験したこともありました。私自身もネットやゲームにのめり込んできた経験から、過剰診断しないよう細心の注意を払っているつもりですし、それらの診断をする以前に問題とすべき重大な精神疾患(双極性障害、統合失調症、全般性不安障害、等々)や背景としての発達障害には目を光らせてきたつもりです。それでもなお、主たる問題をネット依存やゲーム障害とみなさざるを得ず、ゲームと自分自身との距離がコントロールできておらず、切迫していると判断せざるを得ない症例が存在するのも事実です。 
 
 である以上、ゲーム障害という概念はいまの社会に必要で、そのような症例に対処するメソッドは整備されるべきでしょう。
 
 反面、ゲーム障害と呼んで構わないのか迷う症例も少なくありません。少なくとも私の場合は、ゲーム障害以外の診断を優先させなければならない、まぎらわしい症例のほうが多いと感じています。
 
 
 第一に鑑別診断として。(こちらは専門家にもわかりやすい)
 
 ネット依存やゲーム障害を疑ってご両親が連れてきた青少年を診てみたら、その正体が双極性障害や統合失調症だったことはままあります。種々の不安障害・発達障害・境界知能といった土台のうえに依存がかたちづくられている症例も経験しました。そういった症例においても、ネットやゲームは確かに問題ではありますが、精神科医としてまず対処しなければならないのは、本態としての精神疾患であったり、土台としての発達障害や境界知能のほうであったりします。少なくとも、そういった本態や土台に相当するような精神医学的イシューを放っておき、ネット依存やゲーム障害にフォーカスをあてるのは、本末転倒ではないかと思います。
 
 また、家族内力動*2や家庭外の問題が透けてみえる症例に出会うこともあります。家族内の人間関係や、家庭外の不適応状況を土台として、ネット依存やゲーム障害と呼ぶべき問題が立ち上がってきているような症例です。「悪いのは本人ではなく家族」という考え方は精神科臨床に馴染むものではないとしても、家庭内で起こっている人間関係の問題や家庭外の適応状況にも意識を回したうえで、総合的に診断と治療を考えるのが精神科医の仕事であると私は考えています。こういった症例の場合、(たとえば)両親の求めるままネット依存やゲーム障害と診断して十分とは思えません。よしんばそう診断する必要性があるとしても、家庭内外の諸問題を無かったこととして「本人だけの問題」「本人の病気」として矮小化されないよう、意識はすべきだと思っています。
 
 
 第二に、そもそも障害という枠組みで扱って構わないのか。(こちらは専門家に否定されるかも)
 
 かつては精神疾患や精神障害とは呼ばれていなかった色々なものが、ここ数十年で精神医学の担当範囲になりました。
 そのこと自体は、社会の変化にあわせて必要なことではあったでしょう。
 
 それでも、人間の行動・発達・人生には多かれ少なかれの寄り道があってもおかしくないはずですし、症例として事例化すべき人と、症例未満のものとして目をつむるべき人の境目はつねに曖昧であるはずではないか、と私は考えています。
 
 私は一人のゲームオタクとして、あるいはネットフリークとしてそうした界隈に棲み続けてきました。ゲームをやりこんで大学を留年する者、オンラインゲームで夜更かしを繰り返してしまう者、ソーシャルゲームのガチャに何万円もつぎ込む者が知人友人のなかにはたくさんいました。現在でもそうです。
 
 白状してしまえば、私もそのなかの一人でした。授業をサボって朝から晩までゲーセンに入り浸り、眠い目をこすってオンラインゲームに興じ、ネットサーフィンにたくさんの時間を費やしてきました。現在は、それらがたまたま芸の肥やしになっている側面はあるにせよ、一般的な医師のキャリアとしては褒められたものではないと自覚していますし、見る人によっては「ゲームやネットで身を持ち崩した精神科医」という風にも見えるのではないかとも思います。
 
 そうしたゲームオタクやネットフリークの営みは、eスポーツという言葉もネット依存という言葉も無かった時代から存在していました。私たちは毎日何時間もゲームに打ち込んでいて、いわゆる実生活の機能に多かれ少なかれ支障をきたしていたように思います。どんなにマイナーなゲームでも、全国一のスコアを叩き出そうと挑戦する者は恐ろしく長い時間をゲームに費やさなければならず、そのプロセスのなかで、ゲーム筐体やゲームコントローラに八つ当たりするようなこともありました。イライラしたりゲームのことを四六時中考えずにはいられないこともありました。睡眠時間や学業に影響が出た者もいました。私だってその一人です。
 
 そんな私達のゲームライフを、もし現代の精神科医が操作的診断基準にもとづいて「診断」したら、ゲーム障害という言葉が脳裏をよぎるのではないかと思います。ゲームオタクにとって思春期を賭けたトライアルだとしても、たとえば精神科医からみた時、たとえばご両親からみた時、それは思春期のトライアルとうつるでしょうか。それとも障害とうつるでしょうか。ネットに関する活動にしても同様です。トライアルと障害とを分け隔てているものは、一体なんでしょうか。
 
 もし、「長時間ゲームをやっているから」「ゲーム筐体やコントローラを叩いたから」「大学の単位を落としたから」社会機能の障害や嗜癖の兆候と即断されてしまうようなら、そもそも、ゲームアスリート文化じたいがゲーム障害の温床、またはゲーム障害そのもの、ということになってしまうのではないか──と、私は懸念します。ゲーム障害という診断の普及が、ゲームアスリート文化と共存できるものであって欲しいと願っています。
 
 
 

両親次第では十代のウメハラだって「ゲーム障害」

 
 
 一例を挙げてみます。
 
 先日、eスポーツの草分け的存在である梅原大吾さん(通称ウメハラ)のインタビュー記事が紹介されていました。
 
www.itmedia.co.jp
 

 両親の理解に助けられたところはとても大きいですね。うちの父親の教育方針として、「好きなことを見つけたらとことんやれ」というのがありました。それに対して親は口を出さないと。実は梅原家というのは、ひいおじいちゃんの考え方で、おじいちゃんは自分のやりたいことができず、そのおじいちゃんの考え方でうちの父親はやりたいことができず、というふうに悩まされてきた歴史があります。そこで親父は、時代によって考え方が違っていくから、親の価値観で子どもの将来を決めちゃいけないとずっと心に決めていたみたいです。

 だから、実際ゲームをやめろって言われたことは一度もないんですよ。そのおかげで20代に麻雀にのめり込んだりして、気苦労をかけさせたとは思います。ただ、プロになる時も両親に背中を押してもらった部分もあります。ですから、自分がプロゲーマーになれたのは両親のおかげともいえるでしょうね。
 プロゲーマー「ウメハラ」の葛藤――eスポーツに内在する“難題”とは #SHIFT より)

 なるほど、ご両親の価値観ぬきには今日のウメハラの成功譚は語れなさそうです。
 
 しかしこのようなご両親は少数派でしょうし、「精神科医のもとに『ゲーム障害ではないか』という疑いをもって我が子を連れてくる両親」においてはとりわけ稀でしょう。ウメハラに限らず、思春期をゲームに捧げる青少年のプレイスタイルは、教育熱心な親を怯ませるには十分です。
 
 もし、ウメハラのご両親が「好きなことを見つけたらとことんやれ」という価値観の持ち主ではなく、「しっかり勉強し、良い大学を出て良い企業に就職しなさい」という価値観の持ち主だったとしたら、そしてウメハラを2019年の精神科病院に引っ張っていったら、そこで診察を求められた精神科医は「ゲーム障害」という診断を回避できるものでしょうか。
 
 未成年の教育方針は親が決めることである以上、「ご両親の価値観という文脈によって『ゲーム障害』かそうでないかが左右される」という考え方はある程度理解できることではあります。その一方で、eスポーツが興隆する以前から、ゲームカルチャーには少なからず思春期を捧げるという側面があり、ゲームカルチャー全般が逸脱とみなされやすい文化的背景があることを、ゲーム障害という診断をくだす立場の人は忘れないでいただきたい、と私は願っています。
 
 たとえばの話、ラグビーやサッカーや将棋の部活動に思春期を捧げ、留年することに「障害」や「逸脱」という単語を想起するご両親はそれほど多くはないでしょうけれど、ゲームに思春期を捧げ、留年することに「障害」や「逸脱」という単語を想起するご両親はかなり多いのではないでしょうか。今日の文化的文脈と照らし合わせて考えた時、そうしたご両親の受け取りかたは理解できることではあります。だとしても、ご両親が心配しているから・多かれ少なかれの遠回りがあるから、その青少年をゲーム障害という精神医学の問題系に引っ張りこんで良いのか、それなりの慎重さは求められるのではないでしょうか。
 
 私自身はゲームオタクやネットフリークの世界に長く身を置いていたので、クンフーを積むようにゲームに挑んでいる者や心から楽しんでいる者と、そうでない者を、多少なりとも嗅ぎわけられるつもりです。と同時に、ゲームやネットによって社会不適応が促進されている者と、ゲームやネットによってむしろ生かされている者の違いを意識し続けてきたつもりです。ですが、世の精神科医や臨床心理士の先生がたに、そうした嗅ぎわけをお願いするわけにはいかないでしょう。
 
 なのでせめて、それがゲーム障害やネット依存と呼ぶべき問題なのか、思春期のトライアルやはみ出しと呼ぶべき問題なのか、それとももっと重大な精神科的イシューであるのかに関して、これまでも・これからも慎重に丁寧に見極めていただきたいとお願いしたいのです。
 
 私は精神科医としてのアイデンティティと、ゲームオタク・ネットフリークとしてのアイデンティティを並立させたまま、四十代まで生きてきました。精神医学も、ゲームやネットもどちらも愛しています。ゲーム障害やネット依存の診断が適正になされて、真に治療すべき青少年の助けとなることを願っています。と同時に、真摯にゲームを愛している青少年のトライアルが片っ端から逸脱とみなされないよう、ゲームやネットによってむしろ生かされている青少年を温かく見守っていただけるよう、願ってもいます。
 
 
 つけ加えると、ゲーム業界の方々にも一層のご配慮をいただきたいものです。いまどきのゲームデザインにありがちな、あまりにもプレイヤーをコントロールし過ぎるアレは……もう少しどうにかならないものでしょうか。
 
 
 ゲーム障害やネット依存の適正かつ丁寧な診断と治療、ひいては今後のゲームカルチャーやネットカルチャーのますますの発展を祈念して、本文の結びとさせていただきます。
 
 

*1:より専門的に言えば行動嗜癖

*2:注:家族関係の問題