インターネットを誰もが利用するようになって、ブログやSNSや動画でいろんな人が情報発信するようになった。文章を、フレーズを、コンテンツを配信するようになった。それはそれで結構なことだと思う。
さて、二十年ほどインターネットに文章を書き続けていると、気づかされることがある。
それは、「その年の自分には書けても、5年後の自分には決して書けない文章がある」ということだ。
たとえば、私は2006年にこんなことをブログ記事に書いている。
これから式場の下見に行ってきますが - シロクマの屑籠
とはいえ結婚などという難儀な選択肢を選ぶことも、結局は漏れ出る諸執着に由来するわけで、その限りにおいて落胆や絶望の萌芽から逃げきれません。一方、僕は自分が凡庸な人間である、少なくとも凡庸な人間とそう変わらない行動遺伝学的特徴を持った雄であると推定しているので、凡庸な人生の諸先輩が創りあげてきた世間智から大きく外れないほうが執着の制御が容易なのだろう、とは推定しています。少なくとも僕の場合、結婚せず家族も持たずに生きていくことは、それはそれで(おそらく五十代以降に)相応の渇望を惹起すると予測されるので、結婚という名のコストとリスクを払ってでもその渇望を回避出来やしないか、という企みが結婚には含まれています。
これは、あるブロガーさんへの返答として書いたものだが、こんな内容は結婚直前でなければ絶対に書けないし、こんな漢字だらけの文章に仕上げることは今ではあり得ない。ゆえに、現在の私には貴重なアーカイブになっている。
ブログ記事の集合形とも言える以下の本にも、同じことが言える。
「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?
- 作者: 熊代亨
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2018/02/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この本には、40歳~41歳の私が考えていた「年の取り方」についてのアイデアが詰まっている。30代の頃の私はもちろん、現在の私も、ここに書いてあるアイデアのとおりには考えない。率直に言って、この本を今読み返すと気恥ずかしくて仕方がない。
ただ、いずれ気恥ずかしくなるだろうという予感は書いていた頃にもあって、私は後書きに以下のようなことを書いていた。
私はこの本に43歳時点の、嘘偽りのない気持ちを書き綴りました。ということは、50代の私からみれば、相当に青臭くて、肩に力の入ったことを書いている可能性が高いと想像されます。ちょうど30歳の頃の私の文章を、私がいま読むと苦笑せずにはいられないのと同じように。この本は、10年後の私から見て、黒歴史として記録されることでしょう。私は今、すごく恥ずかしいことをやっているのです。
いやー、ネットスラングでいう黒歴史としか言いようが無い。それだけに、あの時期に書いておいて本当に良かったと思っているし、この本は40~41歳の頃の私を忠実に念写したアーカイブとして価値がある。
「年を取れば取るほど、書けば書くほど書けることが増える」というのは、知識やテクニックの点ではそのとおりかもしれない。しかし文章は知識やテクニックだけで紡がれるわけでなく、自意識、年齢、境遇が色濃くにじみ出るものなので、その時にしか書けない文章・今しか書けない文章というのもやはり存在する。
「今しか書けないこと」が自分史になる
この文章のタイトルは「『いかがだったでしょうか』さん、今しか書けないこと、書いてますか。」となっている。薄いインクで印刷したような、量産型ブログ記事を機械的に書いている書き手をdisりたい雰囲気のタイトルだが、これはタイトル詐欺みたなもので、量産型ブログ記事を機械的に書いている書き手をdisりたいわけではない。
そうでなく、今しか書けないことを大切にしていない人をdisりたい気分になっている。
たぶん世の中には、ブログ記事の締めを「いかがだったでしょうか」で締めくくってはいるけれども、そういう量産型ブログ記事の呈をなしながら今しか書けないことを書いている人、今しか書けないことを書くためのフォーマットとして「いかがだったでしょうか」系のテンプレートを必要としている人もいる。
「いかがだったでしょうか」でブログの末尾を締めくくっているからといって、どうしようもないブログ記事とは限らない。
「いかがだったでしょうか」系のブログでも、自意識の量り売りをしている人気ツイッタラーでも、悪魔に魂を売っている動画配信者でも、その人がその時にしかできない表現をしている限りにおいて、それは「今しか書けない(表現できない)こと」というそれ独自の価値を持っている。第三者はそのような価値に気付かないし、何年経ってもワンパターンだと認識する人もいるだろう。もちろんこれは、他人に認めていただけるようお願いするような向きのものでもあるまい。
けれども実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
ある時期・ある年齢・ある境遇を反映したブログ記事・つぶやき・動画は、自分史(=バイオグラフィー)を振り返るうえでまたとない遺産になる。
なるべく批判されにくいアウトプットを心がけるのも、なるべく沢山の人の目を惹くアウトプットを心がけるのも、それはそれで必要なことかもしれないし、価値のあることかもしれない。だけど、文章やつぶやきや動画をアウトプットするのが当たり前になった今だからこそ、それらが個人的なバイオグラフィの構成要素たりえて、他人の称賛やPV数とは異なったタイプの価値を伴っていることは、折に触れて強調しておきたい。
疎外から身を護るために「今しか書けないこと」を書く
それともうひとつ。
他人に「いいね」を貰いたいとかもっとPVが欲しいとか、そういったニーズに応えるためにアウトプットしていると、自分が何のためにアウトプットしているのか、なぜアウトプットしたがっているのか、そもそもこのアウトプットは自分がやらなくても構わないものなんじゃないか ……といった混乱が起こることがある。いや、混乱というより疎外というべきか。少なくとも私は、アウトプットが独り歩きすると、混乱や疎外を感じてしまう。
世の中には、自分がアウトプットする文章やつぶやきや動画と、自分自身の考え・関心・境遇とが分裂していても、混乱や疎外を感じない人がいるようにもみえる。ある種のきわめてプロフェッショナルな書き手や動画配信者は、そうなのかもしれない。
だけどそういう人は少数派なので、大多数の人は、自分自身と、自分のアウトプットの間になんらかの関連性や整合性を保っておいたほうが良いと思う。
この、「自分自身と、自分のアウトプットの間の関連性を保つ」ための方法としてイージーで、無意識のうちに辻褄を合わせやすいのが「今しか書けないこと」をアウトプットすることだ。そういう意味では、SNSの「あなたは今なにしてる?」という決まり文句は親切だ。今やっていること・今思っていることを正直に書きさえすれば、自分のアウトプットに疎外される心配はなくなる。
もちろん現実のSNSにおいて、今やっていること・今思っていることを正直に書くのは、振り返ってみれば難しい。カネやコネや政治にアカウントを売り渡してしまえば、正直に書くのは驚くほど難しくなるだろう。カネやコネや政治に魂を売れば売るほど、疎外が迫ってくる、とも言える*1。カネやコネや政治を意識しつつ、今しか書けないことを書くためには、それなりのテクニックと素養が要る。ひょっとしたら、純粋な文章のテクニックより、そういった心理的な辻褄合わせのテクニックのほうが、ネットで長生きするには重要なのかもしれない。
いかがだったでしょうか
大多数の書き手や配信者は「今しか書けないこと」「今しか表現できないこと」を大切にしたほうが良いのだろうし、実際、多くの人は無意識のうちにそれを大切にしているのだろう、と思う。だが、ときに人はカネやコネや政治を優先させたくなるあまり、今しか書けないことを蔑ろにしてしまい、ちょっと荒れた後に消えてしまうアカウントも稀によくある。それは自分史という観点からもったいないだけでなく、アウトプットに自分自身が疎外されるかもしれないリスクを冒した結果だと思うので、ほどほどにしておいたほうが良いのだと思う。
いかがだったでしょうか。
ネットで20年ぐらい書き続けている私からは、以上です。
*1:ごく稀に例外がいて、どんなにネタやウケやコネや政治に魂を売っても蛙の面に水、といった風情の人がいるけれども、それは一種の特異体質なので真似をしようとすれば火傷をしかねない