シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「大人」になるメリットが見えていた社会/見えにくい社会

 
「若者」を欲しがる企業が、「成熟できない中年」を生み出している。 | Books&Apps
 
 リンク先の記事では、企業が「若者」を欲しがっていること、資本主義の現状が「大人」よりも「若者」を求めていることが指摘されている。本当にそのとおりで、現代人が「若者」的なメンタリティを畳んで、次の段階に移行することの妨げになっていると私も思う。
 
 少し話がそれるが、「若者」であるメリットがはっきりしている現代社会は、「大人」的なメンタリティに移行するメリットがはっきりしない社会でもある。
 
 流行や社会の変化に敏感で、自分自身の成長を最優先にできるメンタリティは、資本主義のバトルロワイヤルを戦い抜く人にとって有利なものだ。バトルロワイヤルの渦中にいる人にとって、自分自身の成長を最優先にしないメンタリティなど、自死にも等しくうつるかもしれない。「若者」であり続けることが、現代の資本主義社会への適応である側面は決して見逃せない。
 
 だが、資本主義のバトルロワイヤルが「大人」的なメンタリティを衰退させた張本人かといったら、そうではない。まだバトルロワイヤルが本格化していなかった20世紀の後半のうちには、「大人」的なメンタリティに移行するメリットは見えなくなっていた。
 
 

NHK中学生・高校生の生活と意識調査2012 失われた20年が生んだ“幸せ

NHK中学生・高校生の生活と意識調査2012 失われた20年が生んだ“幸せ"な十代

 
 上記書籍によれば、1980~90年代の中高生は、既に「大人」になりたがっていなかった。今日ほど資本主義的バトルロワイヤルが苛烈でなかった時代でさえ、「大人」になりたいと思う者は少なかった。バブル崩壊前から、日本社会は「大人」になるメリットが見えにくくなっていた、というわけだ。
 
 

「大人」になるメリットが見えていた社会

 
 対照的に、戦前社会には「早く『大人』になりたい」という言葉があった。
 
 こちらの記事で引用した土井健朗のフレーズに、【青春の季節は、大人に早くなりたい、子どもだとあなどられたくない、という生き急ぎの季節だと思っていたが、昨今はどうも生き遅れの季節であるらしい。】とあるように、昔は「早く大人になりたい・子どもだとあなどられたくない社会」が存在していたわけだ。「大人」になるメリットが可視化されていた社会だった、ともいえる。では、「大人」になるメリットとはどういったものだったのか。
 
 別の調べ物をしていた際に、これに関連した記述に出会ったので、引用してみる。
 

「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)

「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)

 

 内閣統計局の工場労働者賃金調査では、昭和六年の工場労働者の一日あたり平均賃金は一円八十七銭で戦前の最低だが、小学校を出たばかりの見習工ではさらにその四分の一か五分の一しかもらえなかったらしい。当時の工場労働者の一日平均労働時間は九時間から十時間なので、子供でもしっかり大人並みに働かせたわけだ。一般労働者の月の就労日数は二十六日から二十八日が普通で休みは週一回あればいいほうだった。子供でもそれだけ働けば十円以上になったはずだが、実際はそんなに払ってくれなかったようだ。

 
 昭和以前の日本社会には、見習いや年季奉公といったかたちで、「大人」ではない者を労働力として酷使するようなシステムが存在していた。これは日本に限った話でもなく、19世紀~20世紀のイギリスやスペインでも、子どもは安価な労働力として酷使されていた。親の側もまた、子どもをそのような労働力として期待している向きがあった。
 
 このような社会では、子どもであることのメリットは乏しい。子どもは親の言いなりで、望むと望まざるとにかかわらず働かなければならない。高等教育を受けられる者ですら、見習い労働力として安い賃金を稼いで家計の足しとしなければならないことがしばしばあった。この時代の「苦学生」の苦労っぷりは、並大抵ではない。
 
 

【文庫 】君たちはどう生きるか (岩波文庫)

【文庫 】君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 
 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』には、豆腐屋の手伝いをしながら学校に通い続ける、浦川君というクラスメートが登場していた。エリートの集う学校において彼は貧しい存在であり、「油揚げ」というあだ名をつけられ苦労をしていた。しかし、そんな浦川君の家庭にも豆腐屋の事業を行うための機械装置が据え付けられ、使用人が雇われていた。
 
 浦川君が苦しい思いをしているのは事実だが、彼に丁寧な言葉を使っていた若い使用人のほうが一層シビアな境遇にあったことに、『君たちはどう生きるか』はきちんと触れていた。
 
 子供の大半が安心して育ち、進学できるようになったのはごく最近のことだ。また、今日では虐待やネグレクトに相当するものも、かつては常識の範疇に入っていた。そのような時代の子どもたちが思春期を迎えて、一刻も早く「大人」になりたいというのはよくわかる話だ。早く一人前になって一人前の給料を貰いたい、というのは切実なニーズだっただろう。
 
 「大人」になるメリットが見えていた社会とは、一刻も早く一人前にならなければならず、一人前にならなければ生存もままならない社会だった、ともいえる。勿論このような社会にも例外はいて、江戸川乱歩の作品にしばしば登場する"高等遊民"などはその最たるものだろう。ただし、金持ちの家の三男坊ぐらいにしか許されないものだったが。
 
 

80年代~90年代は、「大人」を急ぐ理由が全く無かった

 
 このことを踏まえたうえで、昭和の後半~平成の前半に立ち返ってみよう。 
 
 戦後の数十年で、子どもの置かれている社会状況は激変した。
 
 子どもが食うや食わずのために働かなければならない状況は、どんどん減っていった。戦後しばらくは、新聞配達をしながら働く学生なども珍しくなかったが、親の仕送り額の増大とともに減っていった。大学進学率は増え続け、仕送りの金額もどんどん増えていった。"一億総中流"と言われる頃には、お金の稼ぎ方についての考え方が変わって、子どもを若い頃から働かせるより、大学に進学させて年収を高くすることをみんなが願うようになった。
 
 こうした高学歴・高収入志向は、前掲の『「月給百円」のサラリーマン』の時代にも存在していたが、高学歴を目指せたのは一部に限られていた。ところが高度経済成長が終わってからは、それこそ国じゅうが高学歴・高収入志向に変わっていき、中卒で働く人は皆無に近くなり、大卒の割合は急激に高まっていった。
 
 バブル崩壊後も、こうした考え方は残った。親は子どもに高学歴・高収入を夢見て、子どもの側もまた、気に入った勤め先や居場所を見つけるまではモラトリアムで構わない、と捉えるようになった。モラトリアム期間のうちは好きなように過ごすことが許容されがちで、海外を放浪するなど「自分探し」をする者も珍しくなかった。テレビ番組『あいのり』がヒットしたのも、そういう時代の空気を汲み取った企画だったからだろう。
 
 子どもでなく、さりとて旧来の大人でもなく、大人の役割を免れているようなモラトリアムな立場・状況のことを、「若者」という。もともと、「若者」という心性は、高学歴化や家庭の経済事情の変化、モラトリアムの許容に裏打ちされて成立してきた。日本に先立ってアメリカで「若者文化」が花開いたのも、豊かな大衆社会をアメリカが一回り早く実現させたからだ。豊かさによってモラトリアムが許容されるようになり、世界に先んじてアメリカの「若者」と「若者文化」が開花したわけだ。
 
 

「若者」を成立させていた豊かさは失われ、「若者」的に働くニーズが残った

 
 しかし周知のとおり、このような経済的豊かさはだんだんに失われていった。少なくとも、一億総中流といわれるような、誰もが親のすねをかじって大学に進学できるような世の中ではなくなってきた。
 
 じゃあ、「大人」になるメリットを皆が思い出すかといったら、そんなことは全く無かった。
 
 高学歴・高収入志向を地で行くようなアッパーミドルな人々は、新しいテクノロジーや流行を追いかけ続け、職場や人間関係を固定するのでなく、転職や転属を厭わずキャリアアップしていくことを望んだ。冒頭リンク先で指摘されているとおり、今日の資本主義の現状は「若者」的な働き方を強いてくるところがある。資本主義のバトルロワイヤルに適応するためには、いつまでも若者のように生きていくことがベターにみえてしまう。
 
 他方で、非正規雇用や派遣労働といった言葉を頻繁に目にするようになってからも、そうした立場の人々が「大人」という言葉と正規雇用や正社員を結び付けることはなかった。ましてや、そういった立場の人々が「一人前になりたい」「若者扱いされるのは嫌だ!大人とみなされたい!」などと声をあげることもなかった。
 
 なぜなら、【「大人」=「一人前の給料がもらえる」→早く「大人」になりたい!】という考え方自体が、すっかり忘れ去られてしまっていたからである。
 
 

まとめ

 
 このように、「大人」という言葉からは経済的なニュアンスが切り離され、「若者」に比べて資本主義バトルロワイヤルで不利なだけの、メリットも捉えどころもわかりにくい言葉になってしまった。
 
 当初、「大人」が廃れて「若者」が流行になっていった背景には、経済的な豊かさを前提とした、思春期のモラトリアム期間の浸透があったし、だからこそ子どもは「大人」へと急くことなく、「若者」という立場に留まるようにもなった。
 
 しかし、不景気が続いて再び経済事情が厳しくなってきた今日でも、「大人になりたい」は思うほどには復活しなかった。子どもや若者が教育・療育の対象として大切にされ続けているのがその一因であろうし、今日の資本主義バトルロワイヤルに勝ち抜くためには「若者」のままでいたほうが有利というのも一因だろう。また、【「大人」=「一人前の給料がもらえる」→早く「大人」になりたい!】という考え方が、あまりにも遠い昔のことになって、忘れられてしまったというのもあるだろう。
 
 いずれにしても、「大人」になるメリットが見えていた社会は遠い昔のことで、現在は「大人」になるメリットが見えにくいままである。こうしたことも、人生を年齢にあわせてシフトチェンジさせていくことの難しさに繋がっているのだろう。