シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『パーティーが終わって、中年が始まる』にかこつけて日本社会を語ってみる

 
2024年7月は複数の原稿・ご依頼が重なり合い、生きた心地がしなかった。でも、phaさんの『パーティーが終わって、中年が始まる』には目を通してみたくなって、頑張った私へのご褒美として週末に読んだ。この文章では、前半で同エッセイについて簡単に紹介し、後半は同エッセイにかこつけて日本社会のパーティーが終わった件について好き勝手なことを書く。
 

 
『パーティーが終わって、中年が始まる』は、かつてはシェアハウスを運営し、京大卒ニートとして一世を風靡したphaさんが2024年に出した新作エッセイだ。SNSなどをとおして、phaさんが既にシェアハウスから退き一人暮らしをしていたことは知っていたから、そうしたライフスタイルの変化が綴られている書籍だろうと予測していたが、実際、そうだった。phaさんが実体験したライフスタイルの変化、身体的・社会的前提の変化、といったものが読みやすく綴られている。
 
活動的で楽しかった思春期青年期をパーティーになぞらえるとしたら、中年期はそのパーティーが続けられない季節になる──それは一種の比喩で、現実のお祭りやパーティーに全く参加できないことを意味しているわけではない。たとえば当のphaさんのXを観ると、7月26~28日にもどこかにお出かけになって親交を深めている。
 
それでも、何も変わらないわけではない。
人間は生物学的にも社会的にも加齢する生き物だからだ。
 
若い頃にはなんともないどころか楽しくすらあった18きっぷや高速バスによる移動は、その楽しさより疲労が意識されるようになる。どれほど若者気分で振舞ったところで、本物の若者たちの前ではそれが色あせ、自分は若者たちに比べて年長の存在だと意識せざるを得なくなる。*1 性的な欲求や煩悶が行動を左右する度合いも、良くも悪くもだんだん少なくなっていく。そういった中年期の入口にありがちな気づきをphaさんも感じ取っていたのは、そうだろうと予想できることでも、実際に読んでみるとなんだか衝撃的だった。
 
だからといってphaさんが「変節した」などと批判するつもりはない。加齢する社会的生物として、人は変わっていくもので、それが定めだからだ。その定めから逃避しようとするより、その定めを見据えて新しい暮らしを構築していくほうが、よほど建設的だ。思春期青年期のパーティー性に頼って生きてきて、これから中年期を迎える人は、phaさんが書いた変化に目を通しておいて損はないだろう。
 
 
私個人は、そうしたphaさんが書き綴った内容よりも、phaさんの書き綴り方、ひいては出版された商品としての『パーティーが終わって、中年が始まる』に強く惹かれた。
 
もともとphaさんのエッセイは読みやすく、テンポが良く、散らかった随想のようにみえてそれぞれの内容が繋がりあい、いわば"pha節"とでもいうものを醸し出していたが、本作でもそれは健在だ。いや、短調のような調子の本作において、"pha節"は冴えわたっている。
 

 ときどき、コンビニやファミレスなどのチェーン店で、店員と長々と世間話をしようとするお年寄りを見かける。昔は店の人と雑談をするのが普通だったから、そのときの間隔で話そうとしているのだろう。でも、今のチェーン店はそんな雰囲気じゃない。時代の変化に慣れていないのだろうな、と思ってしまう。
 自分もそんな感じの年寄りになるのだろうか。十年後や二十年後、若い人が完全に自動化された接客に特に違和感を持たない中で、僕ら世代の年寄りだけが「人の温もりがない」とか「ディストピア」とか時代遅れな愚痴を言って、若い人たちに疎ましがられるのだろうか。
 それは嫌だ。時代についていきたい。でも、世代によってついていける限界というのも、あるのかもしれない。
 (『パーティーが終わって、中年が始まる』所収、「どんどん自動化されていく」より抜粋)

 うまい文章だと思う。
 少なくとも私はそう思う。読みやすく、わかりやすく、リズムがあり、内容と抒情が読む者にスッと入ってくる。私のお気に入りは、このセンテンスの一番最後のところだ。"それは嫌だ。""時代についていきたい。"エッセイのなかにこういう言い切りを投げ込むのがphaさんは抜群に巧い。私も下手の横好きでエッセイは書き続けているけれど、こういうの真似しようと思ってもなかなかうまくいかない。
 
最後の"ついていける限界というのも、あるのかもしれない"もいい。ライティング指南では、"というのも"や"あるのかもしれない"は冗長な言い回しとみなされ、もっと簡潔にしなさいとなるだろう。でも、phaさんのソレは読者が読むことを助けている。情報を伝えるだけなら短く切ったほうがいいし、それはエッセイというジャンルでも例外ではないが、ここでは情報だけでなく情緒やエモーションも伝えたいわけで、実際、このちょっと冗長な言い回しのおかげで読後感がウェットになる。短い言い切りを織り交ぜた文体のなかにこういう言い回しが挿入されているから、なお印象に残るのだろう。
 
phaさんのこうした文体は訓練の賜物なのか、センスに由来するのか? ともあれ、エッセイとしての『パーティーが終わって、中年が始まる』の完成度は高く、書き方・読ませ方の巧さが売上を底支えしている一面はあるだろう。それからphaさんのエッセイをこのように束ねた担当編集者もいい仕事をしているのかもしれない。いい企画に、いい人を選び、いいエッセイ集にまとめたものですねと思わずにいられなかった。
 
 
※ついでなので、私が中年期について数年前に書いた本も宣伝しておきますね。

 
 
  

パーティーが終わって中年が始まった社会について

 
『パーティーが終わって、中年が始まる』というエッセイについてはここまで。
ここからは、本作品を読んでフワーッと私が連想したこと、これに乗じて語ってみたくなった日本社会について書く。
 
『パーティーが終わって、中年が始まる』はphaさんの個人的な体験をベースにしているが、AmazonのレビューやXに投稿された感想は、phaさんのそれに心動かされた人がたくさんいることを示唆している。
 
phaさんは1978年生まれ、いわゆる就職氷河期世代にあたる。
 
現在の日本の人口ピラミッドを振り返ってみると、就職氷河期世代はマスボリュームのピークのひとつを形成している。
 

(※出典:国立社会保障・人口問題研究所 https://www.ipss.go.jp/site-ad/TopPageData/PopPyramid2023_J.html)
 
中年、という言葉を意識しながらこの人口ピラミッドのグラフを眺めて私が思うことは2つだ。
 
ひとつは、今日、phaさんや私のような中年は日本社会においてありふれた存在、マスボリュームの真ん中を占める世代であること。だからエッセイにしろアニメにしろグルメにしろ、何かを売ろうと思った時にターゲットとして真っ先に挙がるのはこの世代だ。もちろんこの上には団塊世代が存在しているが、彼らの多くは現役を退き、その影響力や経済力の盛期は過ぎている。
 
私たち中年世代のプレゼンスが非常に大きいと言えるし、そんな私たちは、若い世代からは存在感過剰とみられている可能性が高い。
 
もうひとつは、日本社会全体が中年化、なんなら老年化していること。
さきほど私は人口ピラミッドという言葉を使ったが、この人口動態のグラフにはピラミッドの面影はない。いわゆる壺型の人口動態になってしまっている。この人口動態をもって、国全体の平均年齢が上がり、国全体が老いていると言っても大きな間違いではなかろうし、実際、パレスチナやベトナムなどと比較した日本は、中年と老人の国だろう。
 
phaさんのエッセイに心動かされる人が多い国とは、中年の国である。高度経済成長と人口ボーナスという観点からみれば、日本社会全体がパーティーだったのは朝鮮戦争特需のあたりからバブル崩壊あたりだった。いや、バブル景気までに蓄えた富と技術、団塊世代~就職氷河期世代までがつくりだした内需、それらが生み出した日本円の強さといったものが重なり合った結果、21世紀に入ってからもしばらくは日本社会は元気があった。就職氷河期世代が三十代前半だった2010年ぐらいまでは、だいたいパーティーだったとか、パーティーの余韻が残っていたと言って差支えなかったと思う。
 
社会全体にパーティーっぽさがあれば、パーティーっぽい言説が流行り、パーティーっぽいライフスタイルや風俗が流行る。
 
「終わらない思春期」とか「まったり生きる」とか「エンドレスエイト」とか、なんとも呑気な言説が寿がれたものである。2010年代の前半あたりまでは、コスパやタイパといった言説も猖獗をきわめていない。そうした呑気な言説が寿がれたのは、社会全体が若くて、ひとりひとりの暮らしぶりや人生の展望も呑気で、ケセラセラで済ませて構わなかったからだろう。そして社会全体が若かった頃は、若者のエネルギーが街全体に帯電し、若者の流行が街のカラーを決定づけ、若者のムーブメントを資本主義に取り込み、搾取しようとする中年や高齢者が暗躍してもいた。
 
しかし現在は……そうではない。
現代の日本社会では若者はマイノリティだ。政治経済の枢要は中年や高齢者に占められ、そうした年寄りどもは票田としても売上としても同世代をあてにしている。若者のエネルギーが帯電している街、若者の流行がカラーを決定づけている街は、今、どこにどれだけあるだろう? 少なくとも過去の渋谷や新宿や秋葉原にあった、あの積乱雲のような若者のエネルギーはそれらの街にはなく、インバウンド観光客の賑わいに置き換えられている。
 
そして『パーティーが終わって、中年が始まる』のなかでphaさんも述べているように、デフレをあてにしたライフスタイルは持続困難になろうとしている。
 

 景気が悪くて収入も不安定。それでもなんとかやっていける気がしたのは、デフレで物が安かったからだ。低賃金と低価格がギリギリのところでバランスを取っていたのだ。
 デフレが続いていたゼロ年代にはたくさんの安価なチェーン店が日本中に広がった。
 ファミレスやファストフードブックオフやユニクロなど、昭和の商店街にあるような地元密着で非効率な店とは違う、綺麗で安くてシステマチックな平成の新しい店たち。
 (中略)
 昭和的な古臭い店ではない、新しくて綺麗なチェーン店は、自分たちのためにあるような感じがした。日本の文化が失われつつあるのでなく、むしろこれが新しい日本の文化なのだ。そんな気持ちで、ファミレスやハンバーガーショップにたむろしていた。
 
 しかし、その長かったデフレ時代が終わりつつある。
 (『パーティーが終わって、中年が始まる』所収、「デフレ文化から抜けられない」より抜粋)

 デフレをあてにした平成風のショッピングと24時間営業のファミレス。それらは経済的に富裕でなくても必要十分なインフラだった。活気があり、箸が転がっただけでも楽しい若者にとっては特にそうだったと言える。しかし日本社会のパーティーが終わった結果、それらは続かなくなってきている。
 
私の場合、そうした持続困難性を地方の国道沿いの風景のなかに見てしまう。あまり見慣れない人にとって、地方の国道沿いの風景は代わり映えしないように見えるかもしれないが、決してそうではない。その末端から少しずつ枯れてきているし、若者のための娯楽施設の数が減り、老人ホームや葬祭センターの数が増えている。パーティーが終わったのはphaさんだけでも、就職氷河期世代だけでもなく、ある程度までは日本社会も同様だったりする。
 
 

年老いていく日本社会はどこに行くのか

 
着実に年老いていく日本社会の行き着く先はどこだろう?
 
未来は読みとおせるものではないし、大規模な戦争が起これば既存の社会など簡単に壊れてしまう。だから「知らんがな」としか言いようがないのだけど、人口動態を振り返る限り、私たちが生きているうちに日本社会が若返ることが決してないことだけは間違いない。その、皺だらけになっていく日本社会において、パーティーと呼び得るものは何で、私たちはどのように*2パーティーをやっていくのか? 社会においては、それは政治が司るに違いない。個人においては……パーティーが好きな人やパーティーに未練のある人は、そこのところをよく考えて行動しなきゃいけないのだろうな、と思う。
 
 

*1:ちなみにphaさんに若者気分を困難にさせている一因は、ちゃんと年下の・正真正銘の若者とやりとりがあるからでもある。年下とマトモな接点のない中年は、正真正銘の若さを直視できないから、自分はまだ若者だと錯覚しやすい。逆に言うと、永遠に若者気分に留まりたい人は、自分と同年代とだけ付き合うか、誰とも付き合わないのがかなり有効な方法になる。

*2:それから誰と・どこで