シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

人が「何者かになる」というのは、不純なことでもあります。

 
ネット文化の主役になりつつある、「何者か」になりたい若者たち【りょかち】 | Agenda note (アジェンダノート)
おっさんになる覚悟<猫を撫でて一日終わる>pha - 幻冬舎plus
 
 先月、久しぶりにブログでも読んでみるかーと巡回したところ、たまたま対照的な二つのブログ記事にほぼ同時に出くわし、何者かになろうと飛翔する若者と、その若者の季節が終わった非-若者のコントラストに、ちょっと頭がくらくらした。
 
 自分自身を何者かにするために無我夢中でもがくこと。
 
 世界の主人公は自分であるという確信。
 
 人生のハンドルを握っているのは自分自身であると信じて疑わない姿勢。
 
 これらは、若者の特権だと私は思う。
 
 元気の良い若者には似つかわしいものだし、悪性の自己中心主義だとは思わない。そういう若者でも社会に貢献できる世の中になっているし、なにより、こういった確信や姿勢を持っていられるのは、まだ何者でもない、若いうちだけなのだから。
 
 自分を世界の主人公とみなして、自分自身のために、真摯に頑張れるのは若者の輝きだ。若者ではなくなった私は、そのように思う。
 
 

三十代という曲がり角

 
 だけど、冒頭リンク先でphaさんがおっしゃっているように、若者という立場には時間的な限界がある。
 
 一人でいる時や、同世代とつるんでいる時には、たとえば「三十代だけどまだ若い」と思い込み、そのように振る舞うのは難しくはない。四十代、五十代になってすら不可能ではないだろう。
 
 けれども自分よりも年下の若者と接点を持っていると、じきに気付くはずだ。自分よりも若者然としているのは、年下の連中であるということに。自分自身に無我夢中になっている度合いも、人生を操縦してやろうと必死にハンドルを握っている必死さ加減も、年下の彼らほどではなくなっていることに。新しいカルチャー、新しい習慣、新しいテクノロジーを造作もなく身に付けていくのも、彼らであるということに。
 
 そういったことは20代のうちから推測できなくもないし、ひょっとしたら、理解も可能かもしれない。しかし、推測が理解になり、理解が現実となって肌に吸い付いてくるのはもっと後のことである。
 
 三十代は、そうした肌に吸い付いてくる現実を脇に置いて、若者的な心理をキープするのがそれほど難しくない時期だ。それでも我が身を振り返れば、そういった若者仕草が意図的になっていることに気づくはずだ。無意識のうちに流行の渦中にいるのでなく、意識して流行をトレースするようになったら、もうド真ん中の若者とは言い難い。自分自身に無我夢中な心理も、醒めていくスープを暖め直すような意図的なものになってしまったら、ド真ん中の若者とは言い難い。
 
 「ド真ん中の若者とは言えない境地になっても、若者としての自分をどこまで引っ張るのか? それとも、自分はもう若者ではないと割り切って、ネクストステージを迎えるための心の準備をしていくのか?」
 
 この疑問文の答えは、その人のライフコースの速度によって違ってくるから一概なことは言えない。若者真っ盛りの十代~二十代の人は意識する必要すらないだろう。けれども三十代の人は、そろそろ気にしておいて、若者ではなくなった境地に思いを馳せてもいいのではないか、と私は思う。
 
 三十代も後半になってくると、いい加減、自分が世界の主人公だなんて思い込めなくなってくるし、自分で自分の人生のハンドルを握っているという感覚もボヤけてくる。立身出世の有無、既婚か未婚か、子育てしているかしていないか等々にかかわらず、自分というものが自分だけで成立しているという天動説的世界観が三十代以降も成立する人は、たいしたものだと思う。少なくとも現在の私には不可能な思い込みだ。
 
 世間で生きて、世間に絡めとられると、自意識の天動説が維持できなくなってくる。
 
 

ホリエモンも、世間に絡めとられていると私は思う

 
 こういうことを書くと、たとえば堀江貴文さんのような例を挙げて「いつまでも自由に生きる人がいる」と反論する人もいるかもしれない。
 
 私の見解は違う。
 
 私は、ホリエモンが本当に自由に生き続けている永遠の若者だとは思っていない。あの人は、これまでの行いの積み重ねの結果として、自由に生き続けているタレントを続けなければならなくなった人ではないか、と思っている。
 
 いわゆる「何者かになる」というのも、究極的にはこういうことなんじゃないだろうか──ホリエモンのように生き続けようが、典型的なサラリーマン人生を生き続けようが、これまでの行いの積み重ねによってひとつのタレントができあがり、それが生活と不可分に結びついたら、その人はもう「何者かになった」と言えるのではないか。それは喜ばしいことばかりとは限らない。一般に、できあがったタレントや立場は、生活と結びついているから着脱自由とはいかない。ホリエモンのようなタレントでも、プロの小説家でも、一般的なサラリーマンでも、たぶんそれは同じだ。若者としての可能性がタレントや立場に転換されてしまった時、人は「何者かになる」と同時に、世間に絡めとられて不自由になる。
 
 そういう観点でいうなら、ホリエモンはまごうかたなき「何者か」であって、若者ではない。
 とうてい、人生の余白多き、まっさらな若者と同列に論じられる存在ではない。
 
 

「大人は汚い!」「それでも生きていくんだよ!」

 
 だんだん話がズレてきたのを承知のうえで、個人のブログらしく終わりに持っていこう。
 
 まだ人生の余白が真っ白な若者には、タレントや立場といったものができあがっていない。それは、とても清純なことだ。対して、長く生き、結果としてなんらかのタレントや立場ができあがって「何者」かになりおおせた大人たちは、不自由であり、ある面で不純でもある。
 
 だから今の私には、「大人は汚い!」という言葉がすごくわかる。「何者か」になった大人のポジショントークを汚いと指摘する資格が、まっさらな若者にはあると思う。
 
 ただし、可能性がタレントや立場が転換されるにつれ、若者はまっさらではなくなり、「大人は汚い」という台詞が似合わなくなる。この観点でいえば、いかなる「何者」であってもタレントや立場に立脚して発言し続ける人間は一律に汚い。
 
 とはいえ世間で生き続ける限り、人は、世間に絡めとられて「何者」かになっていかざるを得ない。それこそギークハウスのphaさんですらそうだったように。繊細な若者のなかには、「何者」かになることの、この不純性に耐えられなくて潰れてしまう者もいるだろう。そうやって潰れていく者の姿を横目で見つつも、人生の歩みは止められないし、「何者」かから降りることもできない。不純にまみれても、それでも生きていくだけの意識・覚悟・諦念に辿り着いたら、その人はもう、若者ではなくなったとみていいのだと思う。