シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「ダイレクトな怒りがタブーになった社会」

 
togetter.com
 
 昨年末に、「今の世の中では怒りをコントロールすることに高い価値が置かれている」というtogetterを見かけた。@marxindoさんの投稿を中心に、怒りの表出が困難になった現代社会についてあれこれ書かれている。
 
 marxindoさんの投稿は私もリアルタイムで読んでいて、以下のようなツイートを書かずにはいられなかった。
 





 
 怒りをコントロールするとは何か。
 
 一部の人は、怒りを表出しないことだという。
 
 私はそうは思わない。それは単なる抑圧である。怒りの感情をただ押し殺して、それを我慢と感じている限りにおいて、怒りはコントロールできていない。その我慢がストレスとなって心身を蝕んだり、どこかで異なったかたちで爆発したりしているなら、その人の怒りはコントロール不能になっていると言わざるを得ない。
 
 また別の人は、怒りを「感情的に」表出しないことだという。
 
 これも完全には同意できない。確かに、怒りを感情的に表出しないことが最適な場面は少なくない。現代社会の大半の場面では、感情的な怒りの表出を良しとしないので、だいたいベターなのは認める。しかし、怒りを感情的に出したほうが上手くいくコミュニケーション場面はまだ残っている。たとえば感情的な怒りの表出によってコミュニケーション対象に与える効果やインパクトが高められる場面では、怒りはしっかり出していったほうが効果がある。また、怒りを感情的に表出しないことに伴うストレスに耐えきれず、その他の手段では怒りを放出できない場面では、怒りを感情的にそのまま出してしまうことが一番マシであることもあり得る。後述するように、怒りを他の手段で発散することも可能だが、いつでも誰でもそれができるかといったら、そうではない。怒りをゴチャゴチャと加工していられず、放電のように手放してしまったほうがトータルでは望ましい、という場合はゼロではない。
 
 怒りをコントロールするとは、怒りを抑圧することでも怒りをひたすら冷静にすることでもない。私なら、怒りを刺激するツボを回避するよう訓練されることだとも思わない。場の状況や相手の出方をキチンと見定め、最適なかたちで怒りの表出方法を選び、必要ならば、感情的な怒りの表出も厭わないのが、怒りがコントロールできている人だと私は思う。付け加えて、自分自身のストレス耐性や心理的圧迫を弁えて、そこまで勘案して怒りの表出手段や表出の程度を選べる人だとも思う。
 
 そういう意味では、たとえば、どこかの病院の時間外外来で怒りをあらわにしている患者が「怒りをコントロールできていない人」とは限らない。その患者が直面している社会的状況次第では、そうして"みせる"のが最もベネフィットが見込まれ、リスクも少なくて済むことだってある。外来の医師や病院事務に対するコミュニケーションの効果を最大化し、失うものが何も無い場合にも、"わざと"怒りを感情的に表出をするのが最適な状況が無いとは言えない。
 
 怒りの不適応な側面だけを強調して、怒りの適応的な側面を無かったことにするのは、事実の一部分を強調するあまり、他の一部分を見失っているか、特定の思想信条に基づいてわざと見ないようにしているか、どちらかだと思う。なんにせよ、それは娑婆世界の実情どおりの観察とは言えない。
 
 

怒りがタブーになることで、誰が得をして、誰が損をしたのか

 
 そうは言っても、現代社会全般で、怒りのダイレクトな表出がタブーになりつつあるのは事実である。
 
 会社でも、居酒屋でも、学校でも、家庭でも、今日では怒りのダイレクトな表出はあってはならないこととされている。怒りにまかせて何かをすれば、怒りをこうむる側に烈しいストレスが加えられる点が注目され、ときにはトラウマの原因として語られることもある。怒りによって周囲にストレスを振りまく者が精神科を受診すると、伝統的に診断されていた典型的な躁状態や、幻覚や妄想を背景とした興奮や、てんかん性不機嫌などに該当しなくとも、治療の対象になり得るようになった。
 
 今日、怒りをダイレクトに表出している人は異端視されかねない。冒頭リンク先のtogetterにも書かれているとおり、現代人は怒りを表出することにも、怒りを表出されることにも慣れていない。私が子どもだった頃と現代とを比べると、子どもが怒りを表出する頻度も、子どもが誰かに怒りを表出される頻度も、びっくりするほど減った。盛り場での喧嘩、キレる若者、殺人事件の認知件数なども、昭和時代に比べれば軒並み減少している。数十年前は、もっと街に金切り声や怒号があふれていたはずなのだが。  
 
 こうした、ダイレクトな怒りがタブーになった社会がどのようなプロセスを経て完成したかは於いておくとして、「誰がこのような社会で得をしたのか」について考えてみたいと思う。
 
 ダイレクトな怒りがタブーになった社会でいちばん得をしたのは、もともとダイレクトに怒りを表出できなかった人、専らダイレクトに怒りを表出されて、その威力にひれ伏していた人達だろう。
 
 つまり、子ども全般と、強くない女性である(強い女性は、昔からダイレクトに怒りを表出してきた)。また、怒りの表出が困難な立場の男性も含めて構わないだろう。
 
 腕力や経済力や影響力といったものが足りない人は、怒りをダイレクトに表出する機会がもともと乏しかった。なぜなら、ダイレクトな怒りを表出することのベネフィットとリスクの比率は、背景にある腕力や経済力や影響力によって大きく変わるからだ。たとえば専制国家の王ともなれば、怒りのダイレクトな表出と称して部下の首をその場で跳ねたとしても、さほどのリスクは無く、ベネフィットが勝る可能性が高い。
 
 してみれば、怒りがたくさん表出される社会とは、強者に優しく、弱者に厳しい社会だったわけである。昭和時代が平成時代よりも怒りがたくさん表出されていたということは、昭和時代のほうが強者有利なルールだったということでもある。平等や、弱い立場の者の権利を守るといった観点からみれば、やはり怒りの表出は制限されるべきだったろうし、制限されて良かったのだろう。この視点でみれば人類は"進歩"している。
 
 

表出されない怒りはどこへ行く?

 
 しかし、怒りの表出が制限されたとしても、内心にわだかまり、ふきだまる怒りの感情が消えてなくなったわけではない。人間は喜怒哀楽といった感情を有しており、感じた怒りは、なんらかのかたちで加工・処理・発散してしまわなければならない。ダイレクトに怒りをあらわせないなら、そうでないかたちで怒りを自分の身体の外に出してしまわなければ、ストレスが残る。
 
 そうした怒りが、たとえば、スポーツのようなかたちで社会化されて発散できるなら、文句を言う人は少なかろう。あるいは社会運動への参加というで怒りが社会化されて、世の中の役に立つこともあるだろう。
 
 だが、スポーツが必ず・すべての人の怒りを発散できるわけではないし、社会運動への参加も良いことばかりとは限らない。怒りの発散が主目的になってしまって社会運動のほうは形骸化し、とにかく集まってみせて、とにかく何かを壊してみせること自体が目的になってしまっているケースもままあるように見受けられる。
 
 とはいえ、都内のあちこちを巡ってみても、やはり、ほとんどの人は怒りを表出することなく生きている。彼らの、よく考えれば不思議なほど静かな営みを眺めていると、どうして怒り=タブーをここまで弁えて行動できるのか、ものすごい不思議の念に駆られる瞬間があって、ブルブルっと寒気をおぼえることがある。
 
 都市生活者の大多数を占めている、あの怒りを表出しない人々は、さも、市民としては適切に違いない。だが、動物としての人間としては、あれもあれで不自然な姿にみえる。怒りが欠けているようにみえても生活できているということは……その欠如を、彼らはどこでどうやって補償しているのだろうか。ダイレクトな怒りがタブーになった社会の怒りは、いったい何処へ?