シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「僕たちの文明では感情は精神疾患」まであと何歩?

  
私の気持ちは、誰のもの?(熊代亨:精神科医)#もやもやする気持ちへの処方箋|「こころ」のための専門メディア 金子書房
 
リンク先は、金子書房さんのnote記事に寄稿させていただいた「私の気持ちは誰のもの?」という文章だ。
 
社会から不適切な感情がどんどんなくなり、怒りや気分の落ち込みや不注意がどんどん治療やマネジメントの対象になっていくとしたら、私たちの気持ちはいったい誰のものなのか──そういった疑問を書き綴ったものだ。
 
でもって、この文章の終盤で、私は『魔法少女まどか☆マギカ』のキュウべえのセリフを拝借した。
 

10年ほど前にヒットしたアニメーションで、効率主義の異星人が「僕たちの文明では、感情という現象は稀な精神疾患でしかない」と主人公に言い放つ場面を見たことがあります。当時はその異星人の非-人間性に戦慄しましたが、最近の私には、それが他人事には聞こえません。効率性や生産性の妨げとなる感情や行動を次々に病気とみなして治療し、ICTやAIの力を借りて大規模なモニタリングまで実施する、その行き着く先が人間を人間でなくしてしまい、効率性や生産性のための部品のような存在にしてしまう未来はあり得ると思います。
(金子書房note:私の気持ちは、誰のもの?)より

 

 
『まどか☆マギカ』が話題になっていた頃、キュウべえは見た目のかわいらしさとセリフのギャップがひどくて、(悪役として)大人気だった。で、そのキュウべえは作中、過去の悲劇を振り返って涙を流すまどかに「僕たちの文明では、感情は稀な精神疾患でしかない」と言い切ったのだった。
 
この、キュウべえのセリフを10年前の私は面白がるばかりだった。ところが今の私には、この言葉がリアリティを伴って聞こえてしまう。というのも、現代の日本社会には感情がまだ残っているとはいっても、いくつかの感情は許されないものになっていたり精神疾患になっていたりして、全体としては、許容される感情表出の幅が狭くなっているからだ。
 
 

より少なく、許されなくなっていく感情表出

 
許される感情表出の幅が少なくなっている? どこが? とおっしゃる人もいるかもしれない。
ところが狭くなってきているんですよ。
 
たとえば昭和時代の歌謡曲を振り返ると、今日では珍しくなっている感情や情感がたくさん登場する。男女関係は令和に比べて合理性を欠いていて、衝動的だった。令和の流行歌と昭和の流行歌をSpotifyで聴き比べると、メロディラインの変化もさることながら、歌われている情感の違いにもびっくりする。
 
コメディアンの一挙一動や映画の登場人物の身振りもだいぶ違う。よく怒る。よく叩く。よくボディアクションする。もちろん令和のコメディアンにも感情表出はあるけれども、どのような感情表出が大げさで、どのような感情表出が穏当なのかの線引きは令和と昭和ではかなり異なってみえる。ドリフターズのコントや『寅さん』の登場人物の会話を見ていると、いずれも令和の基準からは遠い。喜怒哀楽といった感情表出の決まり事が、この数十年で変わってしまったことを作品から感じ取ることができる。
 
国外に目を向け、さらに昔にさかのぼると、生活に占める感情の割合がもっと大きく、(現代人から見て)感情表出が野放図であったことがみてとれる。『近代人の誕生』のなかでミュシャンブレッドは、近代以前の人々の不潔さ・無礼さ・暴力性などを紹介しているが、それらに伴う感情表出も、現代からみれば粗野で野放図なものだ。もちろん、文明化の進んだエリートたちは自分はそうではないと思いたがるわけだが、
 

 黒人、インディアンその他のエキゾチックな人種は、じっさい恐怖よりむしろ知的好奇心をかきたてるモデルであった。だが田舎の農夫や都市で暮らす貧しい連中はもっと不安で得体の知れない存在であり、文明化された人々にしてみれば自分が忘れたがっている自分自身の一部分について語りかけてくる存在なので、非常にいやな、できれば消えてほしいような性格をあれこれそなえている。対象から距離を置いた視線、動物的衝動および行動や言葉遣いの下品さの抑圧──当時の上流社会はそうやって近代人なるものを創出し、それを起源の根っこから切り離そうとした。けれどもその根っこは同じ時間・同じ空間の中に、一般大衆として存在しつづけている。

ミュシャンブレッドの見るところ、起源をさかのぼれば不潔で無礼で暴力的で粗野な感情表出の人物像にたどり着くことをエリートたちもどこか自覚していたようである。そのような自覚を打ち消すためにも、
 

 だから闘いはまだ終わっていない。十八世紀を通じてエリートたちが都市にどんどん移住したのはなぜか、また彼らが都市を浄化し、平和にし、都会化しようとしたのはなぜかということも、以上で一挙に説明がつく。……都市の人間である啓蒙思想家たちは、当時「下品」とか「野卑」とか言われていたものを少なくとも保守的エリートたちと同じくらい拒絶していた。そして周知の通り、啓蒙の光は地方の農村を照らしはしなかったのだ。

エリートたちは都市へと移住し、その都市のジェントリフィケーションに余念が無かったのだった。
 
 
また、この手の書籍の草分け的存在である『文明化の過程』のなかで、著者のエリアスは中世において感情表出がどのようなものだったのかを、以下のように記している。
 

 中世の人間生活は現代とは異なる情感の条件を基盤としており、不安定で、未来に対する十分な見通しに欠けていた。そうした社会では、全力を尽くして愛さないもの、あるいは憎悪しないもの、また激情の渦中でおのれを全うできないものは、修道院へ入ったのであった。後世の社会、とりわけ宮廷においては激情を抑制し、情感を秘めたり「教化」したりできないものがそうであったように、かれは、世俗生活の中ではいわば落伍者だったのである。
 

中世までさかのぼると、感情表出の足りない者が社会不適応者として修道院に入ったという。今日ではきっと逆だろう。感情表出の過多な者こそ、社会不適応者として、修道院に、いや……修道院に代わる何かに身を委ねなければならなくなる。
 
 
 *        *        *
 
 
こうした(アナール学派の)書籍はたいてい、過去の人々の習慣や常識の違いと、精神生活や感情生活の違いについて教えてくれる。それらによれば、近代以前の人々は私たちより喜怒哀楽が激しかっただけでなく、そうした感情表出が社会的に必要とみなされていた。これは、現代とはほとんど逆にみえるのではないだろうか。近代化や文明化が進むにつれて、私たちは喜怒哀楽を激しく表出しなくなり、そうした感情表出がどこまで社会的に妥当なのか(または妥当でないのか)の基準も変わっていった。
 
昭和から令和にかけての日本人の感情表出の変化と、それに対する妥当性の判断基準の変化も、こうした流れの延長線上にあるよう、私にはみえる。こうした変化は現在進行形のものだから、たとえば平成生まれは昭和生まれの感情表出を粗野なものと感じたり、許容できないものと感じたりする。
 
 

うつ病・双極性障害(躁うつ病)の軽症化を、このアングルから眺めてみる

 
そうした感情表出の妥当性を判断する際、今日では、精神疾患か否かという尺度が用いられることも多い。メランコリーがひどければうつ病、高揚した気分や行動力がひどければ躁病といった具合だ。気分がジグザグに揺れ動く人には、双極性障害という病名がいかにも当てはまるように聞こえる。
 
うつ病や躁病や双極性障害は、ひとまとまとまりのカテゴリーとして「感情病圏」とか「気分障害圏」と呼ばれている。では、どこまでの感情が病気で、どこまでの感情が病気でないのか? この線引きも、時代によって一定ではない。少なくとも私が精神科医になってからの20年ちょっとの間にも、病気とみなされる線引きはかなり変わった。
 
うつ病は、はっきり軽症化している。軽症化の理由は、患者さんが早い段階でメンタルクリニック等にかかってくれるからともいえるし、うつ病の診断基準が変わり、かつて神経症やノイローゼと呼ばれていた人もうつ病の診断基準の範囲内になったからだとも言える。あまりにも重症で、話す言葉にスローがかかったようになっている患者さん*1に出会うことは少なくなっている。
 
双極性障害(と躁病)についてもそうだ。重症度の高い躁病がいなくなったわけではないにせよ、ずっと頻繁に見かけるのは軽症の双極性障害の患者さんだ。双極性障害は見過ごされやすく、うつ病として治療されていることがままあると言われているが、とどのつまり、よくよく目を凝らして病歴や気分の浮沈を見極めなければならない、そんな双極性障害が増えているということでもある。
 
これら、重症度の低い気分障害圏の患者さんの増加は、ある程度までは啓蒙や医療充実の成果とみなせる。みんながメンタルヘルスを気に掛けるようになり、早期発見・早期治療が行き届いた成果として、精神疾患の軽症化が進んだという一面は間違いなくある。本題とはズレるが、統合失調症の患者さんの軽症化に関しては、この一面がとりわけよく出ているように思う。
 
だけど、そうした医療サイドの啓蒙や充実だけでこれが起こったとは私には思えない。冒頭リンク先に、私はこんなことを書いた。
 

 うつ病が広く診断されるようになったことも、こうしたことの一環かもしれません。まだ軽症のうちにうつ病が診断されるようになったのは、早期発見・早期治療という観点からはシンプルに望ましいものです。しかし別の観点からみると、同僚や家族のメランコリーな気持ちや仕事や勉強が手につかない状態を職場も家庭も抱えきれなくなったから、いや、個人も社会も抱えきれなくなったから、以前はうつ病と診断されなくても良かった軽度の状態までもがうつ病と診断され、治療されなければならなくなっているのではないでしょうか。
(金子書房note:私の気持ちは、誰のもの?)より

 
つまり、うつ病が広く診断されるようになり、より軽症のうつ病までもが治療の対象になったのは、会社も家庭も、社会も個人も、メランコリーな気持ちや仕事や勉強が手に付かない状態を許容できなくなったからではないだろうか。
 
メランコリーな気持ちや仕事や勉強が手につかない状態は、職場や家庭や学校での社会適応に悪影響をおよぼす。だが、人間の人生にはメランコリーな時期や諸々が手に付かない時期だってあってもおかしくなかったはずだ。
 
では、どこまでだったら許容されるのか? たとえば職場で暗い顔をしていて、時々思い出し泣きしている人がいるとして、そういう人は職場にいて良いものだろうか? または、一個人としてそのような状態でいて構わないものだろうか?
 
暗い顔をして思い出し泣きをしている人は、もう、職場にいてはいけなくなっているのではないだろうか。あるいは学校でも。家庭でも。個人においてもそうだ。人生のある時期にメランコリーであること、生産性が低下していることを現代人がどこまで許容できるのだろう? 一日ぐらいなら許容できるかもしれない。では一週間なら? 一か月なら?
 
メランコリーな個人、生産性が低下している個人を早期発見・早期治療する社会は、ある面では優しくて健康な社会だが、ある面では厳しい社会であるよう私には思える。というのも、そのような社会は人がメランコリーな状態でいることも、生産性が低下した状態でいることも、許容しないからだ。「許容しない」といって語弊があるなら、「忍容できない」とでも言い換えれば良いだろうか。メランコリーな状態や生産性が低下した状態を忍容できない社会は、そのような個人をそれそのままにしておかない。のみならず、人生のなかにメランコリーな感情や気分が優勢な時期が存在することを(個人も、社会も)忍容できない。このような社会ではメランコリーな感情や気分は顧みられなくなり、抗うつ薬やマインドフルネス瞑想などによって退けなければならなくなる。
 
と同時に、気分の浮沈のある人も(極端な躁病でなくとも)治療を受けなければならなくなる。精神科医がよくよく目を凝らして病歴や気分の浮沈を見極めなければならないような、そんな双極性障害が増加しているということは、昔よりも小さな気分の浮沈までもが社会適応にとってクリティカルな問題になり得るようになった反映ではないだろうか。
 
契約社会の一個人として、誰もが自己判断と自己責任の綱渡りをやっていかなければならない社会では、気分の浮沈に左右されるほど不利を被りやすい。たとえば誰もが投資をしなければならないような社会では、気分の浮沈に左右される人は損をしやすく、気分の浮沈に左右されない人が得をしやすいだろう。
 
また、昔よりもマイルドな感情表出しか許容されなくなった社会では、気分の浮沈が顔や言葉に出過ぎることが問題になりやすい。ガミガミする人、メソメソする人、けたたましく笑う人は、令和のホワイトな職場にそぐわない。ホワイトな職場にいたければマイルドな感情表出の幅に自分を押し込まなければならない──と同時に、マイルドな感情表出の幅に自分を押し込めない人はホワイトな職場にいられない、とも言える。
 
うつ病や躁病や双極性障害の軽症化は、「社会が許容する感情のありよう」というアングルで見るとこんな具合にみえる。精神医療は、そうした社会からのニーズに即した治療を提供しているとも言える。追認しているようにも見えるかもしれない。後押ししている、という風にもうつるかもしれない。
 
なんにせよ、うつ病や躁病や双極性障害の軽症化と、それに伴う患者さんの増加から、ここ数十年の精神生活や感情生活の変化を透かし見ることは可能だろう。
 
 

「僕たちの文明では感情は稀な精神疾患」まであと何歩?

 
「社会が許容する感情のありよう」がこの調子で変わり続けた結果として、誰もが怒らず、誰もが泣かず、誰もがさざなみのように微笑む、そんな未来が来たとして。その未来はユートピアと言えるだろうか。
 
そうかもしれない。けれどもそのユートピアで暮らす未来人は、私たちよりもっと喜怒哀楽の幅が狭くなければならないし、その狭い感情表出の幅へと自分自身を適合させるべく、努力しなければならないだろう。それとも努力するまでもなく、ICTや薬物によって喜怒哀楽や感情表出が調整されるようになるのか。
 
そうなった未来を人間の解放とみるべきか、人間の幽閉とみるべきか。私なら後者とみる。なぜなら、誰もが怒らず、誰もが泣かず、誰もがさざなみのように微笑むようになったら、それはもう人間ではないよう、私には思えるからだ。そのように調整された人々で占められた社会では、カルチャーは繊細かつ淡白なものにならざるを得ない。今日親しまれている多くの作品やコンテンツは、刺激が強すぎて楽しめないもの・禁じられたものとなっていくだろう。大きな声で笑うことすら、行き過ぎた感情表出として忌避されるかもしれない。
 
人間の喜怒哀楽と感情表出には、効率性や斉一性に馴染まないところがある。けれどもそれも人間の一部であり、人類を飛躍させるエネルギー源でもあったはずだ。そういう意味では、「僕たちの文明では、感情は稀な精神疾患」と言い放ったキュウべえがエネルギー源としての感情を求め、魔法少女の希望と絶望の相転移を集めてまわったのは似つかわしいことだった。しかし私たちの社会がそうなってしまったら、衰退し自滅していくか、感情を豊かに持った別の社会に征服されるしかないのではないか。
 
キュウべえにインスパイアされるまま、良くない未来を展望してしまった。しかしこういう未来が絶対来ないとは言えないし、少なくとも大昔の人々からみれば、令和の日本社会はずっとキュウべえの異星文明に近づいているはずである。そして今のところ、社会も医療セクターも、私たちの感情を都合の良いように整形することを躊躇っているようには、あまりみえない。
 

*1:いわゆる精神運動抑制が顕著な患者さん