これから書くことは個人的なエッセイだが、そのエッセイがネット上に置かれるため、タイトルにあるように、伝わり過ぎてしまうかもしれない。文章が指し示した内容どおり伝わるかは定かではないし、私が書いている際に考えていたとおりに伝わるのかも定かではない。たぶん、両方ともかなわないかたちで伝わったりもするだろう。どうあれ、ネット上に置かれた文章はどこかに伝わる。正確性の高低にかかわらず伝わる。
私がインターネットを本格的に使い始めた2000年前後だが、そのとき、ネットに書いた文章はボトルメールみたいなもので、自分が書いた文章が伝わる宛先はひとりふたり、多くて十数人の感覚だった。大きなウェブサイトや有名テキストサイトで活躍していた人は、ネットに書いた文章をボトルメールとは思わなかったかもしれない。とはいえ、大きなウェブサイトや有名テキストサイトですら、それらを愛顧している人に文章を伝えるのが専らだった。日経新聞が日経新聞の読者に専ら読まれるようなものだ。
と同時に、そうしたサイトマスターですら、たとえば自分が書いた文章が日本政府に伝わるかもしれないと信じるのは難しかっただろう。
しかし00年代も半ばになると、ブログが世間を騒がせたり、匿名掲示板の祭りが企業活動に影響を与えたり、そうした出来事が目に留まるようになった。ネットが影響力を持つようになったと言えばいいのか、ネットに書かれたひとつひとつの文章の到達距離限界が遠くなったというべきか。2010年代にはネットがマスメディアと結びつくようになり、ネットとマスメディアの境目は曖昧になっていった。曖昧になっていったにもかかわらず、個人が書いた文章が伝わる度合い、少なくともその飛距離と範囲のリミットはどんどん大きくなっていった。たとえば『保育所落ちた日本●ね』みたいな個人の文章が、びっくりするほど遠くまで届いたりする。あるいはtwitterで誰かが書いたツイートが海外の新聞社に取り上げられたりする。ポジティブな文章でもネガティブな文章でも、ファクトな文章でもフェイクな文章でも、そういうことは起こり得る。
ネガポジや真偽に関係なく、とにかく、ネットという場所は言葉をどこまでも伝えてしまう。それは本当はものすごく恐ろしいことで、人類には早すぎるというか、人類のコミュニケーションの仕様からいって手に負えないことのように私には思えるようになってきた。こんなに伝わっていいのだろうか。このネットという媒体は言葉を伝え過ぎてしまっているのではないだろうか。そういうことを最近はよく思う。ポジティブも、ネガティブも、ファクトも、フェイクも、メロディも、ノイズも、びっくりするほど伝えてしまうこの媒体は、なかなか手に負えない状況になっているのではないだろうか。いや、なっていますね。驚くほどのことではないか。
広く遠く届くだけではない。
ネットに書かれたメッセージは、文章でもイラストでも動画でも、書いた者の意図したとおりにも、テキストとして記された内容どおりにも、伝わらない。それは書き手の表現力のせいかもしれないし、読み手の読解力のせいかもしれないし、可処分時間の問題かもしれないし、コンテキストの欠如のせいかもしれない。無料のせい、という場合もあるだろう。
ネットはただ伝え過ぎてしまうだけでなく、書き手の意図やテキストに記された内容とは異なった風に伝わる。「メッセージとは、テキストとは往々にしてそういうものだ」「多様な解釈が生まれるのはいいことだ」と述べる人もいるだろうし、ごもっともなことではある。けれど、たとえば紙媒体の世界と比較して、このネットという媒体はあまりにも伝え過ぎてしまうと同時に、あまりも違ったかたちで伝わってしまってやしないだろうか。
昨今は、このネットという媒体をとおして政治的なスキャンダルが大きく取り上げられ、政治に影響を及ぼすことがある。あるいは、このネットという媒体をとおしてサブカルチャーのコンテンツが脚光を浴びて、日本語圏全体に響き渡るような賛辞を生んだりする。それらの現象は、とりもなおさずネットという媒体の性質・威力を反映しているし、威力があるからあてにされてもいる。
しかし、威力があるからあてにされているこのネットという媒体は、さっきも書いたように「あまりにも伝え過ぎてしまうと同時にあまりも違ったかたちで伝わってしまう」媒体だ*1。私たちがみんなでひとつのメッセージに「いいね」をつける時、そのメッセージは私たちのもとにどこまで正確に伝わっているのだろう?
たとえばネットで読んだ文章に「いいね」をつける時、逆に「よくないね」をつける時、私たちはメッセージを正確に受け取れているかどうか、どれぐらい気にしているだろうか。案外、メッセージの書き手の意図どおりに伝わっているかや、テキストとして記された字義どおりに伝わっているのかを考えようともしないまま、「いいね」や「よくないね」をつけるように、だんだん流されていやしないだろうか。
でもって、私たちは書き手の意図やテキストの字義どおりかを度外視して「いいね」や「よくないね」をつけるよう、日々慣らされて、日々訓練されているとさえ言えるのではないだろうか。
そういう、伝わり具合が正確かどうかをみんながあんまり意識しないメディアがマスメディアに比肩する影響力を持つようになり、世間をさまざまに沸騰させているとしたら、だとしたら、私たちはネットという媒体をとおして、いったい何をやっているのだろうか。この、影響力の生起とその評価(または位置づけ)は正解なのだろうか。
うまくまとめきれないから私の危惧するところが誰かに正確に伝わるのか自信がないのだけど、私は今のネットという媒体は「うまくいっていない」と思う。旧世紀に生まれてこのかた進歩してきたようにみえて、なにやら、大きな間違いを内包したまま巨大になってしまったとも思う。たとえばメッセージが意図する以上に広がりすぎてしまったり、たとえばメッセージの正確性を度外視したかたちで伝わってしまったりすることなどは、媒体としてのネットの不出来なところ、従来の媒体に比べて劣っているところではないだろうか。この点において、媒体としてのネットは粗野で信用がならない。その粗野さや信用のならなさは(諸般の事情で)今日まで不問に付されてきたが、ここまで大きな影響力をふるうようになってなお、不問に付されたままというのもおかしな話ではある。だのに、平気な顔でネットという媒体をあてにしている人は多い。むしろ、これでいいのだと思っている人もいる。本当にいいのだろうか。
私がインターネットを始めた時、この、伝わるということ・伝わる可能性があることに惹かれた。けれどもネットがあまりに巨大になった今では、この、伝わるということ・伝わる可能性があることが、誰の手にも負えないものになっていると感じる。だいたい正確に伝わるならまだマシだが、どう伝わるかわかったのものではないのに遠くまで伝わるから手に負えない。そんな手に負えない媒体が私たちを包囲し、現代社会に深く食い込んでいる。なんとあてにならないものをあてにしているのだろう、私たちは。
*1:たぶんだけど、官公庁の提供するpdfファイルすら、そうしたネットという媒体の性質をある程度受けてしまう