シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

自己責任社会に阿弥陀様は輝く

 
先日、くたびれた頭でツイッターを眺めていたら以下のようなツイートが流れてきた。
 
 
「56億年後に死の星と化した地球に弥勒菩薩が現れて過ちに満ち満ちた人類史を漂白剤に浸けて綺麗にしてくれると信じてるよ」
 
 
弥勒菩薩、いいよね。
 
私は、(ゆるい)在家の日本の大乗仏教徒なので、弥勒様が過ちに満ち満ちた人類史を漂白してくれると聞くと、救いだと思う。それが人類絶滅後だったとしてもだ。ただ、弥勒様の救済には問題がある。56億年も待たなければならない、という点だ。
 
そこのところ、阿弥陀様(阿弥陀如来)はいい。
 
阿弥陀様は、私のようなフラフラしている信徒にも大変ありがたい仏様だ。南無阿弥陀仏と唱えれば、死の際には阿弥陀様が迎えに来てくれるという。なぜならそれは阿弥陀様の約束だからだ。
 
私は人前で南無阿弥陀仏とはあまり言わないけれども、「よろしく阿弥陀様」とつぶやいたり心中で唱えたりすることは結構ある。そんな感じでも、私が死に至る時には阿弥陀様が西方浄土から迎えに来てくださるだろう。阿弥陀様には約束があるし、阿弥陀様が約束をたがえるとはあまり思えないからだ。
 
 

阿弥陀様みたいなケツ持ちを、私たちは必要としているのではないか

 
ここで主語を大きくして言ってみたい。
私たちは、阿弥陀様を再び必要としているのではないだろうか。
 
自己選択と自己責任が徹底し、グローバリゼーションと名付けられた万人の万人に対する競争を生きる私たちは、事実上、過酷な淘汰に晒されている。鎌倉時代のように直接他人を殴ったり斬ったりすることはなくなったが、現代固有のルールと道理に基づいて、現代人もぎりぎりの戦いに身を置いている。
 
人生の浮沈の行方はしれない。私には、この競争社会が阿修羅の世界のようにみえる。剣や弓矢で戦うのでなく、知識や法や財力で戦い、人を組み敷いたり、人に組み敷かれたりしているからだ。
 
そんなブルジョワ阿修羅の世界で生きるうえで、何が私たちのよりどころになるのか? ここでいうよりどころとは、阿修羅として生きなければならないそれぞれの瞬間に精神のケツ持ちになってくれるような存在のことだ。
 
私の場合、その精神のケツ持ちが阿弥陀様になるわけだが、きっと、カトリックやプロテスタントの信仰でも良いのだと思う。卑見では、キリスト教の世界にもまた、そうした今を生きるための心構えと、生きていくことを後押しする教理や戒律があるようにみえるからだ。
 
21世紀は、サイエンスとエビデンスに照らし出されているようにみえる。ところが個々人の未来は見通しがきかず、結局、一寸先は闇のままだ。そうしたなか、明日も知れない競走をいつまでも続けていくと思うと途方に暮れてこないだろうか。少なくとも私なら途方に暮れるし、「阿弥陀様なしでやっていられるか!」という気持ちになる。
 
また、現代社会からは死も破滅も遠のいていると感じる人もいるかもだが、私にはそう見えない。健康と道徳の装いに包まれていても、ここも苦の渦巻く娑婆世界の一部ではある。その、苦の渦巻く娑婆世界という認識のなかでキビキビと思い切って生きていくためには阿弥陀様のような存在にケツ持ちしてもらったほうが生きやすいように思うのだ。あるいは道半ばで倒れた時、どうにかこうにか死んでいけるのではないだろうか。
 
 

阿弥陀様は、むやみに來迎しそうにないところがいい

 
形而上の存在としての阿弥陀様には、抜群に良いところがある。
それは、生きているうちに迎えに来てしまうおそれが無いことだ。
 
自分が信仰している対象が、何かのはずみで迎えに来てしまうかもしれないと思ったら、私なら気が散ってしまう。あるいは現世利益を説いていたり、「カルマや輪廻転生を意識して生きていなさいよ」と主張していたりしても気が散ってしまうかもしれない。ところが私と阿弥陀様との約束は「死んだら迎えに来てくれて、西方浄土に連れていってくれる」だけなので、生きているうちに阿弥陀様に気を遣ったり、阿弥陀様が迎えに来てくれないかなと空を見上げたりする必要がないのである。ああ、なんとありがたいことだろう! なんまんだぶ、なんまんだぶ。
 
信仰の対象に、現世利益や来世利益を期待し、あれこれ徳を積んだほうが良いみたいな教えにも、それはそれで良いところがある。実は私は、そういう信仰も大好きだ*1。けれども、現世利益や来世利益のために神様仏様の顔色をうかがい過ぎるのも自分は違うと思う。その点、阿弥陀様はバッチリだ。南無阿弥陀仏。本当に必要なのはこれだけ。死後のことをゴチャゴチャ考える必要も無い。そういうめんどくさい思弁は阿弥陀様にお任せだ。
 
「そんないい加減なことで信仰って言えるのか?」という人もいるだろう。そうかもしれない。だけど南無阿弥陀仏の六文字があるだけで、私の心は幾らか自由になって、余計なことに魂のリソースを喰わなくて済むようになるのだ。現世が救済されるような威力はないけれども、生きるということに、夾雑物が混じるのを防いでいただいているとは感じる。ああ、なんとありがたいことだろう! なんまんだぶ、なんまんだぶ。
 
たかが信仰と人は言うかもしれない。でも私は、阿弥陀様との約束のおかげで真っ直ぐ現世を生きていけるし、もうそれだけで現世利益だ。どうにも自己責任な社会を生きるためのケツ持ちとして、阿弥陀様はすばらしい。それと同じ役割を担ってくれる信仰の対象も、きっとそうだろう。
 
 

 

*1:そうやってよその神様仏様を拝んだとしても、阿弥陀様はきっと約束を守って迎えに来てくれる!