シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

私のなかでは、科学と仏教はあまり喧嘩してません

 
 神さまの殺しかた/宗教にハマらずに生きる方法 - デマこい!
 
 リンク先によれば、宗教観についての話題が盛り上がっているらしい。宗教で熱くなれる人が、インターネットという、テクノロジーに立脚したフィールドにそんなに存在するのか!唾を飛ばして宗教に言及しあっているさまを観ながら、「ハイテク社会になったからといって、人間の心や感情は宗教全盛の頃とあんまり変わりないのだろうなぁ」と、改めて思った。
 
 ときに、宗教は科学と対立する、といわれている。砂糖玉を奇跡の薬とありがたがるような話やパワースポット的な話は、実証主義な科学とはいかにも相性が悪そうだ。こうした科学との相性の悪さは、新宗教やスピリチュアル方面だけでなく、古典的な宗派宗教のなかにもそれなりみかけるもので、例えば天国と地獄、浄土や三千世界といった概念は、科学だけを信じたい人からすれば、噴飯モノだろう*1
 
 尤も、宗教を信仰している殆どの人は、そうした科学と信仰の相容れないところを、自分なりに調整して「ここまでは科学的に考える」「ここからは信仰やスピリチュアルの領域として信奉する」といった感じでやっているのだろう、と思う。まあ、なかにはそうした調整が壊れて「全部信仰やスピリチュアルの領域で……」という人もいるだろう。そのような人は宗教原理主義的な人だが、多数派ではあるまい。
 
 リンク先の記事で、一箇所、引っかかるところがあったので噛み付いてみる。
 

切り込み隊長や佐藤優さんの場合はキリスト教だった。人気ブログ『シロクマの屑籠』のシロクマ先生は、仏教が思想の基盤になっているという。「私は無宗教です」とドヤ顔で答える人に限って、パワースポットをありがたがる。ほんとうに無宗教な日本人は、じつはあまり多くないのかもしれない。社会人になるまで気がつかなかったが、私のようなガチガチの機械論者でダーウィニストは珍しいようだ。

http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20131120/1384952459

 
 私は機械論者ではないけれども、ダーウィニズムには無我夢中だ。精神医学だけを見つめていては気付けないような視点を、進化生物学周辺のディスカッションは提供してくれる。研修医の頃、トリヴァースやウィルソンの理論について知った時、私は震え上がった。私にとって、進化生物学は自分の考え方を一変させるような、とんでもないシロモノだった。進化生物学は、まだまだ若く、試行錯誤の真っ最中な学問だ。けれども、ここには新しいアイデアと知見が凄い勢いで集積しているようにみえる。だから私は進化生物学方面の書籍を頻繁に買う。
 
 だからといって、私は無宗教ではない。私は仏法の視点と、大乗仏教の思想が好きでたまらない。行動指針として十善戒を意識している。本来、邪悪で堕落した人間である私が、今、ネットアカウントを炎上させずにいられるのも、行動指針の原理原則として十善戒を採用しているからで、これが無かったら、今の十倍ぐらいは口汚いことを口走り、今の十倍ぐらい炎上しているだろう。できるだけ間違いの少ないことを考え、人を罵る言葉はなるべく控えめにする――私は仏教信奉者としてはだらしない人間だ。だから、そうした在家の戒めを十分に守っているとは言えないが、それでも戒の枠組みによって自分はマシな道を歩んでいる、とは推定する。
 
 そうした行動指針を持ち、仏教的にものを考え、「まあ、死にそうになったら浄土系におすがりしようかな」とか思っている私だが、進化生物学が大好きだし、臨床的にはエビデンスに基づいた現代精神医学の手法を使わせてもらっている。だから、私のなかでは仏教と進化生物学はコンフリクトを起こしていないし、仏教と科学もわりと喧嘩しないと感じている。
 
 

私が好きな仏教的なものの考え方

 
 私は、仏教が好きだ。阿弥陀様が好きとか、そういう問題以前として、仏教の根底に宿っている考え方が好きで、だから、これを信仰の対象と思考の基礎にする。その代表的な考え方の幾つかを、自分なりの言葉で紹介すると、
 
 ・あらゆるものは常に変化し続けている。すべてのものは、時の流れとともに変化していく。生じたものは、いつかは滅する。
 ・原因と結果は一対一の関係で生じない。複数要因が集まってひとつの結果が起こり、その結果もまた次の結果の一要因となっていく
 ・娑婆世界に対する人間自身の観察は、つねに自分自身の心身や執着によってバイアスがかかっている。
 ・そのバイアス込みで人間は世界を感じ、対象を捉えるから、観測者たる自分自身が重要な問題になる
 ・こうした考え方に即して生きる方法として、仏教は発展してきた
 
 私は、これらが大好きで、科学ともたいして矛盾していないと感じる。科学は、ツールと数字を使って娑婆世界を観測する――言い換えるなら、科学は主体としての自分バイアスを無視して拾えるデータだけを、機械や目盛りや単位といったユニットに観察を委ねて拾い集めるものなので、あれは人間主体による実体験や実観察とはものが違う。人間主体の自分バイアスを無視できるからこそ、方法さえ間違えなければ皆が同じ結果を得られ、錯覚や思い込みに惑わされることもない――だから技術の根幹として発展したのだと思う。
 
 その一方で、世の中には、自分自身の心身に由来するバイアスを無視できない領域も多い。人間関係やライフイベントの類は、小手先のライフハックではどうにもならない種々の要素によって生じ、その人間関係やライフイベントをみつめる私達の目も、心身由来のバイアスや欲求、嫉妬、虚栄心といった執着によって濁りきっている。そういう領域でも科学が役に立てばいいけれど、残念ながら、ナマの生活では科学的なモノサシを取り出してチンタラ統計なんて取っている余裕なんて無いのである。
 
 この縁談を受けるのか受けないのか、ヤケ酒飲みながらtwitterやっている時に何をつぶやくのか――そういうナマの領域では、原因と結果を一対一で論じている暇なんて無く、どんぶり勘定で判断・行動していかなければならない。そういう、どんぶり勘定を余儀なくされる際の行動指針・戒めとしては、仏教はそれなりに役に立つものじゃないかと思う*2
 
 

科学と食い合わせが宜しくない部分について

 
 なお、私は仏教のなかでも科学と食い合わせが悪そうな方面、混ぜたら面倒そうな方面については、ちょっと距離を取っている。具体的に言うと、極楽浄土とか、輪廻とか、そのあたりだ。私は、科学は生きる意味や死ぬ意味を与えてくれないけれども、信仰は割とそういう方面をサポートしてくれていると思っていて、実際、カルマや因縁の概念は、生きている間の私の行動の意味づけと、死後も残る私の所業を、強く意識させてやまない。
 
 そこに浄土系の信仰やインド臭い輪廻の発想まで組み込むか、それとも控えておくのかについては、判断留保というか、「非常時以外は、むやみに考えない」ということにしている。逆に言うと、浄土系が必要になってきた時は、浄土系寄りのスタイルに節操なくすり寄ろう&阿弥陀様はそういう節操の無い衆生にも寛容なんじゃないかと信用することにしていて、普段は頭の隅っこに安置している。
 
 仏教の教えの少なからぬ部分は、菩提や涅槃に費やされているけれども、畜生な自分にとっては、死後に残される世界、死後に残される人々にどのような因縁を残せるのかがさしあたって肝心だ*3。阿羅漢や涅槃なんて畜生の身には夢のまた夢なんだから、ちょっとでもマシな因縁を残せるように毎日勤めましょうぐらいの意識にしておいて、死後の問題については専門家の方にお任せすればいいや、と思っている。
 
 

飽きてきたのでこのへんで

 
 ここに書いてきたものは、あくまで素人な私個人の仏教観であって、これが仏教のスタンダードと主張するつもりは毛頭無い。何が仏教のスタンダードで、どう仏教とお付き合いすべきなのかについては、専門家の人達にお任せするのが筋なのは、ことわっておく。
 
 ただ、なんていうか、これも仏教的な考え方なのかもしれないけれども、人間は心身のバイアスを免れることが難しく、種々の執着によって衝き動かされがちな動物ってのは、進化生物学の知見とも矛盾しない、ほとんど間違いない事実だと思っている。だからこそ、そうしたバイアスを前提としたものの考え方を提供し、戒を授けてくれる仏教を、私は頼りにしているんだろうと思う。
 
 一方、そうした人間的バイアスや執着に無頓着なまま、やれ自分は科学的だとか、やれ自分は客観的で冷静だという前提で娑婆の事々にあたっていく人は、大仰な科学では小回りがきかない領域――例えば対人関係や家族関係のような――で、自分自身のバイアスや執着に無自覚・無防備なまま生きることを余儀なくされる。確固とした行動指針も欠くだろう。欠いていてもうまくいく人は、マッチョな超人だ。しかし、私達の99.9999%は超人ではなく、凡夫だ。私も、自分が凡夫であると確信している。
 
 「自分自身の内側のバイアスや執着に揺さぶられながら生きる凡夫である」を前提として生きるにあたって、行動指針を提供してくれるのは科学ではない。なぜなら科学*4はそういったバイアスや執着の彼岸のデータで構築された世界だからだ。そこには客観はあっても、心身のバイアスや執着に彩られた主観混じりのデータは存在しない。もちろん、その主観的個人にとっての是非の判断も、科学単体には伴わない。
 
 もし、主観に彩られた世界に行動指針を提供してくれる何かがあるとしたら、長い歳月に耐えて生き残っている宗教や哲学のほかには、、頼りになるものがあまり無いんじゃないかと思う。もちろん、宗教や哲学にも、その時代・その地域のバイアスがかかっているので、そこのところは取捨しなければならないけれど。それでも、長く生き残り、歴史を超えて人間に通底しているとおぼしきものを捉えて離さない宗教や思想(や文学)には、なにかしら智慧の匂いが漂っているような気はします。
 
 

バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)

バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)

進化と人間行動

進化と人間行動

 

*1:注:本当は、科学は信じるものではない。敢えてここでは「科学だけを信じたい人」と書いておいた。このニュアンス、どこかの誰かに届きますように

*2:もちろん、他の真面目な宗教諸派も、きちんと科学と折り合いをつけながら、科学ではカヴァーできない行動指針を与えてくれるものなんだと私は信じている

*3:それ自体がまた執着としても

*4:少なくとも狭義の科学