シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

石川県、浄土真宗、黒川仏壇店のCMのある風景

 
私は石川県の出身で、たぶんいろいろな大乗仏教、特に当地で大きな割合を占めている浄土真宗の影響下で育った。それでもって、無意識のうちにその宗教観や宗教文化をプリインストールされてきた、のだと思う。仏教なんて、浄土真宗なんて、と思う人もいるかもしれないし、私より若い世代では、当地でもそうしたプリインストールは弱くなっていることだろう。でも、私の世代ぐらいまではいろいろな筋道をとおして大乗仏教観が内面化される余地があった。そのあたりについて、急に書きたくなったので書いておく。
 
 

テレビCM、特に黒川仏壇店

 
「テレビCMの影響なんて」と思うかもしれないけれども、毎日毎日、CMを入れられて刷り込まれるものはあったはずで、特に家庭や地域行事と矛盾しないかたちで流れてくるCMの影響はバカにならなかったと思う。
 
・一休さんの米永
 

www.youtube.com
 
この「一休さん一休さん……ともしびともす心、一休さんの○○」というCMは、○○を他のお店に変えたバージョンが他県にもあることがわかっている。で、石川県の場合はそれが米永仏壇店で、ことあるごとにこの仏壇のCMを見ていた。
 
 
・黒川仏壇店のCM
 

www.youtube.com
 
自分的に一番インパクトがあったのが、この、黒川仏壇店のCMだ。この黒川仏壇店のCM、アニメの再放送の時間帯に放送されることが多くて、見かける機会がすごく多かった。自分の記憶では、『Zガンダム』か『ガンダムZZ』の時にもこのCMが流れていて、VHSビデオで再生するたびにこれが流れた。「心に、仏様」「あの子たちにもわかる日が来る」というフレーズは忘れがたく、子ども心には「わかんねーよ」という気持ちを沸かせ、年を取ってからは「自分の子どもにもわかる日が来るんだろうか」といった気持ちを沸かせた。
 
上掲Youtubeの、古いほうのバージョンが記憶にこびりついているやつだ。たかがCMとはいえ、仏壇をまつり、祈るという習慣が当然のように引き継がれていく前提の、石川県らしいTVCMだと思う。それを私は何百回も刷り込まれた。
 
 

地域からの影響

 
子ども時代には、近所のお寺の日常行事に参加する機会があった。たとえば報恩講という浄土真宗の行事など。子ども時代の認識として、お年寄りに連れられお寺に集合して、お年寄りは何か難しいお話をしていて、子どもはおやつをもらう日、そこらで遊ぶ日といった認識だった。ともあれ、よくわからないながらにお寺に出かける行事がときどきあった。地域の有線放送は、こうした仏教行事のたびにアナウンスをしていて、「ご近所お誘いあわせのうえお出かけください」と言っていた。
 
それとお葬式。近所で誰かが亡くなったと有線放送が告げるたび、祖父母や両親がお葬式に出向いていた。今から思うとその頻度はなかなかのもので、いわゆる家族葬ではまったく無かったことが思い出される。子どもである私がそうしたお葬式の場についていくことは少なかったけれども、たまに自分もお葬式に参列させられ、お経を聞いて座っているように言われたり、別室に用意されたおやつを子ども同士で食べていたりすることがあった。子ども心に、浄土真宗系の葬儀と真言宗の葬儀の違いに驚いて、宗派の違いの片鱗を意識させられたのも覚えている。
 
昭和の終わり頃に祖父が亡くなった時も、葬儀は地元のお寺で執り行われ、地域の人などが大勢お寺に来ていた。私はまだ小学生だったので葬儀の手伝いをするといいながらも、お寺に泊まるという体験、お寺のなかで過ごすという体験をどこか楽しんでいた。とはいえ葬儀も終わり頃を迎えると、それが別離の式であることが痛感され、納骨の前後、初めて耳にするメロディラインの念仏を耳にしたことを鮮明におぼえている。
 
あと、近くの集落に「お寺さんに通う子ども」というのがいた。寺子屋の末裔みたいなものだったのか? お寺さんに通う子どもたちは、そこで習字をやったり、学校の勉強を習ったり、お経を学んだりしていた。習っているお経は浄土真宗のものなので、浄土三部経だったと思う。学校でお経を暗唱してみせる同級生が恰好良かったので、これも私にとっては仏縁の一部になった。なぜなら、後に私はやたら写経したりお経を覚えにかかったりしたからだ。
 
 

日常のお勤めとお坊様(ごぼさま)

 
そうした仏縁のなかで一番影響があったのは、なんといっても、日常、というか自宅でのお勤めの風景とお坊様(これを、北陸地方の浄土真宗の家ではごぼさまと呼ぶ)によるお参りだったように思う。
 
祖父が死去してからというもの、我が家の仏壇は毎日のように開かれ、灯りがともされ、祖母がお経を読んでいた。それを補強するように、相当長い期間にわたって地元のお寺のごぼさまがいらして、お経をあげ、お説法をしていったのだった。月命日、というやつだ。
 
私は黒川仏壇店のCMを見て過ごしたせいか、祖母がお経を読む場面に同席することも多く、ごぼさまが月命日にお経をあげ、お説法をしていく時にもたびたび同席していた。
 
ごぼさまのお説法は、概ね、阿弥陀様のありがたさ、仏様のありがたさ、死にゆく運命の向こうに西方浄土があるといったお話で、それらは、小さい頃から私に刷り込まれた浄土真宗の雰囲気とも矛盾しなかった。幾つかのお説法は今でも記憶に残っていて、今でいう認知症のご老人が死去の数日前に突然シャキっとして、「私は間もなく浄土に旅立つということ、阿弥陀様が迎えに来てくれることを知りました」と述べたエピソードが特に忘れられない。そのエピソードを踏まえて、ごぼさまは、阿弥陀様が最後には迎えに来るんだ、的に話を締めくくったのだった。
 
こうしたお説法はほとんどが昼間に行われるもので、学校や会社に行っている人は耳にしないものだったはずなのだけど、不登校時代には毎回のようにお説法を耳にした。お説法を聞いているのは私と祖母の二人だけだったけれども、ごぼさまは実にさまざまなバリエーションのお説法を語り、法話のネタは無限にあるようだった。そのたび祖母がお茶とお茶菓子を出すのだけど、ごぼさまはお茶は必ず飲み、お茶菓子は袈裟の袖に入れることのほうが多かった。無理もあるまい。毎日何軒も訪問し、そのたびにお茶とお茶菓子を出されるのだから、全部食べて回っては糖尿病になってしまうだろう。
 
あるとき、祖母が用事で出かけなければならず、私が一人でごぼさまの御接待を任されたことがあった。ごぼさまはいつものように座り、いつものようにお経を読んだ。それが終わった後、私はちょっと緊張しながら祖母が用意してくれたお茶菓子、お茶、ぽち袋を差し出すと、ごぼさまはお説法をするのでなく、いつもと違い、私自身を気遣う言葉をかけてくれた。その言葉は失念してしまったが、そのまなざしは今でもよく覚えている。そして祖母のいる次の月命日からは再び、いつものようにお説法をしたのだった。
 
 

真言宗から浄土真宗に帰りつく

 
そんな具合に、私は石川県の大乗仏教、とりわけ浄土真宗を空気のように呼吸し、その雰囲気のなかで育てられてきた。石川県を離れ、大学に出てからはそうした雰囲気から切り離されてしまったけれども、縁というのはどこかで繋がっているもので、その後、私はさまざまなところから仏縁フラグを回収して、20代の頃は仏教全体の見晴らしを見て回ることに夢中になった。そして俗世で一生懸命に生きていくための宗教として、たぶん真言宗とその周辺宗派が良いのだなと自分自身で思うようになった。その名残りは今も残っていて、ときどき護摩を焚いてもらったりしているし、機会があれば、四国八十八か所を自分の足で踏破してみたいとも願っている。
 
けれども年を取るにつれて、そういえば、浄土真宗っていいもんだな、としみじみ思い返すことが増えてきた。それは、ごぼさまのお説法を一緒に聞いていた祖母が亡くなったせいかもしれないし、浄土真宗の僧侶であった母方祖父が亡くなったせいかもしれない。そのたびに私が目にし、耳にしたのは浄土真宗の葬儀であり、お経だった。耳慣れたお経。見慣れた仏壇。そしていつの間にか随分年を取っていた自分自身と、親族たち。
 
いちばん浄土真宗から遠ざかり、奈良仏教~平安仏教にいちばん近づいていた頃の私は、将来の私自身について「やがて自分自身で道を切り開くことに疲れた時、結局、浄土真宗に帰って阿弥陀様の救いを待ち望むようになるだろう」と予測していた。ただ、それが起こるのは60代に入ってからか、病を得て死期が見えるようになってからだと思い込んでいた。ところが実際にはそれよりずっと早く、私は南無阿弥陀仏に回帰しかかっている。
 
南無阿弥陀仏と唱える以外にもいろいろあるし、いろいろ大乗仏教したっていいじゃないという思いは今でもある。そして相変わらずキリスト教文化とその思想の末裔にも、しばしば胸を打たれてしまう。しかしそれはそれ、これはこれ。郷土の宗派に対する思いが日に日に高まっているのを感じる。まさに、三つ子の魂百までだ。
 
今、仏壇に向かって浄土三部経をあげているのは祖母ではなく、母だ。それほど遠くない未来、墓や仏壇の形態が今とは異なった何かに変わることがあるかもしれない。だとしても、信仰と様式と祈りの精神はなんらかのかたちで私が継承していくのだろう。
 
こうして、黒川仏壇店の「心に、仏様」「あの子たちにもわかる日が来る」は、私の内において実現した。南無阿弥陀仏は、阿弥陀様が浄土まで來迎してくれるという浄土真宗的な約束の言葉であると同時に、その信仰を後発世代へと伝えていくキーワードでもある。そうした約束とキーワードのなかで育ったことを、私はありがたく思う。