シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』の感想というか

 

 
週末、縁があって『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』を読んで楽しかったので感想文を書き残すことにした。
 
はじめはそれほど興味を感じなかった。この本は、人類を即座に滅亡させられる魔王によって10人の人間が集められ、反出生主義を主張するブラックと、それ以外のレッド・ブルー・イエロー・オレンジ・ゴールド・シルバー・パープル・グレー等々が議論する形式で進んでいく。議論といっても、はじめはブラックが反出生主義について語り、他のメンバーがそれに違和感や反論を述べ、道徳的見地からブラックがそれに反論する、そんな感じが続く。
 
この前半のブラック無双なやりとりは反出生主義のやさしいイントロダクションになっていて、反出生主義がどんな考え方なのかを掴むには向いている。たとえば反出生主義と、ただ「生きていくのが辛いから世界が滅んで欲しい」と願うのはどう違うのかや、反出生主義の背後にある「人が苦痛を感じ得る状況が悪である」とするロジックなどが、ブラック以外が噛ませ犬的に登場することでわかりやすく説明されている。
 
反出生主義のやさしいイントロダクションとして、この前半パートはかなり練られていると私は感じた。本書全体もそうだが、やたら難解な哲学者や哲学用語がしゃしゃり出てくるのを避け、そういう方面をよく知らない人でもしっかり理解できるよう工夫されている。反面、ここではイントロダクションが優先されているせいで、ブラックが目立つのとは対照的にレッド・ブルー・イエロー・オレンジといった他の面々は精彩を欠いている。この本の前半は、ブラックが語る反出生主義のイントロダクションだとはじめから割り切ってかかったほうが抵抗なく読めそうだ。
 
ところが後半にさしかかると様子が変わってくる。
ひととおりのイントロダクションが終わったためか、ブラックとその反出生主義に対してそれぞれのメンバーから、さまざまな突っ込みが入る。たとえば自由主義者のオレンジも、ブラックが自分のロジックを拡張させようとした際にシャキっとしたことを言っている。
 

 ブラックはこれまでずっと「苦痛を増やすこと」は道徳的に避けるべきだ、という話を繰り返してきた。
 たしかに、子どもをつくるということは、苦痛を感じる存在が世界にひとつ増えるということにほかならない。それは、大きな悪を含む行為なのかもしれない。
 でも、その道徳原理を「生まれてこなければ『よかった』」というかたちで過去にまであてはめてしまうと、妙なことになる気がする。もし仮に「わたしたちが子どもを生むのは悪」というのが事実だったとしても「わたしたちが生まれてきたのは悪だった」と言ってしまっていいの?
……これまでの子どもを生む/生まないという話は、あくまで未来をどう決定するか、って議論だった。それに対して「生まれてこない方がよかったかどうか」は、すでにわたしたちが生まれてしまっているこの世界と、わたしたちが生まれてこなかった”もしも”の世界を比べている。そこが大きく違う。
……どんな「もしもの世界」を考えるにせよ、まずこのわたしたちの生きている世界が現実だってことは前提のはず。その現実から「宇宙になにもない世界」を空想し、もしそっちの世界が現実だったら、と考えたとき……当然そこに「わたしたち」は存在しなくなる。というより、初めから存在しなかったことになる。
 「わたしたちは初めから存在しなかった」──そうなると、思考のスタート地点である「このわたしたちの生きている世界」がなかったことになるから「わたしたちが生きている世界」を俯瞰して比べることもできなくなって……。
『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』より

こんな具合だ。この、オレンジの思索のなかには道徳や哲学のテクニカルタームは登場しない。しかし、その思考の手続きはなんだか哲学的だ。道徳や哲学を論じる人は、その適用範囲や定義に敏感だ。そして、その適応範囲や定義の"きわ"を手繰り寄せて是非を論じたり次の議論を準備したりする。
 
私は、後半のこういうところが楽しいと感じる。後半パートのオレンジやパープル、シルバーらはテクニカルタームに頼ることなく、ブラックの提示する反出生主義とその周辺についてさまざまな議論を行っている。だから道徳や哲学のテクニカルタームをよく知らない人でも、この議論なら読みこなせる。もちろん、上記のオレンジの思考の手続きじたいがテクニカルタームのようなものだ、と反論する人もいるだろうし、実際こういう手続きじたいを受け付けない人もいるだろうけれども。
 
やがて議論は、道徳的正しさの適用範囲はどこまでなのか、宇宙や神にそうした考えを適用できるのかといったスケールにまで広がっていく。反出生主義をスタートとして思索を続けると、世界の是非や神の是非といった話に飛び火してしまうさまが、読みやすく、面白く記されている。この、ひとつの議題からスタートして世界全体、宇宙全体に敷衍していく感じも哲学っぽい。こうした哲学っぽい面白さを、反出生主義というテーマに沿って比較的読みやすく体験できるのが『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』という本なのだと思う。
 
そんなわけで、この本は『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』というタイトルに偽りなしの本だといえる。前半が反出生主義のやさしいイントロダクションで、後半は反出生主義内外をめぐっての議論や発展となっている。これが哲学・道徳業界的にどの程度の精度・価値の作品なのかを私は評価できないけれど、読みやすさを保障しながら哲学的思考の手続きを追体験させてくれるのは私には楽しかった。哲学や倫理学に対して徒手空拳の状態の人が反出生主義とその周辺に思いを馳せるなら、これは、結構いい入口なんじゃないだろうか。
 
 

私個人としては

 
なお、私自身はこの本に登場するオレンジとホワイトとグレーの立場に近い。巻頭の説明では、オレンジは自由至上主義者、ホワイトは教典原理主義者、グレーは??主義者とされている。
 
オレンジについてはさきほど引用したので、略。
ホワイトについては、私は日本の在家の大乗仏教徒&日本のアニミズムの影響下にあり、その世界観や道徳観で生きているから。
グレーについては、伏字がされているので詳しく書くのがためらわれる。が、このグレーの世界観や道徳観にも私は親しみをおぼえる。
 
反出生主義というテーマを見聞きするたび、私は脊髄反射として、右のようなことをまず思う──「反出生主義とは、主体においては道徳や倫理の問題として、社会においては危機として立ち上がってくるが、娑婆においては意に介する必要のない問題だし、娑婆は意に介するまでもなくそこにある」。
 
仏教、とりわけ大乗仏教には六道という世界観がある。すなわち天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界または境地を人は巡り巡るという。あるいは生きとし生けるものは(輪廻転生をとおして)六道を生きるという。
 
私は、この六道に普遍性を、いや、自動性を感じる。娑婆世界とはそういうもので、その是非を問うこともその自動性を云々することもあまり興味がない。
 
そしてたぶん西洋哲学・西洋倫理体系を内面化した人に比べると人間と動物の境界があいまいで、私自身、自分は畜生道をゆく動物の一匹だと強く自覚している。現代社会は動物的ではないと述べる人もいるだろうし、現代社会ではホモサピエンスの動物的側面の相当部分が抑圧・抑制されているのも事実だ。とはいえ、ホモサピエンスは狩猟採集社会の頃から共同体や社会を作っていたわけだから、動物的側面は多かれ少なかれ抑圧・抑制されるものだったし、現代社会もまた、そこにいる主要な人間たち特有の物理的・倫理的・政治的布置を環境因として共有しながらも、自然淘汰と性淘汰の場であり続けている──少なくともそういう側面を免れてはいないし、たとえば最近は、現代社会における自然淘汰の実相が見えづらくなる一方で性淘汰は見えやすくなった。
 
こうした諸々も、この本のブラックにいわせれば「ならば娑婆全体、宇宙全体がなくなってしまうべきだ」となるのだろう。しかしブラックの反出生主義の道徳的ロジックは西洋由来のもので、ちぇっ、西洋由来の道徳的ロジックでインド生まれ東洋育ちの娑婆という世界観が否定されなければならないのかよ、と思ったりもする。アフリカの人やイヌイットの人もそう思うんじゃないだろうか。
 
これに限らずだけど、西洋由来の道徳的ロジックは、その道徳や哲学がさも不変であるかのように、西洋ではない地域の文化や人生や価値観を云々し、評価し、自分たちの世界の道徳的ロジックにそぐわなければ修正を迫る。仏教文化圏やアニミズム文化圏における世界観や宗教観や死生観のことなど忖度してくれない。同じく、それ以外のさまざまな問題に関しても、私たち東洋の文化や人生や価値観を云々し、評価し、自分たちの世界の道徳的ロジックにそぐわなければ修正を迫る。日本の近代化とは、そういったものの連続だった。これからもそうだろう。そして反出生主義にせよ、それ以外の問題にせよ、反駁する際にも西洋由来の道徳的ロジックをもってしなければ相手にしてもらえない。
 
ということはだ、反出生主義に賛成するにも反対するにも、西洋由来の道徳的ロジックを西洋由来の大砲や軍艦のように揃えるしかなすすべはないわけだ。道徳や倫理の世界においては、西洋的帝国主義は健在だと、ふと思ったりする。西洋に伍するために西洋の大砲や軍艦を購入したりライセンス生産したりしたように、自分たちも西洋の道徳や倫理を身に付け、それで交戦できなければならないわけだ。ということは勝っても負けても結局、道徳や倫理の西洋的帝国主義という土俵に巻き込まれることにはなる。そのとき、たとえば娑婆世界とか、たとえば慈悲とか、そういった概念はここでいう大砲や軍艦としては役に立たない。もちろん、それらが西洋の道徳や倫理によってコンパイルされることならあるかもしれないが。
 
ああいや、そういうことを書きたかったわけではない。
 
私は生老病死と共にあり、娑婆世界を生きる愚かな動物で、喜怒哀楽にまみれて歳を取り、いつか苦しんで死ぬだろう。この本のなかでブラックは、このいつか苦しんで死ぬ未来への、いや、未来全般への耐えがたい怖さに言及している。これはシンパシーを感じるところで、実際、娑婆は暗くて怖いところだと思う。そこでコバエのように増殖するのがわれら生物であったはずで、漫画『風の谷のナウシカ』の最終巻でナウシカが言ったように、私たちは「闇のなかでまたたく光」だ。そしてそんな暗闇のなかを生きる私たちに、お地蔵様や阿弥陀様は慈悲を示している。ナウシカも、慈悲を示すだろう。
 
こうした私の宗教観と世界観に対し、反出生主義がどう位置付けられるのか。この本をとおして私は、反出生主義は自分の宗教観と世界観を侵すものだと感じた。それは別に宗教観や世界観だけを侵すものではなく、西洋の枠組みが私を侵す、いつものありかたの延長線上のものでしかなかったのかもしれない。苦の滅却という結論のところをみれば、反出生主義は阿羅漢や解脱に似ているようにもみえるが、そうではないことがくっきりわかったのも私にとって収穫だった。
 
おかしなことに聞こえるかもしれないが、この本を読んだ私は、信心をもっと深めたいと思った。