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今週、NHKのサイトで"在宅勤務中も禁煙"を求める企業の動きについての報道があった。野村ホールディングスは、出社している社員に加えて在宅でリモートワークしている社員にも、就業時間中は禁煙を求めるのだという。
こうした動きは社員の健康の維持と生産性向上を図るねらいがあるとのことで、イオン、カルビー、味の素なども似たような取り組みをしているという。そして働く人の健康づくりを重視した企業経営は「健康経営」と呼ばれ、経済産業省も後押ししている。
健康と生産性の名のもと、社員は飼い殺されるのか
しかしこれは、社員の自由や裁量を奪うものではないだろうか。
企業が営利を求める以上、社員に生産性を期待すること自体はわかるし、その延長線として社員の健康に目を向けるのも自然な成り行きにみえる。しかし、ある社員にとって何が生産性を向上させるのか、それとも向上させないのかは個人差の大きいことのように思える。この場合、タバコが制限の対象になっているわけだが、(ほとんどの人が飲めば生産性がガタ落ちしてしまうアルコールなどと違って)特にタバコの場合は、業務のアクセントになっている人はまだまだいるのではないだろうか。
分煙化が進んでいる現在では、職場での完全禁煙はよく理解できるし、それに慣れている人も多い。しかし今回は話が違っていて、リモートワークしていて分煙問題をクリアしている社員の喫煙まで、健康と生産性の名のもとに禁じようというのである。あくまで私企業が社員に「求める」だけだから強制力は無いと考える人もいるかもしれないが、私はそうでないと思っている。確かに私企業が社員に「求める」だけなら、バレないように喫煙するなど造作もないだろう。しかし私企業が社員に「求める」以上、バレればそれはスキャンダルやペナルティの対象になる。そうである以上、この「求める」にも多少の強制力が伴っていて、キャンペーンとして実効性があるとみるべきだろう。
私はこの動きが、とても怖いと感じている。
怖い理由の第一は、この動きが、(資本主義に基づいた)生産性向上という大義名分と、健康の維持という大義名分によって正当化されていることだ。
経済産業省が後押ししていることが象徴しているように、「生産性の向上と健康の維持」には普遍的価値に近い響きがある。普遍的価値に近い響きがあるということは、そのための施策やアクションを正当化する大義名分として非常に強い、ということだ。後でも触れるように、この施策は個人の自由を制限するものだから、なんの大義名分もなくやって良いことではあり得ない。ところが生産性向上と健康の維持のためという大義名分が伴っていれば、できてしまうのである。
怖い理由の第二は、働くこと・パブリックな領域での活動が、大義名分さえあればプライベートな領域の個人活動を制限できるよう、なっていきそうだからだ。
在宅リモートワーク中の社員の行動まで制限するのは、出社している社員の行動を制限するのに比べて、よりプライベートな領域への制限となる。もし、社員の生産性向上と健康の維持が大義名分となって社員のプライベートな領域にさまざまな「求める」を突き付け続ければ、社員のプライベートは早寝早起きを当然とし、飲酒喫煙を禁じ、フィットネスクラブでネズミ車を回すような、そういったプライベートにならなければならないだろう。もちろん、在宅リモートワーク中の社員の行動を制限するのと、オフタイムの社員の行動を制限するのでは、現段階ではそれなりの距離がある。しかし前者が定着したあかつきには、生産性向上と健康の維持という大義名分は、ただちに後者を射程におさめるだろう。
“在宅勤務中も禁煙”求める企業相次ぐ | NHKニュースb.hatena.ne.jp射精管理までしてきそう。
2021/09/01 19:08
たとえば射精管理なんて馬鹿げていると思うかもしれないが、それが生産性向上と健康の維持に貢献するというエビデンスが集積する限りにおいて、「健康経営」に真剣な人々は本気で射精管理について議論してしまうのではないだろうか。
2020年代は新型コロナウイルス感染症が世間にはびこっているので、健康の維持という大義名分がクローズアップされやすくなった。今の世の中を見てもわかるように、健康維持という大義名分があれば普段は通らないような施策や「求める」が正当化され得る。または、そこまでいかなくても追い風を得る。
今は、健康の維持という大義名分をもってさまざまなことを制限したり介入したりする千載一遇のチャンスだといえる。そうした制限や介入に人々を慣らし、非常識を常識にしてしまうチャンスでもある。機会をうかがっていた人々は、このチャンスを逃さないだろう。
生産性と健康を突き詰めると「ほんものの社畜」ができあがる
さきにも述べたように、現代社会において生産性向上と健康の維持は普遍的価値にも等しく、今後、私たちの生活はこれらの大義名分に沿ったかたちで"改善"されていく可能性が高い。いや、本当は20世紀からこのかた、"改善"は続いているのである。では、私たちの生活が「健康経営」というスローガンによって"改善"されていった行き着く先はどのようなものか。
私は、良い意味でも悪い意味でも行き着く先は家畜化ではないかと思う。
良い意味での家畜化とは、働く私たちはますます健康に、ますますマネジメントされた、ますます生産的で効率的な労働者になれるだろうということだ。
働く人々の健康はますます増進する。過労死も自殺もメタボも少なくなり、80歳になっても働き続けられるようになる。生産性や効率性が向上した結果、GDPは少子化の割には低下せず、国力は高い水準で維持される。
悪い意味での家畜化とは、ますますマネジメントされた私たちはまったく不自由になり、生産性や健康に奉公する存在になり果ててしまうだろう、ということだ。
生産性や健康を至上命題とする"改善"が行き着く先は、もちろん喫煙や飲酒が禁じられた世界、さらにカフェインや一部の香辛料も禁じられた世界ではないだろうか。昼食にラーメンを食べたり三時のおやつにチョコタルトを食べるのは、メタボの可能性があるから"改善"にそぐわない。禁じられるか、さもなくばいわゆる愚行税*1の対象になる。登山やスキューバダイビングといったリスクを伴うレジャーも同様だ。健康的で道徳的な余暇を正しく楽しむことが、人々の権利となり、また義務となる。
今世紀になってまもなく、社畜という言葉が人口に膾炙したが、社畜とはいうものの、社員にはプライベートがあり、自嘲的に社畜を自称する人々もラーメン二郎を訪れたり居酒屋でくだをまいたりしていた。
けれども企業や社会がプライベートに介入し、生産性や健康の維持に忠実であるよう求めることが常態化すれば、社畜の社畜度は今とは比べ物にならないほどになる。私たちは生産性と健康の維持のために、職場でもプライベートでも努めなければならなくなるし、そうであるようマネジメントされる。これでは完全に家畜ではないか。
そうとも。24時間365日、揺りかごから墓場まで生産性を期待され、健康を維持するようマネジメントされることで、私たちは社会的に完全に家畜化される。真・社畜の誕生だ。社畜とは、ここでは二重の意味を持つ──つまり私たちは会社に飼われる家畜であると同時に社会に飼われる家畜となるわけだ。
自由とは、どうでもいいもの・くれてやっていいものなのか
家畜には自由はない。何をすべきかを他人に決められ、与えられ、保護されるだけの者には自由などない。まして、そうやって決められ与えられ保護されるだけの状態に疑問を感じない者には尚更である。
しかし今、その自由について考え、守り抜きたいと思う人は本邦にどれぐらいいるだろうか? 自由なんて、生産性や健康の維持のためなら、気前よくピザを切り分けるように国や企業や社会にくれてやっても構わないと思っている人が多いのではないだろうか。あるいは自由などなんの値打ちもなく、それを守るための闘争など想像できず、空気と同じく与えられて当然だと思っている人すらあるのではないだろうか。
自由が失われれるプロセスにも色々あり、たとえば宗教原理主義勢力や全体主義勢力に侵略された国では個人の自由はなくなる。こういう外敵による自由の喪失は、わかりやすいし警戒もしやすい。
しかし外敵によらずとも、たとえば社会の通念や制度によって、あるいはアーキテクチャの設計によって、いわば内から個人の自由がなくなっていく脅威もあるように思う。生産性や健康の維持は、それらが私たちの手段であるうちは私たちの自由に資するだろう。けれどもそれらが私たちの目的となり、主人となり、至上命題となった場合は話は別だ。それらは私たちに命じるようになり、私たちを監視するようになり、私たちを品評するようになる。
生産性や健康の維持は、自由を愛する人間にとっても重要な手段であるから、それらに目配りすること、特に専門家がそれらを推進することに異存はない。しかし今後、それらが私たちへの介入を深め、それら自体に貢献させるべく私たちを束縛する度合いを深めていくなら、深刻な自由への脅威、もう少し控えめにいっても私たちが自由と呼んでいるものの形骸化をもたらしかねないだろう。
進化の目で見るなら、人類は、ある程度までは自己家畜化を行ってきた生物種であり、社畜がいよいよ家畜になったからといって驚くほどでもないのだが、とはいえモノには程度があり、生産性と健康の維持のために生きる以外の生き幅が制限されるようになったら、人類の未来はブロイラーの現状とさほど変わらぬものになるだろう。それでいい、それこそがいい、という人もいるだろうが私はそうではないので、こうした動きには注意を払っておきたいと思う。
*1:ところで、この愚行税とか愚行権といったボキャブラリーからは、何が愚かで、何が愚かでないのかを決める立場があるのは私たちだ、という強い意志を感じる。他人の行動のひとつひとつが愚かかどうかを決められる立場にある、少なくともそうだと思い込んでいる人がいるようだ。