シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ますます静かに・安全になっていく社会は人間を自由にするか

 
anond.hatelabo.jp
 
リンク先の文章には、近隣の公園の喧騒に過敏になり、クレームをつけるに至った人の体験談が丁寧に記されている。いつものようにはてなブックマークにはたくさんのコメントが集まっていて、さまざまな意見、見解、感想が入り混じっている。
 
コメントのなかには、筆者の体験を病的であるとみなし精神科病院に行くよう勧めるもの、逆に精神科病院に行くよう勧めることが問題の個人化を促し、環境の改善がおざなりになってしまうのを懸念する声も見受けられた。なるほど。とても現代的だ。ここでは、近隣での騒ぎ声についての悩みが医療化されていると同時に、行政にクレームをつけることで改善を期待するさまが読み取れる。どちらも昭和時代以前には稀なソリューションだったに違いない。
 
昭和時代だったらどんなソリューションになっただろうか。
決まっている。「コラー!」である。
 


 
公園で青少年が騒いだり焚火をしたり爆竹を鳴らしたりしていた時代とは、そうした青少年を近隣の大人たちが直接叱ったり、制裁したりして構わない社会だった。『ドラえもん』に登場する脇役のカミナリさんがリアルだった頃のことである。行政を介してクレームを入れるような迂遠な方法をとらず、直接介入するし、介入して構わない社会。逆にそういう社会だったから子どもたちが近隣で割と好きなことをやれた、とも言えるし、子どもたちは危険な大人のいる場所を観察し、情報交換していた。
 
それだけでなく、当時の状況はもう少し複雑だったように思い出される。不埒な素行の青少年をどこまで大人が叱ったり制裁して構わないかは、その大人が地域でどの程度の権力や影響力を持っているのかに左右された。あるいはその大人自身の腕力か。地域のなかでその大人の立場や影響力が弱く、腕力にも行動力にも恵まれない場合、青少年に介入するのは難しい。下手をすれば返り討ちに遭い、立場や影響力の強い地域の大人からの介入を招くおそれもある。当時は青少年自身がある程度の権力を持っていた、とも言えるかもしれない。地元の青少年集団は公に認められる権力者ではなかったが、脅迫や破壊、嫌がらせに訴えることのある存在だった。
 
こんな具合に、公園で騒ぐ青少年に直接介入可能な社会とは、誰もが好き勝手に介入可能な社会ではなかった。権力や影響力や腕力次第の不平等な社会、弱い者が泣き寝入りを余儀なくされ、強い者が世にはばかる、そのような社会だった。今日の社会正義の観点からみて、不正な社会だったといわざるを得ない。現代社会と対置される地域社会、いわゆるゲマインシャフトな社会とは、そのように暴力や権力や影響力がローカルに分散し、法や(国家への)暴力の独占が進んでいない社会だった。
 
  
 
対していまどきのゲゼルシャフト的な社会、つまり社会契約に基づいた社会とは、法の徹底や暴力の独占が進行し、暴力や権力や影響力のローカルな分散がなくなろうとしている社会だ。そこでは、個人の行動の制限は個人間でふるわれる暴力等によって決められるのでなく、行政や管理機関を介したかたちになる。弱い個人でもクレームできるという点で、地域社会より平等だとはいえるだろう。たとえば隣の公園で夜通し騒ぐ青少年に困っている高齢者がその改善にクレームをあげられるのも、マンションの隣家の騒音に怯えている独居女性が管理機関に改善を依頼できるのも、そのおかげだ。
 
だから近隣の公園が騒がしいからと直接青少年に文句を言ったり殴りかかったりするのでなく、クレームという経路を介するのはいかにも社会契約的な身振り、現代的な身振りだ。そのクレームの妥当性については、行政や管理機関が判断するだろう。
 
 

変わりゆく「どこからが迷惑・危害・リスク」

 
と同時に、冒頭の記事は社会契約の進展以外のことも物語っている。筆者は、公園で青少年が騒ぐのに耐えかねて次第にストレスを募らせていったと記し、さらに以下のようにも書いている。

俺も学生のころ、男子連中で友人の家に寝泊まりし、近くの公園でバカ騒ぎした記憶がある。
下校時に彼女を連れ立って、公園の木の陰でいい思いをしたこともある。
迷惑をかけたし、その近隣の住民に我慢を強いたうえで「仕方なく許された」のが今の俺であることは解る。
実際それらは個人的には「いい思い出」として処理されているし、懐かしく思うこともある。

筆者は、騒音に耐えかねている自分自身も過去には公園でバカ騒ぎし、迷惑をかけた、仕方なく許されたことを理解している。では、当時の筆者は当時の社会からどれぐらい逸脱していただろうか。そしてその「バカ騒ぎし、迷惑をかけた、仕方なく許された」出来事は当時の近隣の人々にどれぐらい際立った迷惑と認識されただろうか。
 
実際には、そこまで際立った迷惑と認識されていなかったのではないか? と私は推測する。
平成から昭和へと遡れば遡るほど街は騒がしく、人々は大声を出し合っていた。平成20年頃、私は出身大学からほど近い地区で飲み屋をやっているマスターからこんな言葉を聞いた:「最近はこのあたりも静かになりました。昔は学生や若者の声で騒がしかったんですが」。実際、学生時代からしばらくぶりに滞在したその地区は、私の記憶よりもずっと静かだった。というより地方都市全体が静かになっていた。
 
もっと遡って昭和時代を思い出すと、私の家の隣の空き地では、夏の夜になると盆踊り大会や祭りの練習で何時間も騒がしかった。話し声、スピーカーからの音楽、太鼓や笛の音、そして子どもの泣き声や笑い声。しかし私たちはそれが迷惑だとは認識していなかった。現在の私なら、それらを迷惑と認識するだろう。
 
列車の風景も昭和時代と令和時代ではかなり違う。大声や散らかしは昭和時代のほうがずっと多く、それを迷惑と認識する人は少なかった。もちろん当時も敏感な人はいたはずだから、そういう人は、街のあちこちから聞こえてくる声、音、におい、といったものにすっかり参っていたに違いない。しかしそのような個人は現在よりも少数派で、より多くの人が当時の騒がしさの水準に慣れ、喧噪に向かって「迷惑だ、やめろ」と主張することも、行政や管理機関にクレームすることも少なかっただろう。へたに行政に相談しようものなら、個人の問題として門前払いされた可能性が高い。
 
今日でも、そうした喧噪が残っている世界はある。長距離列車の待合で大きな声でしゃべる中国の、おそらく地方から来たとおぼしき恰好の人々。台湾の列車で顔見知りのおばさん同士が話を弾ませている姿。それらは日本の鉄道の風景、特に新幹線や東京メトロの風景とは対照的だ。訪日外国人観光客ですら、ある程度まではそうした日本の秩序に従う。
 
もちろんこれは、騒音だけに限ったことではない。
 

 
体臭、不衛生、法規やマナーからの些細なはみ出し、不安や不審をもたらす行動や感情──。これらは時代を経るにつれて迷惑なもの、リスクをはらんだものとみなされるようになった。過去には迷惑未満だった些細な問題点や逸脱までもが、迷惑以上のもの、責任が問われるものや排斥されるべきものへと変わっていく。以前なら門前払いされていたさまざまな行動にも、行政や管理機関が介入するようになり、メスを入れるようになった。その結果、公園には禁止を呼び掛けるさまざまな看板が立てられ、街からはホームレスがいなくなり、職場のコンプライアンスは向上した。
 
[関連]:【続報】「やめて」「禁止」看板24枚乱立の公園…「不必要なものは撤去する」と練馬区<ニュースあなた発>:東京新聞 TOKYO Web
 
  
その是非や功罪をまとめるのは難しい。
こういうことには、良かったことも悪かったことも伴うに決まっているからだ。
 
私が気になっているのは、こうして迷惑と判定されクレームの対象たり得るものが広まったことで、他人に危害や迷惑をかけず、最大多数の幸福を実現するにあたって私たちに期待される要求水準が変わってしまったことだ。
 
最大多数の幸福を目指すこと、お互いに危害や迷惑を加えないことについては、ベンサムに引き続いてスチュアート・ミルが功利主義と危害原理といったかたちで論じた。
 *スチュアート・ミルの『自由論』は、今日の社会正義について考えるうえで重要な、功利主義や危害原理について簡潔にまとまった本である。哲学者の書籍というと身構える人もいようし、実際、哲学書って参考文献をたくさん読み込んで当時のヨーロッパ社会の常識まで知っておかなければ読みづらいことこの上なかったりもするが、この『自由論』の光文社訳は読みやすいほうだ。この文章をとおして興味を持った人ならトライしてみる値打ちがあると思う。
 
個人は、お互いに迷惑や危害を加えない範囲において自由だ、その前提でお互いに幸福追求をやっていきましょうとミルは説いたし、大筋としてこれに反対する人は少なかろう。しかし、ミルが『自由論』を説いた19世紀のイギリス、昭和時代の日本、令和時代の日本それぞれで迷惑や危害に該当する範囲が異なっているとしたらどうだろうか?
 
19世紀のイギリスや昭和時代の日本には、まだまだゲマインシャフト的な領域が残っていて、今日、迷惑や危害やリスクとみなされている多くのものがそのようにみなされていなかった。騒音、体臭、光害、子どものやらかしなどは、今日に比べれば迷惑や危害やリスクとみなされる度合いが低かった。タバコの副流煙もそうだ。迷惑がっていた人は昔からいたし、発がん性のエビデンスも後に見つかったわけだけど、嫌煙権訴訟の顛末が示すように、昭和時代にはそれすら迷惑や危害やリスクとしてカウントされていなかった。
 
それが、社会の進歩とともにさまざまなものが迷惑や危害やリスクとみなされるようになり、禁止され、排除され、一部は逸脱とみなされるようになっていった。生産性や効率性が高まり、リスクが回避され、健康と快適さと利便性が追求されていくうちに、危害原理に抵触するとみなされる行動が増えていったわけだ。私たちは、そういう社会の恩恵を享受していると同時に、危害や損害やリスクとみなされるものが増えたぶん、昔よりも行動を律しなければならなくなった。
 
人的流動性の高い現状では、その迷惑や危害やリスクを巡って「お互い様」や「持ちつ持たれつ」という考え方は成立しにくい。功利主義や危害原理の恩恵だけ受け取って行動を律しようとしない人間は、フリーライダーである。そういったフリーライダーは(ときには直接的に、ときには婉曲に)締め出されるか、矯正されるよう期待されがちだ。
 
こんな具合に、功利主義や危害原理の理念は変わらなくても、何が迷惑や危害やリスクとみなされ、どのような行動や人物が逸脱に当てはまるのかは大きく変わっている。スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』やノルベルト・エリアス『文明化の過程』などを読む限り、そうした迷惑や危害の定義拡大の系譜はなかなかに長く、日本固有の現象とも思えない。しかし日本はそうした変化が強く起こっている国のひとつで、人口規模を踏まえて考えるなら、こうした変化が世界最高レベルで起こっている国だと言える。
 
ゲマインシャフトで弱い立場だった人、昭和時代の喧騒によって神経病みになっていた人には良い時代になった。いや、ほとんどの人にとって良い時代、恩恵のある時代だと言えるだろう。クレームや権力闘争にコストを費やさなくて構わなくなり、泣き寝入りを回避しやすくなり、それでいて迷惑や危害やリスクに曝されにくくなったわけだからそう言い切っても構わないと思う。
 
そのかわり、私たちは昭和時代よりずっと自分自身を律し、令和時代の基準にかなった行動をやってのけなければならない。できない人がいるとしたら、その人は治療や矯正の対象となったり、寝転がれないベンチのような、遠回しな排除に直面するかもしれない。そうした治療や矯正や排除に際しては、功利主義や危害原理は、正しさの大義名分として機能する。
 
 

オーバーな功利主義や危害原理は私たちをどこに連れていくのか

 
私が見知っている限りの欧米社会や途上国では、功利主義も危害原理もここまで繊細には捉えられていないようにみえ、この、日本風の基準は大半の外国人からみて過剰とうつるのではないかと思う(し、それって違うんじゃないの? と指摘するのではないかとも思う)。それらの国々の功利主義や危害原理は、スチュアート・ミルの語った水準にまだしも近い。そうした水準のもとでは、功利主義や危害原理は社会と個人を束縛するよりも社会と個人に自由をもたらすのではないか、とも推測する。
 
では、日本ぐらいの水準の功利主義や危害原理はどうだろうか? いや、もっと進んで、現在よりも多くの行動が危害や迷惑やリスクとみなされ、ますます私たちが静寂に、清潔に、生産的で効率的にならなければならなくなった未来の社会は、私たちをどこまで自由にし、どこまで束縛するだろう?
 
私は、この調子で社会がひたすら漂白され、個人までもが漂白されようとしていることを心配する。この方向へのとめどもない変化は、人間の自由を増やす以上に人間の自由を損ね、人間をごく狭い行動の鋳型に押し込めるものではないだろうか。そして鋳型におさまりきらない人間に対して、鋳型におさまりきるマジョリティが正義の御旗のもと、あんなこともこんなこともできてしまう社会への入口だったりしないだろうか。
 
最後に、当のスチュアート・ミルの『自由論』の一節を拝借し、この文章の結びとしたい。
 

"人間の場合もそうだが、政治や経済の理論の場合も、人気がないときは目立たなかった間違いや欠陥も、勢力が増すと表面化する。" スチュアート・ミル『自由論』