シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

昭和の日、繊細になりゆく令和の秩序について考える

 
今日は昭和の日だが、最近、私のツイッタータイムラインには昭和時代の漫画表現のおおらかさ、フリーダムさに驚いている投稿がよく飛び込んでくる。
 


 
 
自粛の最中だから漫画を読む人が多いのか、それとも自粛をあてこんで無料で配られる漫画が多いせいか、昭和時代の漫画について目にする機会が増えた。私も、2019年に昭和の少年漫画を調べてまわった時には、カジュアルな暴力の描写に驚いた。ただ暴力が描かれるのではなく、その暴力がどれも何気なくて、他人を叩くこと・他人と喧嘩をすること・コミュニケーションの一手段として腕力を用いることが、例外としてではなく、当たり前のこととして描かれていた。
 
たとえば21世紀の大ヒット作品、『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』に登場する暴力と比較すると、昭和の漫画には和やかな日常の一部として、もっとナチュラルに暴力が描かれる。『サザエさん』や『ドラえもん』といった、最ものどかな漫画でさえそうだ。
 
それらの昭和漫画で描かれる暴力は、暴力を暴力として描くのでも、凄絶な集団の凄絶な行動として描くのでもなく。ギャグとして描かれるのとも違って。日常の一部として、やりとりの一部として暴力が登場している。いや、たぶん、昭和時代の段階では、それらは暴力とは呼ばれない何かだったのだろう。
 
令和時代には暴力と呼ばれるような喧嘩やコミュニケーションのかなりの割合を、昭和の人々は暴力とみなしていなかった。大人も子どもも両方だ。そして私が憶えている限り、そのような喧嘩やコミュニケーションのノウハウや受け止め方をみんなが経験し、多かれ少なかれ身に付けていた。令和時代の秩序感覚からすれば、昭和の人々も、昭和の漫画も、あまりに粗暴で許されないとみなされるだろう。昭和の表現や作品は、『この表現は昭和時代に描かれたものです』という鍵括弧に入ったものとして読み取られなければならない。
 
では、昭和時代は地獄のような世界だったのか?
 
令和時代の秩序感覚でいえば、そのとおりだろう。
 
いじめやハラスメントや虐待に相当するものが日常に潜在していて、それらを"我慢"していたのが昭和時代……と語るのが令和時代においては無難な態度だ。けれども実際には、喧嘩やコミュニケーションとみなされる範囲、いじめやハラスメントや虐待と感じられる範囲が昭和と令和では大きく異なっていた。それらに対処するノウハウの蓄積も違っていたし、それらの社会的な位置づけ──喧嘩というコミュニケーションのフレームワークでとらえるべきか、暴力や犯罪という逸脱のフレームワークでとらえるべきか──も違っていた。だから事態はそれほどシンプルではなかったはずである。
 
昭和から令和にうつるなかで、私たちは暴力や迷惑に対して繊細になり、社会から暴力や迷惑とみなされそうな言動や表現・誰かを不快にしかねない言動や表現を追い出していった。倫理や正義や正当性にてらして言えば、それらは進歩と呼ぶべきだろう。
 
ただ、昭和の漫画表現を久しぶりに眺めると、私たちが数十年の間にどれほど繊細になってしまったのかを思い出さずにはいられなくなる。私たちは、いったいどこまで繊細になっていくのだろうか? どこまで繊細になるべきなのだろうか?
 
 

繊細な社会秩序の行き先は何処?

 
取っ組み合いの喧嘩やビンタが暴力とみなされ、いくつもの表現や言葉が禁じられていったのは、大筋では、良いことだったに違いない。傷つかずに済んだ人、"被害"を受けずに済む人も増えたことだろう。
 
また、ホワイトカラー的な職業に就いている私は、繊細になりゆく社会の恩恵を受けていると思う。この先、ますます社会の秩序が繊細になっていき、秩序が高水準になっていったほうが私自身のメリットは大きく、リスクは少ない。少なくともそうだと頭ではわかっている。
 
けれども私は、昭和の野蛮さやおおらかさのなかで育ち、その恩義や恩恵を受けてきたことも覚えている。そこで私は"やんちゃに""わんぱくな"子ども時代を過ごすことができたし、令和時代の子どもよりもずっと帯域の広いコミュニケーションを体験することができた。安全・安心・倫理・正義・責任の名のもと、たくさんの遊びが禁じられ、過ごす場所や過ごしかたを厳格に定められている令和時代の子どもたちに比べると、ずっと自由な子ども時代を過ごせた側面もあったように思う。そのような昭和の子どもの自由は、令和時代の子どもには望むべくもない。
 
昭和時代には見落とされていた暴力が暴力として未然に防がれ、迷惑になるかもしれない行動が禁じられ、誰かを不快にしかねない表現が駆逐されるようになったのは、疑う余地のない進歩であり、好ましいことだった。昭和時代を生き辛いと感じていた人々にとって、そうした進歩が悲願だったことも想像に難くない。だからこの進歩が悪いものだったとは、私も思わない。
 
だが、こうした進歩の行き先には疑問も感じる──ますます私たちが繊細になり、ますます他人に悪影響を及ぼしかねない言動にセンシティブになった未来に、どんな社会秩序ができあがるだろう? 
 
他人に悪影響を及ぼしかねない言動に対する繊細さが高まり続けた結果として、たとえば背中をポンポンと叩いただけで暴力とみなされる未来、他人にくさい匂いを感じさせただけでも迷惑行為とみなされる未来、バスや電車のなかで声を出したら不躾とみなされる未来は、あり得るのではないだろうか。
 
そんな馬鹿な、と一笑に付す人もいるかもしれない。
 
だが、令和時代に暴力やハラスメントとみなされている言動のなかには、昭和時代にはまったく許され、当たり前の言動として世間にあふれていたものが沢山あったわけだから、進歩の行く末と繊細さの高まりの果てがどのようなものか、楽観できたものではない。
 
まして、新型コロナウイルス感染症が猛威をふるい、私たちの習慣や考え方に大きな刻印を残そうとしている昨今を思えば、私たちがコミュニケーションに対してますます厳格な基準を適用し、ますます多くの言動を検閲するようになっていく可能性は高いと、私は推測せずにいられない。
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
進歩は私たちを自由にし、暮らしを快適にしてくれた。令和時代と昭和時代を比べれば、それがはっきりわかるし、これからもそうだろう。だが進歩に伴って不自由になった側面もまたあるとしたら、繊細になりゆく秩序を手放しで喜ぶわけにもいかない。社会秩序がもっともっと繊細になっていくとしたら、そのメリットを全面的に享受する私のような人間がいる反面、そのデメリットやその不自由にいよいよ束縛される人間がいるのも容易に想像できる。だから私は、社会の進歩や繊細化について、もっといろいろな角度から議論が進んで欲しいと思うし、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』も、そういった議論の一部として読まれて欲しい、と願っている。