シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

アイデンティティのあり方、昭和→平成→令和を追う

 

何者かになりたい

何者かになりたい

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本を書いてしばらくすると、本で書き足りなかったこと・もっと強調すれば良かったことなど思いつきがちだ。6月に発売された何者かになりたいにしてもそうで、「自分はこういう人間である」を規定してくれるアイデンティティの構成要素のうち、集団やコミュニティをとおして獲得・確立する部分についてもっと語っておきたかった気持ちになっている。
 
その一部をここに書いておきたい。
それは、「平成時代の『何者かになりたい』と令和時代の『何者かになりたい』の違い」についてだ。あらましを述べると、平成時代の「何者かになりたい」や「自分探し」はとても個人的で、スタンドアロンな側面が強かった。いっぽう令和時代の「何者かになりたい」はそこまで個人的ではなく、集団やコミュニティを介して獲得・確立する側面が強まっている──このあたりについて、もう少しページを割いてみても良かったと今は思っている。
 
 

アイデンティティのあり方、昭和と平成の比較

 
「何者かになる」や「自分探し」を、つまりアイデンティティの問題を、個人的な課題として捉えている人は今日でも多い。それらが1990年代~00年代に流行した頃には、まさに個人的なものとして語られていた。他人と違った自分自身になりたい、不特定多数から認められる何者かになりたい、憧れのステータスを持った人間になりたい、等々──そういった語りが流行っていた。
  
しかし元来、アイデンティティとは、集団やコミュニティをとおしても獲得されるものだったはずだ。
 
平成に入る以前は、会社や出身校、地域やイエ、宗教団体や政治団体、ときには"日の丸"といったものをアイデンティティの構成要素としている人がもっとたくさんいた*1。集団やコミュニティに所属すること・その一員と自負することはアイデンティティの構成要素として本来重要で、昭和時代にはこれがもっと優勢だった。
 
アイデンティティの獲得・確立を個人的なものとみている人には、だから昭和時代にはアイデンティティの問題は希薄だとか、存在しないかのようにみえるだろう。そうではない。アイデンティティは個人として獲得するばかりでなく、集団やコミュニティをとおしても獲得されるものなので、個人に目を向けていると昭和時代のアイデンティティのあり方が見えなくなってしまうのだ。
 
ところが昭和時代の後半から、個人、とりわけ若者にとって、集団やコミュニティをとおしてアイデンティティを獲得するのはダサいことになっていった。個人生活を支える空間的インフラが整い、個人単位で楽しむ趣味や娯楽も充実していくなかで、アイデンティティは個人として獲得していくものとみなされるようになった。ブランド品を身に付けること、流行に乗ること、自分の好きな趣味を究めること、等々がかっこいいこと・望ましいこととみなされ、暴走族的なものや地域の若者衆的なものはダサくて遅れたこととみなされるようになった。
 
集団やコミュニティをとおしてアイデンティティを獲得・確立することを忌避し、個人として獲得・確立することを良しとした点では、90年代の若者のマジョリティもオタクも大同小異だったと言える。
 
平成時代にも、集団やコミュニティをとおしてアイデンティティを獲得・確立する道筋がなかったわけではない。たとえば趣味集団に属することでアイデンティティを獲得、またはしばらく仮獲得していた人も多かっただろう。昭和以前の集団との違いは、生まれや地域によってあらかじめ与えられた集団ではなく、個人として選択する集団が専らだったことだ。
 
それともうひとつ。どのような集団に属するにせよ、じつは平成時代の集団は意外に群れている時間が長くない。そして一人で過ごす時間が長かった。特に都市部では、一人にひとつの部屋、一人にひとつのテレビ、一人にひとつの電話といった具合にスタンドアロンなライフスタイルが急速に(当時の若者に)普及し、独り暮らしのライフスタイルがトレンドになっていった──そのための空間的インフラやコンテンツが、かつてないほど充実したからだ。そしてこの段階では、私たちを常時接続するツールとしてのSNSやLINEは存在せず、インターネットも普及していなかった。
 
世の中で「何者かになる/なれない」、あるいは「自分探し」やアイデンティティ論が流行したのは、こうした独り暮らしのライフスタイルがトレンドとなり、趣味や職業などを個人が自己選択していくのが当たり前になった(=自己責任になったともいえる)時期のことだった。そうした時期に人気を集めた何者論やアイデンティティ論は個人主義のフレーバーが強く、現在から振り返ってみれば偏っていたように(私には)みえる。
 
 

ネットとSNSで繋がりっぱなしになって、アイデンティティのあり方が変わった

 
ところが平成の終わりから令和にかけて、私たちはインターネットやSNSやLINEによって常時接続されるようになった。そうした常時接続は、たとえばコンテンツの流行や流通を変えただけではない。私たちの空間的インフラやライフスタイルが変われば、アイデンティティのありよう、またはアイデンティティの獲得・確立様式も変わらざるを得ない──ちょうど昭和から平成にかけて、独り暮らしのライフスタイルがトレンドになり、それに適した空間的インフラが充実するなかでアイデンティティのありようが変わったのと同じように。
 
常時接続によって繋がりっぱなしになった私たちは、平成時代に比べてスタンドアロンなライフスタイルを過ごしにくくなっている。一人にひとつの部屋、一人にひとつのテレビ、一人にひとつのスマートフォンという点は変わらなくても、常時接続によって私たちは繋がりやすくなり、家にいても他人と言葉を交わし合い、価値観やトレンドを共有するようになった。趣味やコンテンツと向き合う時の姿勢にしてもそうだ。趣味やコンテンツは、90-00年代に比べればみんなで愉しむもの・シェアするものとなっている。オタク界隈で「萌え」という姿勢が後景に退き、「推し」という姿勢が前景に立ったのも、たぶんその一環だ。なんらかの活動、なんらかの対象をとおしてアイデンティティを獲得・確立する行為は、今日ではネットやSNSによって他人のそうした行為と常時接続されている。
 
令和のアイデンティティのありかたについて語る際には、この、常時接続という空間的インフラを踏まえる必要がある。もちろんネットやSNSは個人生活の全てではないから、アイデンティティのありかたが完全にネットやSNSをとおして他人に接続しているわけではない。とはいえ、ネットやSNSは個人生活の小さくない割合を占めているわけで、その影響を無視してかかるのも間違っているだろう。そして令和という時代は、ネットやSNSが個人生活の少なくない割合を占めていて、人が遠近どちらであれ繋がりあい、さまざまなものをシェアしあう時代なのだ。
 
このような令和の状況に個人主義のフレーバーの強い平成時代の何者論やアイデンティティ論を当てはめても、うまくいかない。個人主義に固執した目で令和の状況を眺めると、おそらく「アイデンティティの獲得・確立にこだわる人は減ったし、それにまつわる悩みも減っている」とうつるだろう。
 
そうじゃない。常時接続環境をとおして(昭和とは似て非なるかたちでだが)集団やコミュニティが再び優勢になり、アイデンティティの獲得・確立の経路も再び集団やコミュニティを介したものに変わったのだ。変わったと言って言い過ぎなら、寄ったと言い直すべきだろうか。なんにしても、平成的な、個人主義に偏ったアングルで令和のアイデンティティのあり方を読み解こうとするばかりでは、常時接続によって換骨奪胎された、集団やコミュニティを介してアイデンティティを獲得・確立する経路を読み落としてしまうだろう。
 
 

空間が変われば、人間の心も変わる

 
人間の心は、個人的であると同時に集団的でもある*2。アイデンティティをありかた、アイデンティティの獲得・確立の様式、アイデンティティにまつわる悩みも例外ではない。ただ、時代や環境によってアイデンティティの個人性~集団性は揺れ動くし、同じ集団性といっても昭和の地域社会的な空間と、令和の常時接続的な空間では同じではない。そうした時代や空間によるアイデンティティのありようの変化を、『何者かになりたい』でもう少し欲張って語ってみても良かったかも、と思ってこれを書いた次第である。
 
ちなみに私個人は、アイデンティティに限らず人間の心のありようは、大枠として空間的インフラによって規定されると思っている。空間的インフラ*3によってコミュニケーションが規定され、そのコミュニケーションをとおして人間の心のありよう、少なくともその趨勢やトレンドが規定されていくと考えると、辻褄のあうことが多いように思えるからだ。そういう目線で時代時代の人の心のありようや欲求のありかたについて追いかけていくのが、今の私には楽しくてたまらない。
 
 

*1:集団をとおしてアイデンティティを獲得しやすい時代とは、集団をとおして疎外や抑圧を経験しやすい時代でもあったことは付言しておこう。

*2:ここでは深く触れないが、たとえば承認欲求と所属欲求、ナルシシズムの充当様式などにも言えることだ。

*3:その空間的インフラのありようを決めるのは、その時代の通念や制度、テクノロジーだ。それらは時代時代の人の心のありようによって発展可能性を左右される傾向にあるので、全体としてみれば、人の心のありようと空間的インフラのありようは通念や制度やテクノロジーをとおして循環しているとみることもできる