シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

傑作『トップをねらえ!』と過去の自分、それと『エヴァ』

 
Amazonプライムに『トップをねらえ!』が入っていたので、週末に食い入るように視聴した。
 

 
とにかく傑作というしかない。ストーリー、SFとしての面白さ、丁寧というより執拗ともいえる素晴らしい演出や描写、1988年にこんな作品が作られていたことにただ驚く。そして『新世紀エヴァンゲリオン』のルーツが感じられ、『ふしぎの海のナディア』もこの作品の後につくられたのがよくわかった。
  
 

傑作だが好きではない。過去の自分がこれを拒否したのはよくわかる

 
 
1989年頃、田舎暮らしの私のもとにも『トップをねらえ!』という作品が凄いらしい噂話は伝わってきた。ところが、その情報は私の好みではないこともはっきり告げていて、今回、実際に視聴してみてよくわかった。
 
『トップをねらえ!』は、女性キャラクターが主人公で、主人公と同じ立場で戦う登場人物もだいたい女性だ。彼女らは新体操のユニフォームの露出度を高めたような恰好でマシンに乗り込み、汗と涙と根性といった趣で物語を進めていく。そして宇宙戦闘の最中に女の歌声が聞こえる*1
 
こうした構図に、彼女たちを指導する昭和的なコーチ・女子生徒同士の鍔迫り合い・80年代的な姦しさがなど加わり、なんともいえない雰囲気ができあがっている。それでいて、この作品は少女漫画になりきっているわけでもない──女子のための作品ではなく、男子アニメ愛好家のための作品としてつくられてもいるのだ。
 
こうした雰囲気や雰囲気が、当時の私はすごく嫌いだった。今でも嫌いである。たぶん80~90年代前半のおたく的・オタク的男性アニメ愛好家なら喜べるのだろうが、私にはかえって、そうした演出や雰囲気が気持ち悪く不自然なものとして感じられた。つまり当時の私には、女性キャラクターが主人公で、露出度の高い恰好でマシンに乗り込み、(たぶん格好良いという前提で登場しているらしき)コーチの指導を受けながら涙と汗と根性の物語をやっていくのが耐えられなかった。
 
当時の私よりもいくらか年上のおたくか、私より先進的なオタクなら、こうした構図とて忌み嫌うものではなかったのかもしれない。だけど当時の私には『ふしぎの海のナディア』でぎりぎりだった。もし、私があと数歳年上で、たとえば大学生時代に『トップをねらえ!』に出会っていればこんなことにはならなかったかもしれない。けれども十代にとって数歳の違いは越えられないほど大きく、当時の私はそれを克服できなかった。
 
してみれば、『ふしぎの海のナディア』はNHK総合で放送するだけあって間口の広い作品だったわけだ。当時の私には『ナディア』が先進的なアニメにみえたけれども、本当はそうではなかった。『トップをねらえ!』には、作品を舐めるように凝視していないとわからないところや、ウラシマ効果を知っていなければわからないところがあったりするけれど、『ふしぎの海のナディア』は、そこまでの集中力や注意を視聴者に(必ずしも)求めない。『ナディア』はデチューンされた作品ではないが、『ナディア』のほうが間口は広い。『トップをねらえ!』こそが先進的で前衛的な作品だったのだ*2
 
私は自分の好き嫌いの問題によって、ひとつの傑作を見損ねたことになる。
 
 

『エヴァンゲリオン』の前に『トップをねらえ!』を観た人はどんな気持ちになったのか

 
そういう個人的な好き嫌いを脇に置いて──いや、脇に置ききれずに不平をこぼしながら──『トップをねらえ!』を観ていたのだけど、そのSF的描写の魅力、細やかな演出、フフフと笑ってしまいたくなる小道具、中盤から後半にかけての圧倒的な展開、モノクロな最終回など、すべてが素晴らしく、大団円とスタッフロールを私は口をポカンとあけて眺めてしまった。
 
圧倒されてしまった。まったく好きになれない作品にもかかわらず、『トップをねらえ!』の後半には余所見や無駄口の余地が無かった。『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・エヴァンゲリオン』を観た時と同じ集中力で視聴せずにいられなかった。個人的な好悪をねじ伏せる魅力と、短所を補ってあまりある長所があり、終盤は文字通り画面にくぎ付けの状態になってしまった。
 
それにしても、こんなに完成度が高く、こんなに情熱的で、こんなに伸び伸びとしたアニメを見せられた人が、『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・エヴァンゲリオン』を観た時にどんな気持ちになったのだろう?
 
私は『新世紀エヴァンゲリオン』とその劇場版に衝撃を受けて人生がだいぶ変わってしまったが、それでもTV版や劇場版に対してそれほど批判的にはなれなかった。『シン・エヴァンゲリオン』にしてもそうだ。個人的には物足りない部分もあったし、その気持ちは『トップをねらえ!』を観た後にさらに強まった。とはいえ私は2021年に、『新世紀エヴァンゲリオン』よりも後に『トップをねらえ!』を視聴している。
 
90年代後半の頃、私より年上のアニメ愛好家が『トップをねらえ!』を引き合いに出しながらTV版と劇場版の『新世紀エヴァンゲリオン』についてあれこれ言っているのを見たり聞いたりした。この、輝くような『トップをねらえ!』を見て、それを傑作として経験した人が、『新世紀エヴァンゲリオン』のTV版のあの感じや劇場版の唐突な幕切れをどう思っただろう?
 
私だったら、期待を裏切られたと思ったに違いない。タカヤノリコがガンバスターを使ってやってのけたことを、碇シンジとエヴァンゲリオン初号機に期待せずに済ませられるものなのか? 無理だと思う。両作品が完全にかけ離れていたなら、そういった気持ちの切り替えもしやすかったかもしれない。ところが『新世紀エヴァンゲリオン』は『トップをねらえ!』にあまりにも似ている。共通する描写、共通する言葉、似通った表現がふんだんにあった。『トップをねらえ!』に感激したファンが『新世紀エヴァンゲリオン』に似たような感激を期待するなといっても、絶対に無理だろう。
 
私は、自分より年上のアニメ愛好家が『新世紀エヴァンゲリオン』をなぜあのように批判するのか、わかっていたつもりだったが一部をわかっていなかったと知った。『新世紀エヴァンゲリオン』がアニメ愛好家に批判される文脈はさまざまにあるが、その文脈の一部分は、この、輝くような『トップをねらえ!』を視聴した後に『新世紀エヴァンゲリオン』を視聴するという前後関係にも由来していたのだろう。
 
売り上げや知名度、広く受け入れられる度合いでいえば、『トップをねらえ!』は『新世紀エヴァンゲリオン』よりも狭く、『シン・エヴァンゲリオン』と比べれば更に小さい。けれども作品としての完成度や先進性、内にこもる情熱といったものを観比べた時、本当に突き抜けていたのはこの『トップをねらえ!』だったのではないか。『トップをねらえ!』がまったく私の好みではなく、忌避したい雰囲気や構図に満ちているからかえって、この作品の訴求力に驚かずにいられない。『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・エヴァンゲリオン』が好きな人なら、この作品を見て得るものが必ずあるように思う。ジャンルとしてのアニメを俯瞰したい人も、たぶん得るものがあるように思う。とにかく凄い作品だった。おすすめ。
 
 

*1:この、「宇宙戦闘の最中に女の歌声が聞こえる」については、『超時空要塞マクロス』的なものとして私は小学生の段階から忌み嫌っていた。昔よりは耐性がついたが、今でも鳥肌が立ってしまうことがある

*2:そういえば、近い時代に『オネアミスの翼』がつくられていたが、これは、ほぼリアルタイムで視聴しそこそこ楽しめていたので、『トップをねらえ!』のあの雰囲気、あの「当該視聴者」のほうを向き過ぎていた雰囲気が自分には駄目だったのだろうと思う