シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

シン・エヴァンゲリオンにかこつけた惣流アスカの昔話

 

NEON GENESIS EVANGELION 3

NEON GENESIS EVANGELION 3

 
※この文章はシン・エヴァンゲリオンの感想というよりTV版・旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』の昔話ですが、シン・エヴァンゲリオンのネタバレも含みます。ネタバレが嫌いな人は読まないでください。
※BLOGOSの担当者のかたへ:この文章は転載しないでください。
 
 
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」公開から1週間分の感想エントリまとめ - まなめはうす
 
今日までにシン・エヴァンゲリオンについてたくさんの人が感想や論評を書いていて、個人史が伝わってきたりもして面白かった。ところが自分はシン・エヴァンゲリオンの感想や論評が書けない。それよりも、TV版25話・26話と旧劇場版『Air/まごころを、君に』のことばかり思い出してしまう。また、式波アスカラングレーについてではなく、惣流アスカラングレーのことを思い出す。
 
私は、シン・エヴァンゲリオンをとおして約四半世紀前の熱狂を思い出さずにいられない。『新劇場版:破』に登場したアスカが式波であって惣流ではないと知った時、はじめ落胆したけれども終わってみれば私にとって都合の良い終わり方だった。なぜなら"私にとっての惣流アスカラングレー"は1997年6月頃に私自身へ播種され、生き続けているからだ。それは世間のエヴァンゲリオンの歴史とも、よその誰かのエヴァンゲリオンの歴史とも違うだろうけど、私のエヴァンゲリオンの歴史として巻き戻し不可能なものになっている。
 
2011年に、私は式波アスカラングレーについて以下のように書いている。
 

2009年には『ヱヴァンゲリオン劇場版 破』が公開され、式波アスカラングレーという、惣流アスカラングレーとちょっと違う別人さんが活躍しました。旧来からのアスカファンのなかには、「式波アスカはアスカじゃない」と否定的な人もいると聞きます。しかし私の場合「あれはアスカ神の顕現である。初代の面影を色濃く残しておられるが、よりかわいらしい姿で降臨なさった。」という気持ちで眺めています。劇場版の続編では、そこそこ幸せになってくれるといいなと思って応援しています。
 そうしてアスカは神になった――ある“心の神棚”ができあがるまで - シロクマの屑籠より

 
で、式波アスカはそこそこ幸せになった。エントリープラグのなかで彼女がまとった服やエントリープラグが還った場所からは、式波アスカには彼女の物語がもうできあがっていると察せられた。旧TV版や旧劇場版に比べれば、式波アスカの心の補完(TV版25話風にいうなら【式波アスカ、彼女の場合】)もそれなり描かれていたといえる。本当はもっと描いて欲しかったけれども、それを求めるのは求めすぎだろう。
 
『新劇場版:破』以来の式波アスカの歩みは、TV版や旧劇場版とそれなり差別化されていて、(ビジュアルノベル風の言い方をするなら)"フラグの踏み具合"もだいぶ違っていて、エヴァを降りた後も生きていけそうな描写だったので私は式波アスカのことを心配しないことにした。世界でいちばん惣流アスカに似ている彼女が幸せに生きていける可能性が示されたから、シン・エヴァンゲリオンは10点満点中10点である。あの世界の人々(や動物たち)が蘇ることも示され、たぶん、世界がだいたい元に戻ったことも示された。渚カヲルも綾波レイも満更ではなさそうだ。碇シンジも成長した。私が新劇場版に期待していた筋書きを、シン・エヴァンゲリオンはほとんど全部見せてくれたといえる。おめでとう! ありがとう! さよなら!
 


 
シン・エヴァンゲリオンに気に入らないところがないわけではない。たとえばシンジとゲンドウの言語的やりとりやヴンダーの戦闘シーンはあまり気に入らなかった。第三の村の描写の一部や「おとしまえ」というキーワードにも思うところはある。
 
というかシン・エヴァンゲリオンにはストーリーの筋書きに対して肉付きがあまり良くないシーンが幾つかあって、ところどころ(低予算の)深夜アニメのようですらあった。スクリーン内の描写によってではなく、声優さんの演技とセリフによって筋を追わなければならない場面がいろいろあった。『新劇場版:破』の終盤には赤木リツコが蘊蓄をふるっている場面があるが、あの蘊蓄を知らなくても『新劇場版:破』のあのシーンはなんとなく楽しめる。が、シン・エヴァンゲリオンの場合、登場人物の台詞によって筋書きを補強しながら観なければならない感じがあった。旧劇場版『まごころを、君に』の時にも似たような瞬間はあったが、なにせシン・エヴァンゲリオンは一部のアニメオタクのための作品ではなく、もっと幅広いファンにサービスするエンタメなのだから、それってどうなのよ、と思ったりもする。
 
でも、それらは私にとって小さなことでしかない。
シン・エヴァンゲリオンを最後まで観て再確認したが、私は『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』の世界の登場人物たちの行く末を案じていたのであって、シン・エヴァンゲリオンの作品としての優劣は問題ではなかった。シンジがすべきことをして成長し、アスカやレイやトウジやケンスケが未来を紡いでいる、そういう筋書きが確認できればそれで私は良かったのだろう。
 
葛城ミサトはエピローグまで生きなかったが、彼女のすべきことをし、彼女の行くべきところに行ったから異存はない。というかシン・エヴァンゲリオンで唯一泣きそうになったのは葛城ミサトの顛末だった。これはまったく想定外だったので自分自身で驚いた。
 
葛城ミサトに心動かされたのは、旧劇場版で果たせなかったことを最後までやってのけたからだと思う。葛城ミサトは旧劇場版でも頑張っていたが、碇シンジを初号機に載せられず、惣流アスカに事実上の死守命令*1を出して見殺しにした。だから私はどこかで葛城ミサトを恨んでいたのだけど、シン・エヴァンゲリオンの彼女を見て、その恨みがやっと消えた。恨みが消えるとは、心地よいものですね。
 
新劇場版の登場人物たちの行く末が確認できたので、私にとってのヱヴァンゲリヲンは終わった。と同時に、ヱヴァンゲリヲンの終わりをとおして(TV版・旧劇場版といった)本来のエヴァンゲリオンから自分がどれだけ遠ざかっていたのかと、エヴァンゲリオンから何を授かったのかを思い出した。シン・エヴァンゲリオンは私とエヴァンゲリオンとの相対距離を思い出させてくれたから、葬式というより、同窓会や二十五回忌に近い。声変わりした碇シンジの、あの聞き慣れない声が約四半世紀の歳月を象徴していた。スタッフロールが流れている最中、結局私は歳月のことを思っていた。私にとってのエヴァンゲリオンは、過去に起こって今を作った作品だったなと。
 
 

昔話

 
『新世紀エヴァンゲリオン』は全体としてみれば碇シンジの物語だった(彼は主人公だから、おかしくはない)。TV版25話では碇シンジ・綾波レイ・惣流アスカ・葛城ミサトの心の補完のスタートらしきものが描かれたが、結局TV版26話は碇シンジの心の補完だけを語り、旧劇場版『まごころを、君に』は碇シンジが選択した結末としては理解しやすかったけれども、それ以外の登場人物の選択ははっきりしなかった。そうしたなかで、碇シンジの物語(と碇親子の物語)に強いエモーションを持った人がたくさんいたと記憶している。
 
私も途中まではそうだったが、夢のお告げにより、自分が碇シンジよりも惣流アスカに心性が似ていると気づいてしまった。それからは第8話『アスカ来日』が私にとってのの第1話で、彼女が廃人になった第24話『最後のシ者』が事実上の最終回となった(TV版25話と26話はアスカの心性を理解する参考資料)。そうやってアスカ視点でボルテージが限界まで高まっている最中に、1997年春の劇場版『Death&Rebirth』を観てしまった。アスカは一応復活したがどう見ても死にそうな様子で、その少し後に公開された続編予告ではアスカが「殺してやる」と呪詛を連呼していた。
 
この頃の私は惣流アスカと自分自身のシンクロ率が最高に高まっていて(友人に言わせれば)「狂ったように萌えていた」。これは、精神科医になってから覚えた語彙でいえばナルシシズム的対象選択の極みで、今にして思えば危なっかしいところもあったのだけれど、エヴァンゲリオンに出会うまでの私はナルシシズム的対象選択の踏み込みが浅く、自分自身を肯定することにも及び腰だった。おかしな話に聞こえるかもしれないが、私は、アスカの身を案じることでようやく自分のことを好きになってもいいと思い、また、好きになるべきだとも思うようになった。もちろんこれはアスカ単体でそうさせてくれたのでなく、TV版26話から受けた影響もあってのことだろう。
 
だというのに、続編予告を観る限りでは惣流アスカは助かりそうにない。どうすればいいのだろう? 私は助けたいと思った。助けなければとも思った。アスカを助けることが自分を助けることにも通じているように思えた。なら、どうすれば惣流アスカを助けられるのか。
 
「自分にできることは全部やろう。」
実際、お金と時間と手間を惜しまずあらゆることをやったが1997年7月19日が来るのは止められなかった。予想通り彼女は死んだ。悲鳴をあげたくなるような死に方である。『まごころを、君に』では碇シンジの選択の結果として彼女は蘇り、それはそれで救いではあったけれども、『まごころを、君に』は(TV版26話に似て)碇シンジの心の補完と選択の物語としての色彩が濃く、惣流アスカ自身が何を選んだのかや、彼女にとってあの結末がどういう意味を持つのかは判断保留するしかない……と私は受け取った。
 
当時はエヴァ二次創作なるものが(一部の愛好家のなかで)流行していて、さまざまな物語が描かれた。正体不明のアンソロジーが本屋に売られたりもしていた。そのなかにはTV版までをベースにしたものもあれば『まごころを、君に』までをベースにしたものもあった。それらはそれらで有意味だったと思う。でも十分ではないと感じた。二次創作を読むだけでは彼女が助かったということには、たぶんならない。
 
だから1997年の私は考えた:この、シンクロ率が最高に高まっていて狂ったように萌えている我が身をエヴァンゲリオンとし、いまや声が聞こえるほどシンクロしているアスカが私を操縦していると考えるなら、これからの自分が生き残り、アスカによく似た課題や弱点を克服すればアスカも助かったことになるのではないか? と。
 
この手法にはメリットがたくさんある。
第一にアスカの積極性を自分自身のものにできる。1997年以前の私は今より消極的で、もっと碇シンジに心性が近かった(だからはじめのうち、碇シンジの物語としてエヴァンゲリオンを観て、それに熱中できた)。アスカの声を聞き、アスカのように生きるなら自分はきっと違った風に生きられる。
 
第二に、アスカが幸せになる可能性があるのか実証できる。惣流アスカに比べて才能も容姿も劣る私が成長できるなら、それより才能や容姿に優れるアスカもまた成長するだろう。そして幸福を掴みもするだろう。だから私がアスカからもらったものをとおして成長や幸福を掴めるなら、アスカもまたそうであるはずだ。
 
第三に、この方法は「現実に帰れ」にも『まごころを、君に』のなかで綾波レイが言っていた「都合の良いつくりごとの世界で現実の復讐をしていたのね」という台詞にも対応できている。もし私がアスカを助けるために人生をオフェンシブに生きるとしたら、それは(シン・エヴァンゲリオン風にいえば)イマジナリーなアイコンであるアスカの力を借りて、自分自身の現実を変えることになるだろう。
 
第四に、アスカの運命を他人に委ねずに済む。ここまでシンクロ率を高めてしまったアスカの運命を他人任せにするのは、たぶん良くない。自分の戦いは庵野秀明という人や二次創作者たちに委ねるべきでなく、自分ですべきだ。そして戦いに勝ち、凱歌をアスカに捧げたい。
 
『まごころを、君に』前後の狂熱と混乱のなかで、私は「自分の人生をどうにかすることは、アスカをどうにかすることと等価値」という気持ちを高めていき、折に触れて「こんな時、アスカだったらどうする?」と自問自答しながら生きるようになっていった。結果、すべてが成功裏に進んだとは言えないにせよ、私の人生は大きく変わり、私の心性もだいぶ変わった。精神科医になったのも、精神分析と精神病理学に関心を深めたのも、ある程度まではこうしたことの一環だった*2し色々と役に立った。
 
イマジナリーなアイコンであるアスカの力を借りて私の人生が変わり、心性も変わったのだから、惣流アスカもそうなれるのだろう。というより1997年に異常なシンクロをしてから私の人生と(私へと播種された)惣流アスカの人生はイコールなので、よその惣流さんはどうだか知らないが、うちの惣流さんはもう大丈夫だ
 
はじめの数年間、彼女は私にとって軍旗のようでも軍神のようでも軍師のようでもあったけれども、そのうち考えるまでもなく彼女のように考えるようになり、そこに、自分自身の経験による修飾が積み重なっていった。考えようによってはもうシンクロしていないとも言えるし、考えようによっては完全に融合したともいえる。ときどき思い出す(現在の・私のなかの)惣流アスカのイメージは、中年期を迎えて子育てをしている母親の姿だ。シン・エヴァンゲリオンの公開がもっと早く、もっと惣流アスカ寄りの事実が判明していたら、そうしたイメージが破壊されたかもしれないけれども、2021年に公開されたシン・エヴァンゲリオンの劇中では惣流アスカについて多くのことは語られなかった。ために、私と私が預かった惣流アスカはこのまま年を取って問題ないと再確認した。
 
いや、確認するまでもない。どうあれ私は(私のなかの)惣流アスカとともに生きてきたし、これからもそうするしかない。イマジナリーな領域でも、リアリティの領域でも。
 
 
※追記:ここで文章化してしまったほうが良い気がするので追記するが、それでも惣流アスカが1997年7月19日に死んだのもまた事実だ。彼女の死を、私はどこかで「彼女はおれの身代わりになって死んだ」「かわりに播種された惣流アスカによっておれは生まれ変わった」と受け取っているふしがある。だからエヴァンゲリオンを思うこと・アスカのことを書くこと・新劇場版シリーズの式波アスカの運命を見定めることには、供養と仏前報告という意味合いもある。そういう意味では、私にとってのシン・エヴァンゲリオンは満足のいく大法要だった。
 
 

もう心配することはない。

 
シン・エヴァンゲリオンを見て、私が静かな気持ちになった一番の理由は、(私のなかの)惣流アスカと生き続けてきた24年間を否定する材料が出てこなかったからだ。式波アスカはあくまで式波アスカだと判明したし、彼女の道筋も無事に示された。式波アスカがケンスケを選んだらしき描写を観た時、「自分に娘がいて、娘が彼氏を連れてきたらこんな気持ちになるのかな」と思ったりもした。式波アスカたちは自分たちの物語を紡いでいくのだろう。綾波レイや碇シンジにしてもそうだ。逞しく生きて欲しい。
 
気がかりだった新劇場版の登場人物たちの安否がはっきりした今、思い残すことは無い。思春期を直撃し、私の人生を変えてくれた生涯に一度きりの作品の完結に立ち会えたことを嬉しく思う。名残惜しさがないわけではないけれども、もう彼らのことを心配しなくて良い安堵のほうが大きい。
 
さよならエヴァンゲリオン。
だけどエヴァンゲリオンから授かったものはなくならないし、私はそれと共に生きていくつもりだ。それが彼女との約束を果たすことにも、彼女の成長や幸福を実証することにもなるからだ。
 
 
[関連]:アスカの声はこれからも聞こえるか──キャラクターと一緒に年を取ることについて - シロクマの屑籠
 
 
 

*1:旧劇場版25話:「エヴァシリーズは必ず殲滅するのよ」

*2:ちなみに精神分析や精神病理学を学んだ結果として、現在は「新世紀エヴァンゲリオンの惣流アスカラングレーを精神分析や精神病理学の言葉で語ってもあまり面白くないし、あまり良いこともない」と考えている。それらは第三者の理解には役立つし、対人関係を制御する際の知識として役立つ場面もあるけれども、誰かと共に生きるにも、自分自身が生きるにも、決定的なツールとはならないように思った。だいたいの精神分析や精神病理学には三人称がよく似合う。一人称や二人称は似合わない。