他人との差異化を熱望して孤独になっていく : web-g.org
「自分らしさ」のための消費は、もともと、同世代のなかで自分を望ましく位置づけ、コミュニケーションを有利にするものだったはずだ。「自分らしさ」を際立たせる消費活動によって、社会適応にもプラスの影響が得られる見込みが立ったはずである。
ところが、「自分らしさ」が社会適応のための手段ではなく自己目的化してしまい、社会適応へのプラスの影響よりもマイナスの影響が現れるようになってしまった人達がいる――リンク先を読んで、そのような人達のことを思い出した。
リンク先には、自分の行動や購入品をインターネットにアップロードし続ける孤独なオジサンが例示されているが、実際、そういう「自分らしさ」が自己目的化してしまった個人は少なくない。ある者はソーシャルゲームのガチャを回し、ある者はみずからのブログやtwitterアカウントに火を放つ。そうでもしなければ、自分というものの輪郭が保てないというのか。
「私が私らしくあるために」「私が他の連中とは違っていることを証明するために」、みずからのリソースを擲ち、みずからの社会適応やメンタルヘルスに火を放つ人々は、「自分らしさに呑まれている」と言わざるを得ない。もっと言うと「自分中毒」である。
自分自身に拘り過ぎた結果、自分自身がお荷物になってしまっている。
このような人々は価値観の狭窄を伴いやすく、「自分らしさ」にプラスの影響を与えてくれるか、それともマイナスの影響を与えるかで、多くの事物を評価してしまう。しかも、そのような価値観の狭隘さは傍目には出来の悪いナルシストという印象を与えがちだ。
「アイデンティティ」時代と「自分らしさ」の亡者達
個人主義が根付いた社会では、個人はアイデンティティをみずから勝ち取らなければならない。それは職業的なものでもいいし、オタクやサブカルのような、趣味的なものでも構わない。あるいは、友達関係や家族関係がアイデンティティの重要な構成素子になることもある。いずれにせよ、そうしたアイデンティティの構成素子を個人みずから獲得しなければならない構図は、個人主義社会においては避けがたい。
1980~90年代は、そうしたアイデンティティが金銭や趣味で購われやすい時代だった。職業的なアイデンティティにしても、一流企業への所属よりもユニークなライフワークや職業が求められる時代だった。逆に考えると、そういったハイレベルなアイデンティティのシンボルを手に入れなければ「自分らしさ」の実感が感じられにくい時代だった、ということでもある。
当時はフリーターやカタカナ商売に若者が殺到し、心理学がブームになり、カルト教団が社会問題になった。これらはいずれも「アイデンティティを獲得せよ」「アイデンティティの空白状態がしんどくなった」という社会状況に沿った出来事という意味では、同根の社会現象である。「自分らしさ」を追求できる時代になったからこそ、「自分らしさ」の空白は耐えがたく、「自分探しをしなければならなくなった」。
そういう時代を生きた若者が、職業的・家族的なアイデンティティを獲得できないまま年を取り、なおも「自分らしさ」に飢え続けた結果として、「自分らしさ」の亡者のごときオジサンができあがったのだろう。ひとつのカタチにおさまらなかった「自分らしさ」を補償するために、購入品をアップロードし、ソシャゲのガチャを回し、twitterやブログで吠えて、それでどうにか「自分らしさ」の輪郭を維持してアイデンティティクライシスを回避する生活は、傍目に見て幸せそうにはみえないが、「自分らしさ」の空白を欠いたまま生き続けるのはもっと辛いから、終わることのない対処療法のごとく、「自分らしさ」の輪郭を確かめるための強迫的活動が続いていく。
もし彼が個人主義者でなかったら。
イエやムラや企業や仲間にアイデンティティを仮託できる人間だったら。
このような悲劇は回避できたかもしれない。
とは言っても、集団に「自分らしさ」を預けること、言い換えれば「自分達らしさ」で「自分らしさ」を埋め合わせることには、相応のリスクやコストがかかる。1980-90年代の精神性とは、そうした旧来の集団主義についてまわるリスクやコストを、金銭やライフスタイルやインフラの力でできるだけ回避しようとするものだった。それはまあ、良かったのだろう。そのかわり、個人主義者をやり過ぎてしまう人、個人主義者たらねばならないけれども上手くやりきれない人にとって、あの時代の精神性は良いことばかりではなかった。首尾よく「自分らしさ」にたどり着けなかった人達は、「自分らしさ」をこじらせ、消費社会を彷徨う幽霊のような存在に成り果ててしまった。
「脱・自分中毒」へ
そうした「自分らしさ」の自家中毒も、これからは変わっていくだろう。
一時代のような、「自分らしくあらねばならない」「他の連中とは違っていなければならない」という精神性は、今の若年世代からはさほど感じない。少なくとも、数十年前の若者達にあったような、ほとんど強迫観念のような「自分らしさ」志向は見受けられない。もっと現実的で、もっとこなれた個人主義者として、彼らは生きているようにみえる。
「自分らしさ」への執着が過去世代よりも穏当になっていけば、自分中毒に陥り、「自分探し」の幽霊に成り果ててしまうリスクも小さくなるだろう。
小中学生時代からガラケーやスマホで繋がり続けてきた世代の「自分らしさ」とは、一体どのようなものだろうか? もちろん彼らとて個人主義社会の申し子、アイデンティティを全部他人任せ・システム任せにすることなどできはしないだろう。さりとて、過剰な「自分らしさ」志向が社会適応の妨げになってしまうことを彼らの世代は知悉しているし*1、そうやって「自分らしさ」に大枚をはたき続ける猶予のある若者など、今日では少数派に過ぎない。
時代が変わり、精神性も変わった。「自分中毒」は、若者の特権から過ぎし日の残滓へと変わりつつある。大半の人にとっては「自分らしさ」なんて生きるために必要十分な程度にあれば良いのであって、過剰な自意識なんて笑うべき代物だ、という認識が浸透した先には、一体何があるのだろうか。
*1:なにせ中学生になる前から「中二病は嘲笑の対象になる」というメタ知識が耳に入って来る時代なのである