おかげさまで、熊代亨『何者かになりたい』が本日発売されました。若い人をメインの想定読者とした本ですが、後半パートの「中年期から先の何者問題」の箇所はアラサー・アラフォー世代によく刺さるようです。さまざまの「何者問題」を抱えている人、アイデンティティの空白を持て余している人にお勧めしたいです。
ところで本書の終わりのほうで、「アイデンティティを獲得して何者かになっていく経路や選択肢は非常に豊かになっているが、それだけに、コミュニケーション能力が問われる」といったことを私は書きました。
どれだけ選択肢がたくさんあっても、どこのコミュニティにも所属できない、どこの人間関係にも馴染めない人がいるとしたら(実際、いることでしょう)、その人はどこも自分の居場所とは感じられないでしょう。他人から評価されたり褒められたりするチャンスも減るかもしれません。どこにも所属しにくく、評価されたり褒められたりするチャンスも少なくなれば、そのぶんトライアルやチャレンジにも消極的になり、学習やスキルアップでも遅れを取りやすいでしょう。
こうなると、コミュニケーションが苦手な人はそのぶんアイデンティティの確立が難しくなる、と考えざるを得ません。
私の記憶が確かなら、アイデンティティ論を論じた偉い人が「アイデンティティの獲得・確立にはコミュニケーション能力が必須」などと書いていなかったように思います。でも、今の時代でコミュニケーション能力に言及しないのは不自然だと私は考えました。
どこかに居場所を獲得するにも、仲間と一緒に勉強したりライバルと切磋琢磨するにも、趣味の道を深めていくにもコミュニケーション能力が高いほうが有利です。コミュニケーション能力が低ければ、メンバーシップを経由して技能やアイデンティティを獲得していくにも、個人としての業績や地位を介してアイデンティティを獲得していくにも、不利でしょう。
本書では「何者かになっていく」ための経路、すなわちアイデンティティの獲得・確立の経路を2つにわけて紹介しています。うちひとつは、伴って承認欲求が充たされるような個人的経路、もうひとつは伴って所属欲求が充たされるようなメンバーシップ型の経路です。が、この分類は便宜上のもので両者は地続きで、どちらも他者との人間関係のなかでできあがっていくものです。
承認と所属、どちらの経路でも他者との人間関係が必要である以上、コミュニケーション能力の成功確率が高い人は有利で、成功確率が低い人は不利となります。ひとことでコミュニケーション能力と言ってもさまざまですが、ともあれ、コミュニケーション能力が高いに越したことはありません。
コミュニケーション能力の成長は「何者かになりたい」気持ちに引っ張られがち
だから「何者問題」のソリューションの一環としてコミュニケーション能力の底上げも大切なのですが、「何者かになりたい」「何者にもなれない」気持ちが強いと、コミュニケーション能力の成長が偏ってしまうことがあるので注意が必要です。
本題に入る前に、ここでいうコミュニケーション能力とは何かについて触れておきます。
狭い意味でのコミュニケーション能力というと、場の空気を読む能力、相手のメッセージをよく理解し相手にわかりやすいメッセージを届けられる能力、良い印象を与える身なりやジェスチャーなどが連想されますが、コミュニケーションの成否に影響するさまざまな変数まで含めると、たとえばステータスや経済力や身長の高さなどもコミュニケーション能力の一部をなしていると言えます。
たとえば地位や経済力や身長の高さを併せ持った未婚男性は、未婚女性とのコミュニケーションに有利を得るかもしれません。
また性格やパーソナリティも短期/長期それぞれのコミュニケーションの行方に影響しますし、専門家集団やオタクの集団では専門的知識やうんちくがコミュニケーションにアドバンテージをもたらすでしょう。
これら、さまざまなコミュニケーション能力(の変数)を眺めてみると、そのコミュニケーション能力(の変数)を身に付けること自体がアイデンティティになり得るものもあれば、それを身に付けてもアイデンティティの足しになり得ない、いわば「何者かになった」という実感をちっとも与えてくれないものもあることに気付きます。
それを図示したのが下の表です。
表の左側は先天性がものをいうコミュニケーション能力(の変数)で、右側は後天的学習がものをいうコミュニケーション能力(の変数)です。表の上のほうは身に付けてもアイデンティティの足しにならないコミュニケーション能力(の変数)で、表の下のほうは身に付けるとアイデンティティの足しになり、「何者かになった」と感じやすいコミュニケーション能力(の変数)です。
このうち、地位・立場・経済力が最初から手に入っていることはあまりありません。地位・立場・経済力が世襲財産の場合、それがかえって「何者問題」を複雑にしてしまうことがありますが、ここでは例外扱いしておきます。
問題は、それ以外のアイデンティティの足しになるタイプのコミュニケーション能力(の変数)で、それらはえてして、コミュニケーションのための手段としてではなく目的として、つまり「何者問題」を直接解決するために求められがちです。
たとえば自分の職業の専門的知識などは、同業者集団のなかで何者かになる手段として重要です。専門的知識を充実させれば同業者同士のコミュニケーションで有利になりますし、職業人としてのアイデンティティも獲得・確立させられるでしょう。これは同業者以外とのコミュニケーションにはさほど役に立たないかもしれませんが、地位・立場・経済力を伴うようになれば同業者以外の人も話を聞いてくれるようになるかもしれません。「何者かになりたい」という動機による、職業人としての完成。これは、動機と成長の幸福な結合と言えます。
しかし、職業や地位・立場・経済力とは無関係のところ、たとえば趣味の領域で専門的知識を高める場合は、動機と成長の幸福な結合はやや難しくなります。いまどきは趣味の世界でも極まっている人はリスペクトされ、そこではコミュニケーションで有利になれますが、地位・立場・経済力がついてくるとは限りません。生まれが貴族ならそうした問題は度外視できますが、そうでない場合、趣味の世界でアイデンティティを獲得する=何者かになることと、生計を立てることの間に乖離が生じます。
現代社会は職業と趣味のアイデンティティが乖離していても生きていけるようにできているので、趣味の領域で何者かになり、職業の領域では何者にもなれていない気持ちのままでも十分生きていけます。ところが職業と趣味の乖離に耐えられない人もなかにはいて、そういう人は職業と趣味の乖離に悩んで燻りやすいので、趣味をできるだけ職業に近づけるとか、部分的にでもクロスさせるとか、工夫が必要になってしまいます。
もうひとつ、大きな問題があります。後天的学習で身に付けられるコミュニケーション能力(の変数)のなかには、それ単体ではアイデンティティの足しにまったくならないものが結構あります。さっきの表で言えば右上のほうに分布しているもの全般ですね。
挨拶・礼儀作法・マナー・清潔感などは、それを身に付けても「何者かになった」という手ごたえがありません。これらは身に付けるとコミュニケーション能力が劇的に上がるものではなく、身に付けていないとコミュニケーションの成功確率が下がってしまうタイプなので、がんばって身に付けてもそれだけではモテたり人気者になれたりしません。「何者問題」を解決したくてウズウズしている人にとって、これは動機付けとして弱いでしょう。がんばって身に付けてもそれだけではモテや人気者に手が届かず、それだけでは「何者かになった」手ごたえをくれないものより、有効な範囲が狭くてもとにかく「何者かになった」手ごたえをくれる技能習得に、ついつい力が入ってしまうのはありがちなことです。
さっきの表で示すなら、「何者かになりたい」「何者でもない」といった思いが強い人は、技能習得に際してこの緑の矢印みたいな動機付けが強く働いてしまうのです。その結果、本当は身に付けなければならないコミュニケーション能力の基礎をおろそかにしたまま、後回しでも構わない蘊蓄をたくさん身に付けてしまったり、コミュニケーション能力の底上げにはあまり役立たないことに力を入れてしまったりする人がいます。
後天的学習でなんとかなる部分はしっかり押さえたい
文章前半で触れたように、アイデンティティを獲得して「何者かになっていく」うえで、コミュニケーション能力は高ければ有利で低ければ不利です。そうしたなかで、挨拶・礼儀作法・マナー・清潔感などはあらゆる人間関係に影響をおよぼし、習熟の度合いが低いほどコミュニケーションの失敗確率が上がるのでほぼ必須科目といえるでしょう。ところが「何者かになりたい」という動機に素直に従っていると、それ単体では「何者かになった」と実感できないこの種のコミュニケーション能力(の変数)が動機づけられにくく、後回しにされやすく、おろそかにされてしまいます。
挨拶・礼儀作法・マナー・清潔感などを習得するより、自分の好きな分野に没頭したほうが「何者かになった」感はずっと得られやすいですからね。でも長い目でみれば、それだけではコミュニケーション能力の底上げは難しく、自分の好きな分野での人間関係のなかですらコミュニケーションに失敗しやすく、結局アイデンティティの獲得・確立の足を引っ張り続けるかもしれません。表で示したように、コミュニケーション能力(の変数)のなかには先天的なものも結構あり、そこのところは攻略が難しいのですが、それだけに、後天的学習でカバーできる点についてはしっかり押さえておきたいところです。