シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

オタクが動物化したのか、動物がオタクになったのか──『動物化するポストモダン』再読、それからコジェーヴ

 

 
最近私は「近代社会ってなんだろう?」ってことに関心があって、近代社会とその続きについて書いてある本を再読してまわっている。ゆうべは東浩紀『動物化するポストモダン』を数年ぶりに読んだ。ただ懐かしいだけじゃない。読むたびに発見があって「こんなことを著者は書いていたのか!」と驚いた。それからインスピレーション。自宅の本棚のいちばんいい場所には、読むたびにインスピレーションが刺激される本を並べておきたいよね。
 
昨日の私は「動物化したオタクって、どのあたりのオタクまでで、どこからのオタクは元々動物だったんだろうか?」ってことを読みながら考え続けていた。
 
『動物化するポストモダン』でいうところの「動物」とは、コジェーヴという哲学者の言っていた「動物」のことらしいが、私はこのコジェーヴという人自身の本を読んだことがない。ただ、『動物化するポストモダン』に書かれていることとその周辺情報から察するに、コジェーヴのいう「動物」とは、近代社会のあるべき人間の特徴にそぐわない、そんな人を指すらしい。
 

 コジェーヴは、戦後のアメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼ぶ。このような強い表現が使われるのは、ヘーゲル哲学独特の「人間」の規定と関係している。ヘーゲルによれば(より正確にはコジェーヴが解釈するヘーゲルによれば)、ホモ・サピエンスはそのままで人間的なわけではない。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなければならない。
 対して動物は、つねに自然と調和して生きている。したがって、消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカの消費社会は、彼の用語では、人間的というよりむしろ「動物的」と呼ばれることになる。そこには飢えも争いもないが、かわりに哲学もない。
『動物化するポストモダン』より

ここでいう近代社会然とした「人間」とは上掲の否定を含む人間、理性に基づいてそのままの人間に対して批判的な視点を持ち得る人間、理性を用いてそのままよりも良くなろうと思える人間だ。関連して、他人との比較のなかで何かを欲しがったり、何かを動機づけられたりすることも可能な人間だ*1
 
たとえば、おいしそうなものを欲しがるだけ、美しい異性に見とれるだけでは近代社会然とした人間とは言えない。それは、この文脈でいうところの「動物」にあたるだろう。
 
あるいは、現状の人間に対して批判的な視点が持てずに現状肯定にばかり甘んじる人間、他人との比較のなかで何かを欲しがったり動機づけられたりすることのない人間も、この文脈でいうところの「動物」にあたる。だから、他人の目線など意識すらせず、自分の欲しがりたい「萌え」や「泣き」をしゃにむに追いかけたオタク、他人の目線を意識することなく趣味や消費活動に耽溺してばかりのオタクは、なるほど動物化した人間、動物化したオタクってことになりそうだ。
 
なお、こうしたオタク像は1990年代~00年代初頭のそれに当てはまるはずで、今日の、オタクとパリピの区別すら判然としない2025年の現状には当てはめきれないかもしれない点に、留意が必要だと思う。この文脈で登場するオタクは、オタクvs新人類といった20世紀末のパースペクティブのもとにある。つまり、ここでいう新人類はオタクとは対照的に、他人の目線を意識しながら趣味や消費活動をやってのける人々だった点で、*1に記した人間の条件により当てはまっていた。
 
どうして今、私がこんなことを蒸し返して『動物化するポストモダン』を再読しているのか。それは、『動物化するポストモダン』が参照しているコジェーヴの本がようやく再販される運びになったからだ!
 

 
コジェーヴ『ヘーゲル読解入門:『精神現象学』を読む』は、『動物化するポストモダン』に書いてあるこうした事々をもっと詳しく知るうえで、きっと役に立つだろう。と同時に、私の「近代社会ってなんだろう?」という疑問にアプローチする材料になってくれるに違いない。もう予約注文してあって、楽しみにしている。
 
 

オタク個々人が動物化したのか/オタク界隈が動物化したのか

 
この文章のメインは『ヘーゲル読解入門:『精神現象学』を読む』が楽しみだよね! って感じなのだけど、余白で益体も無いことを書いてみる。
 
 
オタクの動物化について。
 
『動物化するポストモダン』は、このオタクが動物化していったことを示す材料として、キャラ萌えやビジュアルノベルを挙げている。昔のオタクはいざしらず、90年代後半のビジュアルノベルのキャラクターに真っすぐに「萌え」たり、「泣ける」シナリオに素直に泣いたりしていたオタクたちは、コジェーヴの論に沿って考えれば動物的であって人間的ではない、といった感じになるだろう。
 
しかしこの時期には、そうしたビジュアルノベルやビジュアルノベルに萌えるオタクをやけに賢く高尚な存在として語る人々もいたし、もっと難しい論評に基づいて批評する向きもあったと記憶している。ビジュアルノベルと言っても色々あり、付き合い方も色々だろう。実際、『Air』『Kanon』『CROSS†CHANNEL』といった作品には感情の工業生産品でしかないと片付けることを許さないニュアンス、それから同時代性が宿っているようにもみえた。『月姫』や『沙耶の唄』といった作品も含んでいた当時のビジュアルノベルというジャンルを軽々に扱うのも、それはそれで違うと思う。
 
他方、どうにも単純なファンや消費者がいたことも事実だ。さきに挙げたゲームタイトルについても、シンプルな受容の仕方をしている人などいくらでもいたのだった。当時、オタクたちが皮肉交じりに用いていた「全米が泣いた!」という文句を鏡で映したような、判を押したような萌え方をしているオタクたちは実在した。当時の段階で既に、エロゲーやビジュアルノベルの世界の裾野は90年代にオタクと呼ばれ得た人々の外側にまで広がりつつあり、いわゆるライトなオタクはもちろん、当時の言葉でいえばヤンキーと呼ばれ得る人々にも届きつつあった。
 

 
私は、オタクともサブカルともヤンキーともつかない人々について過去に本をまとめたことがある。しかし時期尚早過ぎたし、準備も不足していた。もう数年寝かしてから、もっと勉強してからこのテーマで書けば良かったと今は後悔している。
 
さておき、『電車男』や『涼宮ハルヒの憂鬱』や『ニコニコ動画』などが登場しオタクの裾野が一挙に広がったと言われる前夜の段階でも、ビジュアルノベルやエロゲーは裾野を広げ始めていて、そのなかには90年代にイメージされたオタクのコア層にすら合致していない人々も含まれ始めていた。これも当時の言葉を借りるが、たとえば00年代前半の段階でも*2、オタクDQNと表現するのが似合いのハイブリッドな人々がそれなりいたことは、彼らが基本的にサバルタンであることを踏まえて繰り返し言っておきたい。
 

ところが、2000年ごろから僅かずつ観測されるようになり、近年まちがいなく観測頻度が増えているのは、ゲーセンではなくオタク文化圏のかなり深い場所にも出没する、オタクヤンキーな人達だ。
このようなオタクとヤンキーのハイブリッドのような人達には、旧来のオタクっぽい問題解決方法 (あるいは生徒会的問題解決方法、とでも言うべきか) が通用しない。このため、たった一人のオタクヤンキーの侵入によってさえも、オタクコミュニティ内の人間力学が大きな影響を蒙ることがある。彼らの多くは、睨み合いで先に目を逸らせるような人間の言う事をすんなりとは聞いてくれないので、オタク的知識の多寡や既存の秩序 (ああ、なんと生徒会的な響きだろう!) でコントロールできる相手ではないのだ。歴史のあるオタクコミュニティであれば、こうしたオタクヤンキー的な人物と上手に付き合ったり、コミュニティに迎え入れたりする方法を知った人物が混じっている場合もあるが、そうでない場合、ややこしいコンフリクトに発展する場合もある。 

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20100202/p1

そうした人が地方の、垢ぬけないオタクコミュニティに闖入してきたりすると、それまで平和裏に続いてきたかにみえた生徒会的問題解決方法は瓦解する。
 
オタクなるものが都市部のエリートの子息に限定されていた頃には、そうした生徒会的問題解決方法が瓦解する事態は珍しかったのかもしれない。が、90年代以降にオタクが拡散・大衆化し、地方の国道沿いの若者にまで受け入れられていった過程で、萌えるという観点でも、コミュニケーションの趨勢という観点でもより動物的なオタク、あるいは、近代社会のディシプリンを内面化していないオタクが増えていったのは、たぶんそうなのだろうと思う。この文章の文脈に沿って言うなら、それはオタクが動物化していった過程であると同時に、オタクが*3動物然とした人々にまで広がっていった過程でもあったように思えたりもする。
 
 

オタクカルチャーにみる近代思想の射程距離、あるいは近代の浸透度合い

 
こうしてオタクの拡散と大衆化、および再読した『動物化するポストモダン』と近代について思い出すと、近代化を成し遂げ、“一億総中流社会”が成ったといわれた日本に、どこまで近代の精神が浸透していたのか、怪しい気持ちになってくる。
 
『動物化するポストモダン』以前のオタク、特に、自己表現のすべを持っているオタクの領域には、確かに近代の精神は根付いていたのかもしれない。
 

 
ブルデューの『ディスタンクシオン』には、文化資本やその継承についてだけでなく、支配階級に優勢な趣味、中間階級に優勢な趣味、労働者階級に優勢な趣味の特徴についても書かれている。この、各階級における趣味のなかで近代の精神に最も妥当するのは、もちろん支配階級のそれである。ブルデューは、同じジャンルを愛好している者でも、その趣味性や鑑賞の仕方は階級によって異なると述べており、それはメインカルチャーだけでなくサブカルチャーでも認められる現象であることも示している。
 
オタクがまだひらがなで「おたく」と書かれ、極少数派だった頃、オタクのコア層は都市部の富裕な子女、首都圏の私立高校に進学するような子女だったと聞く*4。そうした子女のうち、おたくとして作品や批評を残した人々は、ブルデューのいう支配階級の趣味とハビトゥスを身に付けていた可能性は高く、文化資本にもともと恵まれていたケースが多かったのではないかと思う。少なくとも、同時代の地方都市で公立高校に進学するような子女に比べたらそうだろう。彼らが所有する文化資本のなかには、富裕な家庭で身につけたものもあれば、私立高校や進学校で身につけたものもあるだろう。
 

 この種の能力はだいたいにおいて、それと気づかぬうちに習得されていくものであり、それは家庭や学校で正統的教養を身につけていくなかで獲得される一定の性向によって、可能になるものである。つまりこの性向は、一般に応用できる一連の知覚・評価図式をもっているので、他の分野にも転位することが可能であり、したがって他のさまざまな文化経験へと向かい、それらをこれまでとは別のしかたで知覚し、分類し、記憶することを可能にしてくれるわけだ。
(中略)
彼らは二つの集団によって指針を与えられる。ひとつは自分の属するグループ全体であり(「あの映画は見たかい?」とか「この映画は見なくちゃいけないよ」といった言いかたで仲間の秩序に従うことが要求される)、もうひとつはこのグループが正統的な分類=等級づけをおこない、「批評」の名に値する芸術鑑定作業には不可欠の付随的言説を生産するにあたって、その力を借りる批評家集団の全体である。 
『ディスタンクシオン I』より

マスボリュームが小さく、首都圏にそのメンバーの大半が集中し、コミックマーケットやSF研究会や漫研などで繋がり合っていたオタクがこうした条件にある程度まで合致していたのは想像にかたくない。
 
対して、90~00年代にオタクが大衆化していったなかで新規参入した裾野にあたる人々は、そうでもあるまい。そうした裾野にあたるオタクたちも、首都圏のオタク・エリートが鑑賞しているのと同じジャンルに接することは可能だ。しかし『ディスタンクシオン』に基づくなら、同じジャンルの作品を鑑賞するとしても、その鑑賞の仕方、その作品の選好、鑑賞に際しての趣味やハビトゥスが異なっていても不思議ではない。
 
余談だが、『ディスタンクシオン』的に考えた場合、ある種のオタクにありがちなやたらと一生懸命な態度は、中間階級的な趣味、あるいはハビトゥスということにもなろう。知識を蓄積すること・一生懸命に暗記すること、それらがオタクとしての優越であるとする感覚は支配階級のハビトゥスや趣味とは相いれない。それは中間階級(ちなみに『ディスタンクシオン』における中間階級とは、プチブルとも称される)のハビトゥスや趣味である。
 
ミダス王の呪いにも似て、支配階級はどのようなジャンルに触れても支配階級のハビトゥスや趣味を発露し、中間階級はどのようなジャンルに触れても中間階級のハビトゥスや趣味を発露し、労働者階級はどのようなジャンルに触れても労働者階級のハビトゥスや趣味を発露する。オタク・エリートは別にオタクでなかったとしても支配階級然とした趣味を発露しただろうし、大衆化した後のオタクは別にオタクでなかったとしても中間階級的~労働者階級的な趣味を発露しただろう。だとしたら、『動物化するポストモダン』以降の大衆化した時代のオタクたちが趣味をとおして発露していったものとは、趣味の領域における近代が行き届かないありさま、つまり、ブルデューのいう支配階級ほどには近代の精神が内面化されていないありさまだったんじゃないだろうか。
 
さきに出した“一億総中流社会”という言葉が象徴したように、近代社会の恩恵は日本じゅうにトリクルダウンし、その産物である自動車やスマートフォンといった利器は津々浦々にまで行き渡っている。しかし、近代の精神はどうだろう? 支配階級が最もよく内面化しているとされ、最も近代の精神に妥当しているとされるハビトゥスや趣味は日本じゅうにトリクルダウンしたのだろうか?
 
していないよね、それって。
近代社会の利器はともかく、近代の精神のある部分は、どう見ても日本じゅうにまでトリクルダウンしていない。昨今の国際情勢をみるに、たぶん他の先進国においてもそうだし、今まさに先進国になろうとしている国々においてもそうだろう。その近代の精神のある部分とは、ブルデューのいう支配階級の趣味やハビトゥスだったり、コジェーヴが「動物」と対置させた「人間」という概念に相当するものだったりする。
 
今日の私は、そういう一兆候として『動物化するポストモダン』に記されたオタクの「動物」っぽさを思い出す。そしてそのオタクの「動物」っぽさなるものは、2020年代においてはもっと広く観測されるものに違いないし、今更、批判的に検討するのも億劫になるものだ。少なくとも私は批判的に検討することに億劫さをおぼえる。
 
 

近代の精神がトリクルダウンしない/しなかったという事態

 
それより私が批判的に検討したくなるのは、じゃあ、近代社会の恩恵が日本じゅうにトリクルダウンしていった一方で、近代の精神がトリクルダウンしなかったのはなぜか、ということだ。あるいは哲学の偉い人たちが述べたところの「人間」が21世紀になってもたいして増えず、「動物」に相当する人が私も含めてこんなにたくさん存在し続けているのはなぜか、ということだ。
 
近代が生み出した自動車やスマホや、近代と切っても切れない資本主義の精神については、私たちは驚くほど簡単にこれを自らのものにしている。ところが近代の精神はそうなってはいない。近代の精神は、思想の次元では現代社会をいまだ支え続けているし、社会規範や道徳や正義とも接続し続けている一方で、私たちの大半は「動物」であることをやめていない。というより昨今のネットメディアをみるに、私たちのほとんどは「動物」でしかなく、「人間」などというハイカラを貫いているようにみえた人の正体も、案外「動物」であることがしばしばバレてしまっていたりもする。
 
これは、社会の建付けとしておかしいなことではないだろうか。
それともこれは、おかしいと思ってはいけないものなのだろうか。
そのあたりについて考える材料としても、くだんの『ヘーゲル読解入門:『精神現象学』を読む』を読むのを楽しみにしている。
 
 

*1:この、他者との比較のなかで~について、『動物化するポストモダン』では右のように記している:"しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は[動物的な]欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。(中略)……というのも、性的な欲望は、生理的な絶頂感で満たされるような単純なものではなく、他者の欲望を欲望するという複雑な構造を内側に抱えているからだ。平たく言えば、男性は女性を手に入れたあとも、その事実を他者に欲望されたいと思うし、また同時に、他者が欲望するものをこそ手に入れたいとも思うので、その欲望は尽きることがないのである。人間が動物と異なり、自己意識をもち、社会関係を作ることができるのは、まさにこのような間主体的な欲望があるからにほかならない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする──ここでは詳しく述べないが、この区別はじつはヘーゲルからラカンまで、近代の哲学や思想の根幹をなしているきわめて大きな前提である。コジェーヴもまたそれを踏襲している。"

*2:もっと言えば、00年代前半の地方都市のレベルにおいても

*3:より正確には、オタク的な消費やオタク的とみなされていたコンテンツが、というべきだろうか

*4:via 宮台真司