日の出が遅くなってきたのに、朝、早くに目が覚めてしまう。昔は早起きが苦手だったはずなのに、午前6時、なんなら午前5時半には起きだしてジョギングしたり、『艦これ』のデイリー任務をこなしたりするようになった。
早朝には、人の気持ちを引き締める効果があると思う。
ひんやりとした、人気の少ない路地の空気を思いっきり吸う。薄暗い10月の朝でも花々は一生懸命に咲いていて、草むらからは秋の虫の声が聞こえる。紅葉は始まっていないが、路上の落ち葉や広葉樹の葉がいくらか黄色くなりはじめた。毎年あれを見るたび「人間の白髪みたいだな」、などと思う。
そういう涼気をたっぷり吸い込んでから仕事に向かうと、始業時間からフル稼働できるように整う。10~20年前なら眠たさを引きずっていたはずの午前8時も、今は苦ににならない。一日のタスクに素早く取り掛かれるのは幸先良いことだ。できることが増えるし心にも余裕が生まれる。昼食と小休止を挟み、午後の仕事へ。小休止を挟めた日には午後の仕事も加速する。残った時間でできるだけやってしまいたい。
で、21時にもなれば「そろそろ難しい本は読まないようにしないと」と思うようになり、22時を過ぎると眠たさの帳がおりてきて抵抗できなくなる。アラフィフの就寝は健康的だ。
これでは老人ではないか!
こう書くと良いことづくめのように思われるし、たぶん今の私の毎日の生活は健康的だと思う。ついでに言えば、最近、アルコールは心拍数が上昇するほど飲んでしまったら失敗だと感じるようになったので、その手前で引き返すのがマイブームだ(もちろん、たまに「やらかして」しまうことはあるが)。心拍数が上昇するほど飲んだら睡眠がかえってとりづらくなったり、睡眠の質が著しく劣化したりするように思う。こういうことを意識するのも早起きが習慣になってきたおかげだ。
でもこれって老人のライフスタイルだよね。
年を取ったんだなぁ、自分。
50歳って、年上からみれば小童だろうけど、20歳、30歳からみれば完全に老人の領域じゃないか。実際になってみたら、ライフスタイルが勝手に老人のそれになってしまっていたのだ。
夜更かしの限りを尽くしていた頃を思い出す。
学生時代の私は、週に4回ぐらいは24時の閉店までゲームセンターにたむろしていたし、そうしたこともあって朝の臨床実習がしんどくて仕方が無かった。当時の医学部の授業は「いろいろ頑張ればけっこうサボれる」ようにできていたが、臨床実習だけはそうもいかないので死人のような顔をして大学病院に通っていたものだ。
なんとか通いきって夏休みを迎えてしまえば、晴れて、昼夜逆転の生活が待っている。お昼過ぎに起きだし、その後もグズグズとしているから、ゲーセンに出かける頃には夕方になっている。そういう生活をしていると、午前0時が真夜中という気がしない。本当の真夜中とは、午前4時である。あの頃は午前4時が就寝するのに一番都合の良い時間だった。
インターネットが繋がり、テレホーダイが来てからは23時から社交の時間が始まった。オンライン空間のはるか遠くまでネットサーフィンしていく。日曜夜でも午前2時まで起きてしまうことなどざらだった。研修医になってからはさすがに控えるように意識していたが、それでも鬱憤がたまっている時にはつい、インターネットに深入りしてしまい、翌朝、辛い目に遭うパターンをやらかしがちだった。私はインターネットから本当にたくさんの機会をいただき、インターネットで人生が変わったことを感謝しているけれども、こと、健康面ではインターネットで蝕まれていたものものも多かったように思う。
そんな真夜中のインターネットが徐々に修正されて、まっとうな時間に就寝しそこそこのコンディションで出勤できるようになったのが私の40代だった。長らく私はそんな自分自身を「毎日の積み重ねをとおして生活習慣が改善してきた」などと思っていた。でも、こんなに早起きになってしまった今は違う風に感じる。これって単なる加齢の影響じゃないの? そのうち、朝の3時や4時に起きるようになったら、正真正銘、老人の仲間入りということになろう。
職場って、案外老人にあわせてつくられている?
早寝早起き人間になってしまった今、勘繰っていることがある。
それは、社会の仕組みって案外老人にあわせてつくられているんじゃないか? ということだ。年配のベテラン勢がやたら朝早くに出社する・職場に現れる風景はどこにでもあり、それは若手としてはあまりうれしくない傾向だろうと思う。医療の世界でも、朝の8時から抄読会なんてのはよくあったパターンだ。8時の抄読会に間に合わせるには早起きし、早くに出勤しなければならない。20代の頃はそれが嫌で嫌でたまらなかった。なんでこんな朝早くに眠い目こすって勉強なんだ? と思っていた。ところが今の私には、朝8時から勉強するのもたいしたことではない。いつものように朝6時に起床すればいいだけである。どうってことはない。
仕事に限らず、朝早くから行われる活動は多い。夏休みのラジオ体操もそうだし、廃品回収や清掃といった地域行事も朝が定番だ。朝早くからの活動は、生活リズムの維持や健康増進やタイパの向上といった観点からも好ましい風に語られがちだ。
でも本当は、世の中全体がもっと遅寝遅起きになったって構わないはずである。若い人が好むような生活リズムにあわせて、出勤時間も退勤時間も営業時間もぜんぶ1~2時間遅らせた社会を想像していただきたい。そんな社会でも、その社会にあわせて皆が生活リズムを維持していればそれで構わないはずである。みんながそのリズムに合わせている限り、それほど不健康でも、それほど非ー生産的でもないはず。
しかし実際にはそうならず、若い世代には眠くてしかたがないリズムが社会全体に定着しているのは、中年~年配世代にとって好都合なように社会全体のリズムがつくられてしまっているせいではないだろうか?
我ながら、うがった見方ですねえ。
でも、社会の決まりごとを決められる権力を持っているのは若者よりも老人だ。だとしたら、この、若い世代には朝が眠くて仕方がない社会の取り決めは、朝がへっちゃらな年上世代によってつくられ、また、維持されているものじゃないか、という気がしなくもない。少なくとも年上世代は、若者世代が「もっと朝の遅い社会になりませんかねえ」とぼやいたとしても、それを無視するか、叱咤するのではないかと思う。
ともあれ、私自身にはもう関係のないことではある。なぜなら早起きしづらい私がどこかにいなくなって、早起きしやすい私ができあがってしまったからだ。早朝っていいですね。いいですね、じゃねーよ! あーあ、夜更かしを取り戻したい(無理だろうなあ)。
くだらない話を書いてしまいました。