シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ブルデュー『ディスタンクシオン』が読めるようになるまで

 


 
最近、難読書といわれるブルデュー『ディスタンクシオン』を今こそ読もうと決心して、普及版を購入した。上掲Xのポストは、自宅に届いた上下巻をパラパラめくった時に、ちゃんと読みこなす準備が自分のなかに整っていることに驚き、感動した時のものだ。
 
こんな、ムスカ大佐のような気持ちになれるまでに私は約10年かかった。『ディスタンクシオン』のまわりをグルグルし続けて、読書に向かってフラグが立っていったプロセスは難読書を抱えている誰かの参考になるかもしれないと思ったので、いきさつを書いてみる。
 
 

文化資本という言葉と新潟ジュンク堂書店での出会い

 
私がブルデューについて最初に見知ったのは、確か、アメリカの政治学者、パットナムの書籍のなかで、社会関係資本とならんで文化資本という言葉を見かけたのが最初だったように思う。
 

  
文化資本とは、家庭環境や生育環境、周囲の人々とのコミュニケーションをとおして自然に身に付けたマナーや身のこなし、言葉遣い、などを指す。学歴や資格、趣味の嗜好なども文化資本に含まれる。それらはお金(=経済資本)ではないけれども、人間関係、勉強効率、社交の方向性や成功率といったさまざまな事柄に影響する。その結果、文化資本の具合によって社会適応のしやすさも、経済資本の集めやすさも、社会のどのあたりで生きていくのかも変わるだろう。社会が人間に与える影響や、個人の社会適応を考えるうえで重要な概念だと思う。
 
そうして私は文化資本に関心を持ったが、聞けば、ブルデューの主著『ディスタンクシオン』は難読書であるという。
 

 おもしろい話が残っています。アメリカの政治学者ジョン・サールが、君はどうしてあんなに難解な書き方をするのかとフーコーに聞いたところ、フランスで認められるためには理解不可能な部分が10%はなければならないと答えたというのです。驚いたサールがのちにブルデューにこの話をしたところ、「10%ではだめで、少なくともその2倍、20%は理解不可能な部分がなければ」と語ったそうです。
(『NHK 100分de名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』』より抜粋)

そんな面倒な本、読みたくないなー。そう思っていた矢先、出張で出かけた新潟のジュンク堂書店で私は本物の『ディスタンクシオン』に出会ってしまった。
 

 
案の定、パラパラとページをめくってみても何が書いてあるのかわかんない。聞いたこともない専門用語、たぶん、社会学っぽい概念らしき色々がちりばめられていて、読解不能だった。しかも当時は普及版が存在せず、やたらと高価だった。チンプンカンプンな高価な書籍を買うわけにはいかない。私は落胆して社会学の書籍コーナーを後にするしかなかった……わけではなかった。
  
捨てる神あれば拾う神あり。
近くの本棚に、その名も『ディスタンクシオンを読む』と銘打たれた書籍が置かれていたのである! やったー! パラパラめくってみる限り、こちらは素人にもわかるような書き方になっている。価格もそんなに高くない。私はさっそくそれをレジに持っていき、出張からの帰り道、一心不乱に読みふけった。あまりに夢中になってしまったせいで、その日のうちに読み終わらずにはいられないほどだった。
 
当時はまだ認識できていなかったのだけど、その本は『ディスタンクシオン』を邦訳した人自身によって書かれた解説書で、たぶん、このことも私が今、『ディスタンクシオン』を読めている遠因になっていると思う。ともあれ、こうして私の関心領域にブルデューと文化資本が刻印された。
 
 

ブルデュー『再生産』を読んでみたけれども

 
でも、『ディスタンクシオンを読む』を読んだだけでは『ディスタンクシオン』は読みきれない。
その後、私は紀伊国屋書店やジュンク堂書店に出かける行くたびに社会学コーナーにも寄り道して『ディスタンクシオン』を眺めてみたけれども、まだまだ読める気がしなかった。それでもブルデューを読んでみたかった私は、『再生産』という本を手にしてみることにした。
 

 
この本は、教育や家庭などをとおして文化資本が親から子へと継承されていくプロセスを主に扱っていて、『ディスタンクシオン』に比べて薄く、まだしも素人にも手が出せそうな雰囲気で書かれていた。そのうえ、当時の私は文化資本が親から子へと継承され、それが世帯間格差を生み出していく点に関心があったから、そういう部分を知るのに『再生産』はうってつけだった。
 
ところがこの本を読んでもなお、『ディスタンクシオン』は読めるようにならなかった。なんというか、目が文章の上を滑ってしまって内容がぜんぜん頭に入ってこないのである。えー? どうすりゃいいんだよー! 世の中には、頭に入ってこなくても無理矢理に本を読みにかかる人もいるけれども、私はそういう読み方ができない人間なので、読書の標的からブルデューを外すしかない、と思うことにした。
 
 

2020年代の『ディスタンクシオン』包囲網

 
それからしばらく、ブルデューのことを忘れて日々を過ごしていたのだけど、2020年になり、NHK 100分de名著の『ディスタンクシオン』が出版された。
 

 
ふーん。
そういえば昔、ブルデューを読みこなしたいって思っていたっけ。
100分de名著なら片手間で読めると思い、kindleにインストールして少しずつ読んだ。『ディスタンクシオンを読む』や『再生産』でおぼえたことを再確認しただけのような読後感だった。この100分de名著が、あの難読書自身に再挑戦するフラグたり得るとはどうしても思えなかった。少なくともその瞬間は、そう思えた。
  
それが変わったのは2024年になってからだ。この、ユースカルチャーに関する二冊の書籍はブルデューに影響されていて、実際、引用もされていたと記憶している。『反逆の神話』は、ユースカルチャーとそれを駆動するメンタリティが資本主義へと回収されていく話に重きを置いていて、『STATUS AND CULTURE』はユースカルチャー内で卓越性がつくられていくプロセスの描写に重きを置いているようにみえる。どうあれ、これらの本はカルチャーな活動のなかで発生する、卓越性や優越感や差異化のたえざる闘争について私に何事かを教えてくれて、それは私が『再生産』などを読んでいた頃にはピンと来ていなかったブルデューの大事なことを教えてくれている気がしてならなかった。
  
『他者といる技法』という本にもブルデューが登場した。この本の第四章には、たとえば高級レストランに入った時の振舞いや気持ちが文化資本によってどう変わるか等を例に挙げたうえで、文化資本がどのように個人に作用するのかを紹介している。その例では、プチ・ブルジョワジーに相当する人々は高級レストランにおいてゆとりを感じるよりも気後れを感じ、ちゃんとしていなければならない、などと考え振舞うだろう。一方、もっとハイソな人なら、高級レストランでもくつろいだ気持ちでいられるかもしれない。
 
これらの本をとおして私が強く意識するようになったのは、「ブルデューが言うような文化資本は常時機能していて逃れることができない」点と、「その文化資本を巡る闘争は世代間継承だけが問題なわけでも、階級間格差だけが問題なわけでもない。もっと全領域で現在進行形で起こっていて、誰も逃れることができない」点だった。たぶんブルデューは、もっと逃れ難く・社会の隅々にまで(文化資本に関連した)闘争が存在していて、その影響下から誰も逃れられない前提で『ディスタンクシオン』を書いているはずだ、という予測が私のなかでムクムクと育っていった。そうしたうえでもう一度『NHK 100分de名著に『ディスタンクシオン』』を再読したら、まさにそのようなことが記されていて、以前はそれほど気にならなかった以下のセンテンスが強く響いた。
 

 教室にあるのは、勉強ができるか否かという評価軸だけではありません。そこには横幅がたくさんあり、「勝ち方」がいろいろあるわけです。たとえば、運動神経が良くて生徒会長もやっているという王道の「勝ち方」をする子もいれば、アニメや漫画などサブカルに詳しいというキャラで勝つ子もいます。もちろん、ひたすら勉強の成績で勝とうとする子もいるでしょう。
 これは少し残酷な言い方になるかもしれませんが、学校の教室も象徴闘争の場にほかなりません。いや、界という社会的な空間のなかで行為する以上、そこでは必ず象徴闘争が繰り広げられるのです。
(『NHK 100分de名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』』より抜粋)

 
上掲引用文を、私は過去にも読んでいたはずである。でも、この引用文が本当に肚落ちするためには、『反逆の神話』や『STATUS AND CULTURE』などが私には必要だった。そうしてぐるっと巡ってから再読した『100分de名著』は、私にとって『ディスタンクシオン』を読む最後のフラグになった。そして実際、私は『ディスタンクシオン』が読めるようになっていた。今の私は、この獲得された『ディスタンクシオン』の知識を使って世の中の色々なものを叩いてみて、その音色を確かめてみたくてウズウズしている感じだ。
 
 

一冊読むために回り道をする。一冊の書籍を包囲攻撃する

 
世の中にはたくさん本が読める人もいるが、私はそうではないので、ときに、一冊の本を読むのに何年もかかってしまう。それだけに、読めない本を読めるようになるために回り道をしたり包囲攻撃をかけたりすることには慣れているつもりだ。
 
今回のブルデュー『ディスタンクシオン』も、単体ではとても読める代物ではなかった。いろいろな解説書や関連書籍を読むことで少しずつ読みやすい状態をつくり、挑戦するためのフラグを立てまくってようやく攻略した感じだった。読みたい本がすぐに読めない時には、その本について書かれた参考書やアンチョコを読んだり、その本と関連のありそうな、まだしも読みやすい本を読んでみたりするのはアリだと思う。あとは待つこと。本はすぐには逃げていかないから、機が熟するのを待つ、というのも私はアリだと思う。2020年頃までは、私も自分が『ディスタンクシオン』を読めるようになれるとは考えていませんでした。準備も整わないうちに無理矢理に読もうとして残念な結果になるぐらいなら、あえて待つ、というのもアリなんじゃないでしょうか。私が書きたかったことは、こんな感じです。
 
 
※記事内容は、ここまでで終わりです。以下は、常連読者さん向けの他愛もないことしか書いてありませんので、気にしなくていいと思います。 
 

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