シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

2021年のガンダムの見せ方、それとテロリズム──『閃光のハサウェイ』

 
gundam-hathaway.net
 
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の映画版をふと、見に行きたくなったので見に行った。
 
『閃光のハサウェイ』は、もちろん小説版が出た頃に読んでいる。つまらなかったわけではないけども深い印象は残らなかった。そもそも小説版のガンダムは、だいたいアニメ版に比べてネットリしていて自分の口に合わない。
 

 
だから映画『閃光のハサウェイ』には別に期待していなかった。ところがツイッターでちょっと気になる文章が目に留まった。
 
 
マシーナリーとも子さんは確か、バーザム*1を愛してやまない人物だったはずだ。そのバーザムを愛してやまない人物が大絶賛していたので、見て損することはあるまいと思い、映画館に足を運んだ。期待通り、いや期待以上のものが観れたし過去のガンダムをたくさん思い出したので、感想を書くことにした。(以下、ネタバレには配慮していないのでネタバレが心配な人は読まないでください)
 
 

モビルスーツよりシーンを見せる、それと大火力

 
『閃光のハサウェイ』は太陽のまぶしさから始まる。冒頭、太陽をバックにスペースコロニーが回転するシーンしかり、ハサウェイが滞在するホテルの白々とした外観もしかり。なによりダバオの風景が熱帯じみている。あれっ? ガンダムってこんなにまぶしく日光を描くアニメだったっけ? と当惑させられた。いや、熱帯が舞台だからまぶしい日光は大歓迎です。夜間戦闘の妙な明るさもいい。真っ暗ではなく、僅かに明るさの残る夜のダバオにも熱帯っぽさがある。
 
ガンダムを見て「現地に遊びに行きたい」と思うことは今まで無かったが、今回はダバオに行きたくなってしまった。このこともガンダムのなかでは異例な感じだった。
 
でもってモビルスーツ戦。
これがまた、期待していたのとは全然違った。いやモビルスーツ戦だけでなく、モビルスーツの描写そのものが従来のガンダムとは大きく異なっているように感じられた。
 
たとえばマンハンター部隊が市民を威圧する際にジェガンというモビルスーツが出てくるが、これを魅せてプラモデルを売りたいという欲目が感じられなかった。夜のダバオで繰り広げられるモビルスーツの空中戦闘にしてもそうだ。ミサイルもビームも撃っているが、モビルスーツをやたら映すことはなく、短いカットに留めている。例外はメッサーとグスタフ・カールの地上戦、それとガンダム同士がビームサーベルで切り結ぶシーンぐらいだろうか。これらのシーンではモビルスーツの露出度というか、モビルスーツを眺めていられる時間がそれなりある。あるのだけど、ここも禁欲的だ。少なくとも従来のガンダム作品に登場するモビルスーツに比べれば、『閃光のハサウェイ』に登場するモビルスーツは露出が少なく、鋭角的なモビルスーツ戦のリアリティとも合致しているように感じられた。
 
そのかわり、「歌舞伎としてのモビルスーツ戦」や「バンダイナムコのプラモデルを売るためのモビルスーツ戦」からは遠ざかっているかもしれない。が、そういった欲目を捨てた露出度の少ないモビルスーツ戦に、新鮮な魅力を感じた。
 
そもそも、この『閃光のハサウェイ』に出てくるモビルスーツは、デザインはモビルスーツ・オタクを満足させる水準だとしても、モビルスーツを見せるのはシーンを魅せるための手段としてであって、目的ではないようにみえた*2。夜のダバオで派手に戦うメッサーとグスタフ・カールは、モビルスーツ戦を見せる以上に、ハサウェイとギギの逃避行を魅せるためのもの、ダバオの街が燃えて人が死ぬさまを映すためのもののようにみえた。やたらと登場する、基地上空を飛ぶモビルスーツとベースジャバーの姿は言うまでもなく。
 
そういう、モビルスーツを見せるのでなくシーンの大道具としてモビルスーツを見せる姿勢から、私は
 
「『閃光のハサウェイ』という作品は、ガンダム・オタクやモビルスーツ・オタクに媚びるより、ハサウェイを中心とした人間模様をやります。モビルスーツのデザインで手抜かりするつもりはありませんが、私たちはモビルスーツを見せることにこだわらず、モビルスーツという大型人型架空兵器のある未来のドラマをやります」
 
……というマニフェストを受け取った気がした。
 
 
でもって、シーンの大道具としてのモビルスーツが、とにかくデカくて、とにかくヤバい。
 
誰かがツイッターで「『閃光のハサウェイ』のモビルスーツは重量感がある、とにかくデカい、ベースジャバーも大きい」と言っていた気がするけど、実際、モビルスーツはとても大きく描かれ、ハッチを開くときの重たい描写も良かった。モビルスーツの大きさと火力があまりにも暴力的で、人間が直接対峙するには強すぎるとみてとれるシーンがたくさんあった。
 
モビルスーツが着陸すればそれだけで森林が焼け。
ビームサーベルが装甲を斬れば溶けた金属がまき散らされ。
ビームライフルは直撃しなくても人が死にそうな小粒子をばらまいている。
 
これらは歴代のガンダムの「設定」を知っていれば理解できるものだが、ここまでしっかり描かれていることはあまりなかった。たとえば『Zガンダム』『ガンダムZZ』を視ていても、こうしたビームライフルやビームサーベルのヤバさ加減は伝わってこない。スペースコロニーのなかでビーム兵器を使うと非常に危ないと台詞で口にする人物はたくさんいても、それを目の当たりにできるシーンは多いとは言えない*3
 
あと、今作はミサイルが良い。
 
アニメの世界では、よく「納豆ミサイル」などといって縦横無尽に、軽快に飛び回るミサイルが持てはやされるが、今作のミサイルは形態も効果音も爆発も重量感があっていい感じだ。そんな重たいミサイルが、ダバオの街に降り注ぐのである。Ξガンダムとペーネロペーのミサイルの撃ち合いも、けん制のためのマイクロミサイル合戦という趣は無く、重たくて黒っぽいミサイルで殺し合いをやっている感じがあり、凶暴感が伝わってきてとても良かった。
 
こんな風に、『閃光のハサウェイ』はダバオの街でのモビルスーツ戦を美しく、そして恐ろしいものとして魅せる。いや違う、恐ろしいモビルスーツ戦も含めた美しいシーンの連続をとおして、ハサウェイ・ギギ・ケネスらのドラマを魅せてくれる。
 
景色や戦いが美しいだけでなく、その美しさを使って見せたいもの・魅了したいものが従来のガンダムとはだいぶ違っていて、少なくともガンダム・オタクにプラモデルを売りつけるのとは違う方向性でやろうと示されているのは、心強いことだと思った。従来のガンダムシリーズに思い入れのない人や、最近のガンダムシリーズのガンダム臭さにウンザリしている人でも、本作なら楽しめる可能性があると思う。
 
 

ガンダムで描かれた「テロ」と「テロリスト」に思いを馳せる

 
ところで『閃光のハサウェイ』では、「テロリスト」が悪いものとして冒頭からハッキリ描かれている。そしてハサウェイのいるマフティという組織もテロリスト集団と言って間違いないので、『閃光のハサウェイ』は、テロリストの首魁を主人公に据えたガンダムということになる。
 
ハサウェイの行く先々で、(マフティに限らずだが)テロリスト集団の所業がさまざまに示される。冒頭シーンはもちろん、ビームライフルでビルが貫かれるシーン、マフティのモビルスーツを撃つためのミサイルが街を焼くシーンなど、テロリストの活動によって恐怖が起こり、人が死ぬことがわかりやすく示されている(と同時に、体制側の容赦のなさもまた示される)。
 
でもって、テロリストの活動が恐怖と死をもたらす様子をくっきり示す大道具として、重量感のあるモビルスーツや重たそうなミサイル、ビームライフルやビームサーベルの凶光がいい味を出しているのだ。
 
こうしたシーンを次々に見せられると、たとえ地球を救う大義を掲げていたとしても、マフティが悪性度の高い環境テロリストのようにみえてしまうし、もちろん『閃光のハサウェイ』の制作陣はそうみえるように作っているのだろう。
 
ダバオの街の人々のマフティ評も手厳しい。曰く。マフティの掲げる理想はインテリじみている。威圧を繰り返すマンハンターをやっつけてくれる点ではマフティに期待しても、マフティの掲げる「地球からすべての人は退去すべき」という理想には同調できない。マフティの掲げる理想は、今日明日を生きるのに精いっぱいな現地人には明後日の心配を語っているようにうつる。そして明後日の心配のために戦うマフティのテロを介して、無数の現地人が命を落とすのだ。
 
こうした「地球連邦の圧制は良くないが、それに歯向かうテロリスト集団はもっと良くない」的な構図は、今、『閃光のハサウェイ』を見る者にとって違和感をおぼえるものではあるまい。しかし歴代のガンダムシリーズを振り返って思うに、作中のテロリストをテロリストとして描くアングルがだいぶ深まったと感じる。こんな風にテロリストを、そして(武力行使を伴った)反体制活動を20世紀のガンダムは描けたものだっただろうか。
 
『Zガンダム』と『ガンダムZZ』に出てくる反地球連邦組織エウーゴは、テロリストという風に描かれていなかった。小説版の『Zガンダム』のなかで誰かが「エウーゴという名前はゲリラみたい」的なことを言っていた記憶があるが、確かに、A.E.U.Gという頭文字を集めた命名は反政府勢力めいている。しかし『Zガンダム』の作中ではエウーゴは専ら善玉扱いで、体制側であったはずのティターンズが悪玉扱いされていた*4
 
そして『逆襲のシャア』。シャア率いるネオジオンがやろうとしていることは地球への小惑星落下だから、テロリストとしての悪性度は極悪もいいところだ。ところが『逆襲のシャア』は、この極悪テロリスト集団であるはずのネオジオンを、あくまで格好良く描く。また、ネオジオンのおひざ元であるスウィートウォーターでは民衆の支持を集めている雰囲気が描かれていた。
 
それがいけないと当時の私は思わなかったし、当時の私にはサザビーもギラ・ドーガもレウルーラも格好良くみえた。当時はきっとそれで良かった。ただもし『逆襲のシャア』が公開されたのが2021年だったら、いや、例えば2000年以降だったら、ネオジオンのテロリスト然としたところは違った風に描かれただろうとは思う。
 
宇宙世紀シリーズではないけれども、『ガンダムW』も印象的だ。体制側の基地に爆弾をしかけて隊員を爆殺するなど、『ガンダムW』の主人公たちはテロリストもいいところだけど、陰惨さ・悲惨さ・迷惑さは伴わない。そうした作風も手伝ってか、『ガンダムW』は女性向け同人の世界でも大ヒットをおさめていた。これも、だから悪かったと言いたいわけではない。テロリストたちが主人公のガンダムで耽美の花が満開になる、それが1995年だったというだけのことだ。
 
ちなみに(まだまだ微温的だった『ガンダム00』を経て)2015年から始まった『ガンダム鉄血のオルフェンズ』は、反体制的な物語をスペース・ヤクザ風の物語に仕立てることで、テロリスト的なフレーバーを巧みに回避している。
 
時系列を追うかたちで振り返ってみると、テロリストをテロリストとして描く・描かなければならない要請は20世紀のガンダムには希薄で、テロリストを描いたとしてもどこか呑気だった。日本のアニメファンにとって平和な一時代だったのだろう。ところが『閃光のハサウェイ』には、テロリストをテロリストとして描かなければならない温度感があって、これから先、どのような陰惨・悲惨・迷惑が飛び出してくるのか、期待、いや怖くなってしまう。
 
すでにマンハンター部隊をとおして描かれたように、テロリストとしてのマフティだけが悲惨・陰惨・迷惑なのでない。そして軍人だけでなく色々な人が巻き添えになって死ぬのだろう。じゃあ巻き添えになって死ぬ民間人が無辜と言えるのかといったら……そうとも言いきれない。宇宙世紀ガンダムシリーズをとおして繰り返し述べられているように、大局的にみれば地球に民間人がたくさん住み続けること自体が問題であり、圧制を敷く体制はもちろん、明日のために明後日のことが考えられないダバオの人々もそれはそれで問題なのだ。
 
宇宙世紀ガンダムシリーズ、特に『Zガンダム』以降のガンダム作品は、こうした世間の縮図のような状況のなかでパイロットたちが戦い、苦悩する物語だった。『閃光のハサウェイ』もまた、そのような作品に連なるものとして体制とテロリストの戦いを物語るのだろう。2020年代の宇宙世紀ガンダムがどうなるのか、第二部第三部も楽しみに待ってみたい。
 
 

 

*1:『Zガンダム』に登場したマイナーなモビルスーツ

*2:……そういえば、小説版の『閃光のハサウェイ』も、いや小説版のガンダムには全体的にそういう趣があった気がする。そんな、本物か偽物かわからない記憶がいま蘇ってきた

*3:例外もある。この手のビームヤバいのシーンで私が一番好きなのは、『ガンダムUC』のクシャトリヤ対リゼル戦にあった、高級住宅地っぽい場所にビームの流れ弾が命中して金塊を持って逃げようとした人を焼き払うシーンだ。

*4:それでも富野監督は、飲み屋の酔っ払いに「ティターンズだけが人殺しじゃない、みんな人殺しだ」と言わせている。