シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

「倍速視聴はオタクじゃない」わかった。じゃあ理想のオタクって何?

 
gendai.ismedia.jp
 
講談社ビジネスに掲載された『「オタク」になりたい若者たち。』という記事に批判が集まっているのをtwitterとはてなブックマークで見かけた。
 
記事曰く、現代の若者は普通がなくなった状況のなかで無個性を嫌い、オタクになりたがるのだそうだ。そしてオタクになるための効率的方法や人間関係を維持する手段として、アニメや映画を倍速で視聴しているという。
 
これに集まった批判的なコメントは、たとえば以下のようなものだ。
 
「片っ端から倍速視聴しているようではオタクではない。コマ送りで観るものだ。」
「オタクはなろうと思ってなるものではない。気が付いたらなっているもの。」
「何かに熱中した先に面白さがあるのであって、量をこなすだけでは何も見えてこない」
「人間関係を維持するためにアニメや映画を観ているのはオタクじゃない」
 
どの批判も、私には馴染み深く親しみやすい。
 
オタクと呼ばれる人・オタクを自称する人・オタク的なライフスタイルには昔からバラツキがあり、個々人が思い描く「あるべきオタクの姿」にも差異はあったように思う。しかし冒頭リンク先で語られている「なりたいオタクの姿」は、いったいどこがオタクなのか? 岡田斗司夫氏が求道的なオタクを持ち上げていた頃のオタク像とも、『辣韭の皮』や『げんしけん(第一部)』等で描かれていたオタク像とも違う。なんならドラマ『電車男』に登場したオタクや『げんしけん(第二部)』の新メンバーたちとも違う。
 
だからオタク界隈で過ごしてきた人々が冒頭リンク先に違和感をおぼえること自体、とてもわかる。「そんなのはオタクじゃあない」と言われたらそのとおりだ。また、オタクという言葉は20世紀から21世紀にかけて変質し希釈されてきたから、もうオタクという言葉にたいした意味はない、という指摘もそのとおりだろう。
 
 

じゃあ、2021年に理想のオタクをやるとはどういうことか

 
そうやってしばらく、私も批判コメント読んで何か言ってやった気分になっていた。
うんうん、そういうのオタクっぽくないよね、わかるわかる、と。
 
しかしふと思った。それなら2021年に理想のオタクをやるとは一体どういう状態なのか?
2021年の環境で、たとえば10代や20代がオタクの理想とみなすありかたはどんな人・どんな姿なのかを考えた時、私は自分に何が言えるのかわからない気持ちになってきた。
 
冒頭リンク先の筆者の人は、これも批判の多かった別の記事で、以下のようなことを書いている。
 

 ところが現在、NetflixやAmazonプライム・ビデオをはじめとした定額制動画配信サービスは、月々数百円から千数百円という安価。たったそれだけの出費で何十本、その気になれば何百本もの映画、連続ドラマ、アニメのTVシリーズが観られる。従来からあるTVの地上波、BS、CSといった放送メディア、無料の動画配信サイトで観られる作品なども加えれば、映像作品の供給数はあまりにも多い。明らかに供給過多だ。
 その中から、同時多発的にいくつかの作品が話題になる。しかもそれらは、ドラマ1シリーズ全16話(『梨泰院クラス』)だの、TVアニメ2クール全26話(『鬼滅の刃』)だの、2時間の映画20数本でひとつの世界観をなしている(『アベンジャーズ』ほかマーベルの映画シリーズ)だのと、視聴するには時間がいくらあっても足りない。
 それでなくても現代では、あらゆるメディアが、ユーザーの可処分時間を取り合っており、熾烈さは激しくなる一方だ。しかも映像メディアの競合は、映像メディアだけにあらず。TwitterやインスタグラムやLINEも立派な競合相手だ。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83647

昭和時代から「おたく」をやっていた人にも、平成時代から「オタク」をやっていた人にも、今日の有り余るコンテンツの量は考えられなかった。アニメやゲームは00年代の段階でも飽和状態で、アニメオタクにせよゲームオタクにせよ、全方位・全ジャンルの作品を通覧するのは困難になっていた。でもって、2020年代はサブスクリプションサービスによって過去の作品まで視界に入ってくる。「できるだけ沢山の作品を視聴し、さまざまに比較することの好きなオタク」にとって、射程におさめなければならない作品の数があまりに多い。
 
ゲームも、オンラインゲームやソーシャルゲームはアップデートが来るから、ぼんやり遊んでいれば何年も居座って時間泥棒になる。買い切り完結型ゲームだけに絞る特異なゲームライフをおくるのでない限り、こうしたアップデートが来るゲームとどう付き合うかは難しい問題だ。見切りをつけて次々にゲームを替えることで見えてくる風景もあれば、ひとつのゲームと長く付き合いコミュニティの栄枯盛衰を見届けることで見えてくる風景もある。いずれにせよ、全部というわけにはいかない。
 
もちろん全ての作品を知らなければならない道理はない。自分の好きな作品と好きなように付き合えば良いのだとは思う。でもってそれこそがオタクの本義だと私は思う。けれども選択肢が増えた……といえば聞こえがいいが作品同士が可処分時間の奪い合いをしている状況のなかで、自分の好きな作品と好きなように付き合うのは昔より難しくなってやしないだろうか。
 
それともうひとつ、SNSなどによる共時性の問題もある。
 
これはアニメやゲームに限ったことではないけれども、いまどきのヒットコンテンツはコンテンツの造り自体から言っても、ネットでバズることを念頭に置いたうえでつくられている。作品個々についての情報もネット経由になっているご時世だから、そうしたなかでバズるバズらないを完全に無視して我が道を行くのは(昭和平成に比べて)難しい。理屈のうえでは、ネットを遮断し完全スタンドアロンなオタクライフをやれなくはないけれども、それが2020年代のオタクライフの雛型とは思えない。常時接続が当たり前で愛好家同士が繋がりあう環境のなかでオタクをやるのは、たとえば、同人誌即売会や都会のSF同好会に行かなければ同好の士に会えなかった環境のなかでオタクをやるのと違っていてしかるべきだろう。
 
これらを踏まえると、理想のオタク像も理想のオタクライフも昭和平成とは違っていてしかるべきだし、若い世代は令和の環境に最適化しているだろう。令和の環境への最適化が、昭和のおたくや平成のオタクからみてオタクと認定しやすいものかどうかはわからない。だけど少なくとも、10~20代のオタクの最適解が昭和や平成のオタクの最適解と同じだと決めてかかるのはおかしいし、おそらく間違っているだろう。
 


 
「作り手こそがオタク」という話にしても、何を作るのか・どう見せるのか・どう伝えるのか・自分のモチベーションをどう保つのかは、令和の環境に最適化されている人が有利になりやすく、作り手として伸びやすかろう。たとえば令和の環境で伸びやすい作り手の条件のひとつに、SNSでのコミュニケーションが上手い──少なくとも創作活動の足を引っ張るほど下手ではない──ことが含まれていてもおかしくはない。SNSなどによる共時性の高まりやコミュニケーションの頻度上昇に適合している作り手か、そうでない作り手かによって、オタクライフの楽しみやすさだけでなく伸びしろもかなり違うはずで、そうしたものに背を向けてスタンドアロンに徹するのは、繋がりが少なかった時代より不利で、珍奇だろう。
 
13年前、私は「オタク界隈という"ガラパゴス"にコミュニケーションが舶来しましたよ」という文章を書いたことがあった。その文章の終わりに、
 

 他の文化圏から切り離された絶海の孤島としてのオタク界隈は、かつてはコミュニケーション貧者にとっての貧民窟だったかもしれない、けれどもコミュニケーション諸能力を問われない、ある種のパラダイスでもあったんだと思うんです。ですがそれももう終わりのようです。お洒落なオタクが増えました。気の利くオタクも増えました。多趣味なオタクも増えました。……もう、オタクだからコミュニケーション貧者だとか、オタクだからコミュニケーション不要だとか、そういう話は少しづつ通用しなくなってると思うんです。時代は変化していますし、オタクも、オタク界隈も変化している。“ガラパゴス”にも、“コミュニケーション”が舶来しました。近未来のオタク界隈がどう変化していくのかを考えるうえで、この変化を無視するわけにはいかないでしょう。

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20080530/p1

と書いたが、その近未来にあたる2021年のオタクにとってここでいう"コミュニケーション"の必要性はまさに高まった。だったら作品鑑賞・作品批評・作品創作いずれのオタクであれ、ガチオタであれヌルオタであれ、理想とされるありようや佇まいは昔と違って然るべきで、たぶんだけど、昭和平成のオタクからみて「なんだかコミュニケーションに力点を置いている度合いが高くみえる」「なんだか"キョロ充"や"ミーハー"寄りにみえる」ぐらいのところに最適解があるんじゃないだろうか。
 
 

私自身の感想を述べるなら

 
2021年の理想のオタクって何? という話はここまで。以下は蛇足かもしれない。
 
冒頭リンク先を読んで私が一番気になったくだりについて、個人的に感じたことを書いてみる。
 
 

本来、趣味も好きなこともやりたいことも、自然に湧き上がってくるのを待てばいいはずだが、彼らは悠長にそれを待つことができない。なぜなら、インターネット、特にSNSからは、すでに名前や顔が売れている同世代のインフルエンサーたちによる“キラキラした個性的なふるまい”が、嫌でも目に入ってくるからだ。

学生のうちからPVを稼ぎまくるブロガー。イラストに「いいね!」がつきまくるアマチュア絵師。博識を極めた結果、崇められるガチオタ。キラキラした交友関係を誇示する学生起業家……そんな“個性的”な彼らと“無個性”な自分を比べ、焦らないはずがない。もし筆者がいま大学生だったら、きっと同じように焦るだろう。

ここに、「筆者がいま大学生だったらきっと同じように焦るだろう」と書いてあるが、本当にそうものだろうか? よその人が勝手にキラキラしているのを見て焦る人はオタクに向いていないと同時に、なんだか色々なことに向いていない気がする。さっきまで書いてきた文章と矛盾しているように読めるかもしれないが、よその人のキラキラに焦らなければならない心性を抱えているのも、それはそれで2021年のオタクとして適性が乏しい人、という気もするのだ。
 
よその人が勝手にキラキラしているのを凄いと思ったり、ほんのりリスペクトしたりするのは構わない。むしろ思春期において良いぐらいかもしれない。だけど、マイペースに自分の好きなものを追いかけていけること、自分の好きなものに外からの刺激だけでなく内からの衝動によっても巡り合えることがオタクとしてもSNS時代に流されない令和人の社会適応としても大切なことになっているよう、私には思える。もしその人がSNS上で令和風の(器用な)オタクをやっていくとしても、だ。
 
よその人がキラキラしているのを直視し過ぎて、焦って自分は何者でもないと思い込み過ぎて、他人の好きなことをコピーアンドペーストし過ぎている人だと、オタクになれないだけじゃなく、たとえばオンラインサロンの良くないところで良くない模倣をしてみたり、ツイ廃になってしまったりして、危なっかしいのではないだろうか。平成時代のトレンディドラマが流行していた頃もそういう人は危なっかしかったが、当時に比べて情報の流速が早くなり、そういう個人を探し当てて食い物にするノウハウが蓄積している今は、とりわけ危ないんじゃないかと思う。
 
他人のキラキラを見て焦らなければならない心性はどこから来るのか? それは遺伝的傾向にも生育環境にも依るだろう。学校で充実した人間関係が持てたかどうか、充実とまではいかなくても自分の好きなものを好きといえる生活を続けられたかどうか、そういったものにも左右されるだろう。
 
この文章の前半で書いたことと後半で書いていることを矛盾としてではなく、アウフヘーベンさせるとしたら、「作品もコミュニケーションも過密になった環境をフォローしつつ、それでいて自分自身の好きなものを見失ってしまわない芯を持った人がオタクとしても令和人としても重要」みたいな感じになるだろうか。「」のなかの前段の特徴と後段の特徴を矛盾させず、調和させていることも重要だ──「」の前段を意識しすぎて後段がグシャグシャになってしまう人、後段を絶対視するあまり前段がおろそかになってしまう人がとても多いからだ。
 
書いてみるとなんだか陳腐で、どこの方面でも有利になりそうな傾向に辿りついてしまった。オタクか令和人かに関係なく、これは社会適応の要石でしょう。時代の流れに乗りながら自分を見失わない人は、いつの世もつよいですね。