シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

低感情社会、皆がニコニコしていなければならない社会

 
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先週、怒鳴り声がどんどん社会のなかでストレスフルなものとみなされるようになり、他人に害をなすものとして浮かび上がってくる話をした。昭和時代には怒鳴り声、ひいては大きな声が溢れていたが、令和時代の日本社会はそうではない。令和の日本人は、自分が怒鳴られると大きなストレスを自覚するのはもちろん、ただ怒鳴り声が聞こえただけで大きなストレスを自覚する。
 
だが、振り返って考えてみると、怒鳴り声だけがストレス源として社会のなかで浮かび上がっているわけではない。およそストレス源となりそうな感情表出ならなんでも、交感神経を亢進させる感情表出ならなんでも、忌むべきストレス源とみなされ、できるだけそれをなくすよう、なくせなければ迷惑であり危害であり排除すべきもののように扱われる。
 
たとえば泣き声などもそうだ。職場では、怒鳴っている人が浮かび上がるだけでなく、泣いている人も浮かび上がる。アンガーマネジメントなどといわれるが、本当にマネジメントしなければならないのはエモーション全般である。過度の悲嘆は怒鳴り声と同様、ストレス源として浮かび上がり、忌むべきものとみなされる。たとえば職場の同僚が泣きながら仕事をしていたら、私たちはそれを許容できず、なんとかすべきだと思うだろう。けたたましい笑い声もそうかもしれない。喜怒哀楽のうち、喜楽に関しても、それが強すぎるシグナルであれば私たちはストレス源と感じ、迷惑だ、マネジメントしろと言ったりもする。
 
ってことは、皆が・いつでも穏やかなスマイルを浮かべていなければならない社会になってきているんじゃないでしょうか。
 
それができない人間は、家庭でも職場でもどこでも歓迎されないし、なんとなれば加害者か障害者とみなされる社会になってきている。そう言ってしまうと誇張かもしれないが、社会がどちらに向かっているかと考えた時、そのような方向に社会がどんどん傾いている、とは言えるように思う。
 
ついでに指摘すると、赤ん坊の泣き声も私たちの交感神経を亢進させる。進化生物学的にみて、赤ん坊の泣き声は私たちの交感神経を亢進させるようにできているし、逆に私たちは赤ん坊の泣き声を聞くと交感神経を亢進させるようにできている。怒鳴り声に限らず、ストレス源をどんどん減らすように変わってきた社会、ストレス源たる感情表出を忌み嫌うよう変わってきた社会のなかで、赤ん坊の泣き声は今も昔も変わらない。だからストレス源にだんだん不慣れ&不寛容になった私たちには、赤ん坊の泣き声はひときわ耳障りに響く。子どもの歓声もそうだ。子どもが公園で騒ぐ声など昭和時代には街じゅうに溢れていたはずだが、その時代を生き、その時代に騒いでいたはずの高齢者のなかにも、そのストレスに慣れなくなった人が珍しくない。
 

「怒鳴り声に無神経な年長者と繊細な年少者」問題について - シロクマの屑籠

「怒鳴り声、いや、泣き声や悪態などもそう」大人の怒鳴り声と子供の泣き声が同列であり、大人の怒鳴り声に不寛容な社会が子供の泣き声に「だけ」寛容になる、ということは有り得ないことを示唆してる。少子化は必然

2024/08/30 08:07
b.hatena.ne.jp
 
ちょうどこれに類するコメントをはてなブックマークでも見かけた。赤ん坊の泣き声も、子どもの歓声も、令和の日本社会の社会規範に沿って考えるなら加害者や障害者に近い。赤ん坊や子どもが免罪されているのは未成年だからでしかなく、それも、仕方なくお目こぼしをいただいているものでしかない。
 
 

どこから、いわゆる高EE家庭なのか

 
こうした問題について考えていて、ふと思い出すのが「高EE家庭」という言葉だ。
 
高EEとは、high emotion expressionのことで、感情表出の度合いが高い家庭、特に患者さんに対して強い感情表出をぶつける家庭を指しがちで、"業界"ではしばしば問題視される。実際問題、治りの良くない精神疾患の患者さんの家庭を垣間見ると、高EE家庭だったとうかがえる症例は多い。そうした症例の父母や祖父母も、精神科医の前では感情表出を今風に抑えようと努めるさまが見受けられる。しかし、精神科医の前以外では感情表出がきついことがさまざまなかたちで漏れ聞こえてくるし、感情表出を今風に抑えようとしても抑えきれていないさま、あるいは、顔面表情筋などに刻まれた痕跡などは、しばしば隠し切れないものである。
 
なお、断っておくと、幼少期から家庭内で高感情表出にさらされ続けてきた子どもが精神疾患になった症例について、「高EEだからですねー」と言うだけでは、「アダルトチルドレンだからですねー」と言ってしまうのと同じぐらい、たいしたことを言っていないと思う。高感情表出な家庭ができあがっているのは、家系的な生物学的特性のあらわれの一端かもしれないし、子ども自身の特性の甚だしさに由来する現象かもしれないし、複雑性PTSDのような捉え方で捉えるのが似合いかもしれないし、もっと精神分析が得意としている理路で考えたほうが良いかもしれない。高EE家庭という兆候は、メンタルヘルスについて考える一材料になるとしても、一材料に過ぎないし、それ単体では家庭内の諸問題をするには足りない。
 
話が逸れた。
ともかく、高EE家庭であることは、どうやらメンタルヘルスのリスクファクターで、虐待や教育虐待やDVといった問題に隣接している気配がある。実際問題、今の日本社会で理想視されている家庭像は高EE家庭から遠い。今日の社会が家庭に(そして私たち一人ひとりに)期待しているのは、家庭内のコミュニケーションに安定感があり、感情表出が過大ではなく、とりわけ親が子どもの前で泣いたり怒鳴ったりすることがなく、親子それぞれの感情表出が安定していることだ。
 
では、どこまでが高EE家庭と言え、どこからが低EE家庭と言えるのか。
 
さきほど述べたように、メンタルヘルスの領域で高EE家庭と呼ばれそうな家庭のメンバーでも、世間体を気にし、第三者の前では感情表出を今風に抑えておける人は珍しくない。それでも高EE家庭なのはプライバシーの領域では高い感情表出だからで、つまり高EE家庭とも判断されないためには、パブリックでもプライベートでも低め安定な感情表出でなければならず、いつ・誰を相手取るとしても感情表出の度合いが低め安定でなければならないわけだ。
 
過去においては、世間体を意識しなければならない場面で低い感情表出でさえあれば、それで良かった。今日では、プライバシーの領域でも低い感情表出であることが常に期待されている。これからはもっとそうだろう。
 
昭和時代の家庭や人間関係を描いたホームドラマ、コメディ、演劇などを振り返ると、人と人が強い感情表出をまじえながらメッセージを授受している場面がとても多い。メッセージの授受に際して伴っているのは感情表出だけではない。令和の日本社会では暴力とみなされる「身体性」まで伴っていることもままある。『サザエさん』の波平はしばしばカツオを怒鳴り、『ドラえもん』ののび太の両親も感情をまじえていた。
 
そうしたことから思い出されるのは、「昭和以前の家庭で許容されていた感情表出の水準も、今とはだいぶ異なっていた」ということだ。
 
もちろん昭和時代の家庭ならいくらでも感情表出して構わなかったわけではない。当時においても常軌を逸しているとみなされる家庭はあった。逆に言えば『サザエさん』や『ドラえもん』や『あばれはっちゃく』あたりに登場する程度の感情表出は、当時の許容範囲だった。だが、それらの感情表出は令和社会の期待には合致しないだろう。
 
精神科臨床をやっていると、令和社会が期待する家庭像どおりにいかない家庭、しかし昭和時代であれば高EE家庭と名指しされずに済んだかもしれない、境界的な家庭にも出くわす。そうした家庭に出くわした時、私は「古風な家庭だ」と感じるとともに、令和社会が期待するものと、その「古風な家庭」の規範やハビトゥスとのギャップを意識せずにいられなくなる。そこも、メンタルヘルス上は問題のひとつになるだろう。なぜなら社会全体の規範やハビトゥスと、ローカルな家庭内で流通し内面化してしまった規範やハビトゥスとの乖離は、神経症的葛藤の源たりえるからだ。
 
なお悪い(?)ことに、その令和社会は、そうした神経症的葛藤の渦中にある子どもにエディプスの父殺し的な反抗を許さず、反抗の兆しがあろうものなら、たちどころに逸脱や障害として秩序に回収してしまう。家庭に関連した神経症的葛藤を子どもの側が自覚したとしても、盗んだバイクで走り出すことは断じて許されないのである。
 
 

低感情表出社会の行き着く先は

 
職場や学校でアンガーマネジメントが言われるようになり、家庭内でも穏やかな感情表出が期待されてやまない令和の社会。
これは、人類史のなかでも有数の、低感情表出社会と言っても間違いないように思う。
 
では、この傾向がもっと加速したら、未来はどうなるだろう?
 
この半世紀の延長線として未来を想像すると、21世紀後半の日本人はもっと感情表出が少なくなる。どんな職場や学校も、安全で、静かで、ホワイトになり、世代再生産の場もそれにふさわしいものになる*1
 
そうなった日本社会はさぞ、静かだろう。そのかわり、その安全で、静かで、ホワイトな社会にふさわしい人間へと日本人は作り変えられなければならない。令和時代の人間が容赦なく昭和時代の人間の騒がしさやブラックさを非難するのと同様に、半世紀後の人間も令和時代の人間の騒がしさやブラックさを非難し、令和時代の感情生活全般が悪しきものとして語られることになる。
 
怒鳴り声を撲滅した社会が次に撲滅するのは、もうちょっと小さめの声だ。私語に向けられる非難の目は、現代とは比較にならないほどきつくなる。他方で喫煙室ならぬ喫談室がつくられて、ある程度以上のボリュームの会話は喫談室で行われるのが一般的となる。
 
その時代のドラマやアニメや演劇で許容される感情表出も今日よりずっと穏やかなものとなり、「令和時代の作品描写は野蛮で観るにたえない」という言説が、「私たちは着実に進歩した。だがまだ進歩が足りない」という言説とともに流通する。
 
この時代に生まれてくる子どもは乳幼児期から大きな声をあげないよう"エンハンスメント"を受けて育つから、大きな声が出せない人、泣き方や怒り方がわからない人が次第に増えてくる。ところが対人コミュニケーションの多くはスマートメディアを介した言語的・記号的なものと化しているので、同時代の人々はそれを深刻な問題とは思わない。身体的な感情表出が禁じられていく一方、(LINE等のスタンプのような)感情表出をあらわす記号が多用されるようになり、オンラインに繋がりっぱなしの同時代の人間の感情表出は、令和時代の人間の感情表出よりもAIの学習対象として適するようになり、結果、21世紀後半のAI端末はこの時代に必要十分な模擬感情表出機能を実装していると判断される。
 
半面、そのような低感情表出な社会におさまりきらない人々は精神機能に障害ありとみなされ、たとえば感情症といった呼び名に基づいて治療の対象になる。感情症 affective disorder は、20世紀以前にはうつ病や躁うつ病などをまとめて呼びならう疾患概念だったが、21世紀後半においては低感情表出社会にふさわしい感情表出ができない病態全般を指すものとされ、少なからぬ人が感情症に該当するとみなされ、精神科医による治療を受ける。ただし、この時代、精神疾患の治療と精神機能のエンハンスメントの垣根は無いも同然なので、実際にはもっと多くの人が精神科医の援助の対象となっている。
 
かくして、21世紀後半の日本社会で流通する感情表出は、令和のそれが大袈裟と思えるほど繊細なものになり、繊細たるために多大な努力が支払われると同時に、繊細の恩恵を社会全体が受け取るようになる。社会は繊細で低感情表出な人に都合の良いように、そうでない人には都合の悪いようにできあがっていく━━。
 
 
もちろんこれは極端な未来予想で、そもそも21世紀後半まで平和が持続しなければ成り立ちそうにないものだ。が、もし平和裏にこれまでどおりの趨勢が続くなら、その先にあるのは令和の人間すら高感情表出だとみなされる社会、そして感情表出に相当するものが言語表出や記号表出に置き換えられる社会だと思われる。そうなった時、未来の人々は誰も怒鳴らず、誰も泣かず、誰も大笑いせず、ただニコニコしているだけになるだろう。と同時に、誰も怒鳴ってはならず、誰も泣いてはならず、誰も大笑いしてはいけない社会が到来するということでもある。そこまでいかなくとも、2024年に比べればそういった雰囲気の未来社会が到来するはずで、本当にそんな未来でいいのか、私にはなんだかよくわからない。
 
 
 
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*1:家庭と書かず、わざわざ世代再生産の場と書くのは、半世紀後には今日の家庭像が失効している可能性があるとみているからだ