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少し前に、推しと宗教の共通性について宗教学の先生がお話している文章を読んだ。私はそれを読んである程度は納得できると同時にある程度からは納得できないものだった。ただし、くだんの先生は、私を説得するために「推しと宗教の共通性」についてしゃべっていたわけではない。それに、確かに私たちは推しに「尊さ」を見出しているから、間違ったことを述べていたって印象はなかった。
が、私も推しについては関心は持っているし、私なりに推しと宗教の異同について書いてみたくなったので、やってみることにする。
推しと宗教、共通しているところ
推しと宗教の共通点は、既にリンク先で宗教学の先生がおっしゃっていた。推しに「神聖さ」を見出しているご指摘は、巷でいう「推しが『尊い』」という言い回しとも一致しているし、推しに対してファンがある程度脳内補完したイメージを消費しているさまを福音派の話とダブらせているのはなるほどと思った。
それはそれとして、私の好きな領域に引き寄せて推しと宗教の共通点を書いてみたい:それは、どちらも自己像や自意識のほうを向いていない心のはたらきである点、それでいて心理的充足をはじめとする効果が生じる点だ。
現代人は、とかく自分というものに執着しやすい。つまり、自分がもっと立派になること、自己評価が高まること、自分自身が承認されること、等々にいつも心をくだいていて、たとえば「何者かになりたい」などと願望したりする。
それが悪いと言いたいわけではない。いわゆる承認欲求、またはコフート風にいう鏡映自己対象体験を求める気持ちは、人を頑張らせるモチベーション源となる。「みんなに認められたいと思って頑張った」「『いいね』をもらえるのが嬉しいと感じているうちに腕が磨かれた」といった人はそんなに珍しいものではないだろう。もっと狭い範囲からの承認、たとえば特定の友人に自分のゲームの腕前を認められたいとか、パートナーにちょっと良いところをみせたいといった気持ちが人を飛躍させることもある。だから承認欲求に相当する心のはたらきは、原則としてはポジティブに受け取って良いものだと思う。
しかし、人の心のはたらきは承認欲求だけから成っているわけではない。心の宛先が自己像や自意識のほうではなく、別の誰かや何かを向いていてもモチベーション源として機能する場合が往々にしてある。それが、推しや宗教が提供してくれる機能で、承認欲求と並んで語られる所属欲求がこれに相当する。
人が誰かを熱心に推している時や、熱心に信心をしている時、人は自己像や自意識を省みていない。そうした自己像や自意識を目当てとして推しや宗教をやる場合も絶無ではないが、「自己像や自意識を目当てとした道具として」推しや宗教を利用する意識は原理的ではなく、おそらくオーソドックスでもないだろう。
だから推しや宗教には、「自己像や自意識に執着してならない自分自身から、ちょっと距離を置ける」点も共通している。推しや宗教に心を向けている間は、自分自身に意識を向け過ぎてしまう状態を脱することができる。加えて、推しや宗教は、その対象が多かれ少なかれ理想化されることをとおして、ロールモデルとしてモチベーション源になる──この場合、ならうべき理想や向かうべき理想として人を引っ張ってくれる──こともある。対象が理想やロールモデルとして体験され、それが心理的充足を提供したりモチベーション源として機能するさまは、コフートのいう理想化自己対象体験にほかならないが、推しや宗教の対象は、まさにこの理想化自己対象に相当する。
自己像や自意識に執着してばかりの人にとって、この、理想化自己対象をとおしてのモチベーション獲得や心理的充足の獲得はちょっとわかりにくいものかもしれない。それだけに、自分自身にとらわれすぎずにモチベーションを獲得する新しい経路として値打ちある活動たり得るかもしれない。
ちなみに世の中には自分自身になかなか執着できず、推しや宗教ばかり追いかけてしまう人もいる。こういう人は、推しを見つけたり宗教を信奉したり、またはコミュニティやジャンルの成員の一人として活躍したりはしやすいかもしれない。反面、自分自身にこだわって頑張ることにあまり慣れていない。そういう人の場合、後述する問題もあるため、推しや宗教にばかり心理的充足やモチベーション源を見出すのでなく、承認欲求もモチベーションの経路として活用できるほうが、心のはたらきのバランスはとりやすいだろう。
推しと宗教に共通する問題点
で、さきほど書いた「推しと宗教に共通する問題点」について。
それは、「どちらも理想が高くなり過ぎてしまうとどこまでも理想が高くなって、だいたい面倒なことになってしまう」点だ。
まず推しについてだが、推しに対して求める理想が高くなると、人はしばしば推しについてあれこれうるさく言いたくなり、満足よりも不満を感じやすくなる。
たとえば推しの演技やメンションが自分が理想視していたイメージからちょっと外れていただけで口うるさく批判してみたり、こうあるべきだと主張してみたりする。他のファンにもきついことを言い始めるかもしれない。そうなったらすっかり厄介ファンである。
宗教にもこういった危険性はある。日本で有名なのはオウム真理教だろうか。宗教も、初詣にお参りするぐらいならご本尊や宗派に対して口うるさくなることは少なく、理想視する度合いも小さいが、熱心に信奉すれば信奉するほど、熱心になるだけでなく、排他的になってしまうことがあり得る。
宗教には全能性という問題もある。全能の神、全能の指導者といった理想のイメージを宗教はしばしば信徒に提供する。これは、理想が高すぎる人(それこそ、全能でなければあらゆるものは無能無意味と断を下してしまうような人)でさえ信仰できる可能性を提供しているとは言える。実際、コフートの弟子の本には、カウンセラーでは引き受けきれない理想化自己対象の役割を宗教や宗教者が引き受ける可能性にわざわざ言及してあるページもある。
なら、宗教はみんなの理想も引き受けてくれて天晴じゃないか、と思うかもしれないが、良いことばかりではない。そのような全能性を期待する信者は、しばしば全能性を気取る宗教指導者に引き寄せられて集まる。全能性を期待する信者たちが全能性を気取る宗教指導者のもとに寄り集まったら何が起こるのか? 何が起こったのか? それは周知のとおりである。
ところで、オウム真理教においては、発泡スチロールでつくられたシヴァ神が祀られていた、という報道がされていたが、これは、宗教や推しを理想化する人の心のはたらきを理解するうえで示唆的なことだと思うので少し書いてみる。
コフートは、理想を引き受けてくれ、推しなどの対象になってくれる対象のことを理想化自己対象と言ったが、彼の解説する理想化自己対象とは、発泡スチロールのシヴァ神そのものや教祖・麻原彰晃そのもの で は な い。
そうではなく、理想化自己対象とは理想視しているイメージのなかの発泡スチロールのシヴァ神や麻原彰晃なのであって、実物ではないのである。
これは推しを理想化自己対象としている時にも言えることだ。たとえば『ぼっち・ざ・ろっく!』の山田リョウを熱心に推している人にとっての理想化自己対象は、ローソンで入手したクリアファイルそのものでも、ディスプレイのなかでベースを弾いている山田リョウそのものでもない。それらすべてをとおしてできあがった理想のイメージとしての山田リョウが、理想化自己対象ということになる(この話は、冒頭リンクで語られている「リアリティを自分で作って,そこに没入していく」という話と符合している)。
これは、実在のアイドルや役者さんを推している場合にもある程度まで言えることで、生身のアイドルや役者さんと、推しの対象としてファンが受け取っているイメージには多かれ少なかれのギャップがある。たとえば、その理想のイメージと実在のアイドルや役者さんのギャップが暴露された時、理想が高すぎる人は裏切られたと感じたり憤激したりすることになる。
推しも宗教も、理想を高く持ち、その対象のイメージを理想化すればするほど「難しいファンや理想が高すぎる信者」でも推せたり信奉できたりする反面、実態から乖離した理想像を追いかけ、勝手なリアリティを現実だと思い込んでしまった挙句、カルトなことになってしまったり、いざ理想像が崩れてしまった時に深く傷ついたり憤激したりする可能性が高まったりする。
だから推しも宗教も、どちらも付き合い方が良ければ心理的充足やモチベーション源の一端として生活を潤わせる反面、それが人生のすべてであるかのようにのめりこんだり、それが全知全能の神であるかのように拝み倒したりすると、狂信に根ざしたトラブルが起こるかもしれないと心得ておかなければならない。
こうした推しや宗教の狂信可能性は、ほとんどのファンや信者にとってそんなに心配する必要のないものではある。しかし、特定の心理的・社会的状況に置かれている人はこの限りではない。狂信に至りやすい個人もいれば、狂信に至りやすい状況や社会や時代もあるだろう。たとえば推しの行き着く先がアドルフ・ヒトラーに国全体が熱狂したナチスのような境遇……といった可能性も一応ゼロではない。
推しと宗教、いちばん大きく違っていると感じるのは
もう少し、推しと宗教の異なっているところを挙げてみる。
それを一行にまとめるなら、組織性の有無、戒律の有無、葬祭機能の有無、歴史性の有無、あたりだろうか。
このうち、組織性については相違点としてあてにならないかもしれない。狩猟採集社会のクランが信奉しているアニミズムなどは、組織という点ではごく小規模だ。いっぽう推しも、背景にメディアミックスを企画している企業の働きがあるわけだから、組織性が伴っていると言えないわけではない。
次いで戒律について。
宗教には、「これをしなさい」「これはしないようにしなさい」と命じるところがあり、信者はそれを守るよう期待されている。こうした宗教の戒律の面白いところは、忠実に守らなくても影響がないわけではない点だ。たとえば信者の側は戒律を破れないわけではないが、その場合も「自分は戒律を破っている」という気持ちからは自由にはなれない。もし、その気持ちから自由になるためには、棄教しなければならない。
宗教には超自我を司る機能が備わっている、とも言い換えられるだろうか。これは、一神教の宗教に限らず、日本の大乗仏教にだってある程度までは言えることだ。神道もそうかもしれない。
対して、推しが戒律を言いつけ、超自我を司ることはどこまであるだろう?
例外がないわけではないが、推し活をしている人が推しから戒律的なものを受け取っている様子はあまりみられない。宗教の場合、熱狂的な信仰は高確率で厳格な戒律の遵守を伴うが、推しに関してはそうとも限らない。
葬祭機能の有無に関しては、言わずもがなである。
宗教は、小さなものから大きなものまで、生と死を司り葬祭を取り計らう機能がある。同様に、生誕に関連した儀式をも取り計らうだろう。関連して、宗教は世代から世代へと受け継がれ、信者とその家族が歴史を紡ぐサポート役をつとめる。してみれば、宗教には死生観を司る機能がある、と書いたほうが似合いなのかもしれない。
この、死生観を司る機能が、今のところ推しにはほとんどない。もし、推しが冠婚葬祭を司るようになったら、きっと非常に宗教っぽく見えるようになるだろう。逆に言うと、推しの対象になっているキャラクターが冠婚葬祭を司ったり、死生観を引き受けたりするようになるまでは、推しと宗教の間にはごまかしようのない一線が残ることになる。
こうして考えると、冠婚葬祭や死生観や超自我を司る機能の有無によって、推しと宗教の間にはかなり大きな相違点がある、と私なら言いたくなる。推しも宗教も人の理想を引き受け、心理的充足やモチベーション源といった心理的な機能を果たすけれども、人の生死や世代の継承といった問題にコミットするのは宗教で、推しはそうした問題にコミットしない。ここはすごく大きな相違点だと思う。
もちろんこれは相違点を強く意識した着眼であって、相似点を強く意識するなら話は変わってくるだろう。そろそろ次の原稿に取り掛からなければならないので、今日のブログはここまでにさせてもらいます。
推しについての私の既刊はこちらです→「推し」で心はみたされる?~21世紀の心理的充足のトレンド