外では優しいのに家では不機嫌な夫。「フキハラ」には声をあげて、夫婦で話し合おう。 | ハフポスト
先日、ハフィントンポストで「不機嫌な夫はフキハラである」という記事を見かけた。家族のなかの誰かが不機嫌な態度を取り、その不機嫌が家族に影響を与え続けているとしたら、それは不機嫌ハラスメントだ、だから解決・解消しましょうといった啓蒙的内容となっている。
人間は、他人の不機嫌な態度からも影響を受けずにいられないし、それに苦しんでいる人もいよう。だから不機嫌をハラスメントとみなす提言は理屈として理解はできる。なぜなら、功利主義(最大多数の幸福)や危害原理(お互いに迷惑をかけてはいけない)といった現代社会のドグマに照らすなら、不機嫌な態度で他人に悪影響を与えるのは不道徳なこと、ひいてはハラスメントと呼ぶに値するだろうからだ。
上掲記事に対して、「不機嫌をハラスメントと呼ぶのは行き過ぎだ」と反発する意見をtwitterやはてなブックマークで見かけたし、私も、感覚的には行き過ぎだと思っている。それでも、筋の通った理屈を無視することもまた難しい。昭和時代には迷惑ともハラスメントとも被害ともみなされなかった諸々が、迷惑やハラスメントや被害とみなされるようになっていったのだから、不機嫌が迷惑やハラスメントとみなされる未来は不自然とはいえない。
それから冒頭リンク先の文章には書かれていなかったけれども、不機嫌は非生産的でもある。不機嫌になった人は、注意が散漫になったり作業が荒くなったりする。不機嫌な人から影響を受ける周囲の人々の生産性や効率性も下がるだろう。不機嫌は、功利主義や危害原理といった「正しさ」の領域を犯すだけでなく、生産性や効率性といった資本主義の領域をも犯している。
ありていに言えば、令和の日本社会は、不機嫌という態度を追放したがっている。模範的な現代人は、職場でも学校でも家庭でも不機嫌な態度をとってはならないのである。
「じゃあ、不機嫌になってしまう人はどうすればいいのですか?」
不機嫌になってはならない社会が到来し、他人の前で不機嫌な態度を取ったらハラスメントとみなされる時代になったら、不機嫌になってしまう人はどうすれば良いのだろうか?
私もそうだが、動物としての人間(ホモ・サピエンス)は、機嫌が良くなることもあれば機嫌が悪くなることもある。いつでも機嫌良くしていなさいなどというのは、人間の動物としての性質に反している。小さな子どもの不機嫌が教えてくれるように、いつでもどこでも機嫌良く過ごすためには、かなりのトレーニングが必要になる。しかも、いつでも機嫌良く過ごせる素養には個人差があって、どう頑張っても不機嫌になってしまうことのある人、不機嫌になりやすい人もいるだろう。というか実際にいる。
不機嫌がハラスメントとみなされ、あってはならないものになった近未来において、それでも不機嫌になってしまう人は精神疾患とみなされるようになるのではないかと、私は疑っている。
精神疾患の歴史を振り返ると、社会の変化とともにクローズアップされた精神疾患がいろいろあることに気付く。
落ち着きのない挙動、たとえば教室に座って勉強していられない性質などは、かつては精神疾患と呼ばれていなかったが、今では発達障害のひとつであるADHDとみなされている。座学やデスクワークの増えた社会では、ADHD的性質の有無が社会適応の明暗をわける。
スピーチが必要な時にドキドキしてしまったり赤面してあがってしまったりする性質は、今では社交不安症と呼ばれ、SSRIという抗うつ薬による治療が一般的となっている。コミュニケーション能力のニーズが高まった社会では、社交不安症的性質の有無が社会適応の明暗をわける。
気分の落ち込みや作業能力の低下に関しても、そうかもしれない。20世紀の中頃まで、うつ病は、重症度の高いうつ病*1こそがうつ病とみなされていた。しかし、20世紀後半から21世紀にかけて、より重症度の低いものもうつ病として診断・治療されるようになった。いわば「うつ病が軽症の領域へと大幅に拡張された」わけだが、そうした拡張は、医療サイドからみれば早期治療の実現や新しい薬の普及といった言葉で語られることが多いが、社会サイドからみれば以前に比べて軽症のメンタルトラブルまでが精神疾患とみなされ治療されなければならなくなったということ、その周囲への影響や生産性や効率性の低下を見過ごせなくなったということでもある。
精神医学のカテゴリーでいうと、うつ病は"気分障害"や"感情病圏"の疾患のひとつだが、不機嫌もまた、気分や感情にまつわる問題だ。もし、不機嫌が社会的に見過ごせなくなり、精神疾患とみなされるようになったら、たぶん"気分障害"や"感情病圏"にカテゴライズされるだろう。
ちなみに、不機嫌のお隣さんともいえる「怒り」については、アメリカ精神医学会の診断基準(DSM-5)に、重篤気分調節症(Disruptive Mood Dysregulation Disorder)という診断病名が存在している。重篤という言葉がついているとおり、これは、慢性的で持続的な怒りやすさの程度が激しい人にしか診断されないし、少なくとも日本では、それほど頻繁に診断されてもいない。しかし今の時点で重篤なケースにしか診断されない病名が、やがて軽症の人にも診断される病名になっていくことはそう珍しくない──それこそ、うつ病もADHDもASDも、20世紀の段階では重症度の高い人しか診断されなかったことを思い出していただきたい。これから先、怒りがますます社会から締め出されていくとしたら(そうなる可能性は高い)、程度の軽い人にも適用できる診断病名に変わっていく可能性はある*2。
だとしたら、「怒り」のお隣さんである不機嫌もまた、ますます社会から締め出されていくなかで診断病名になっていく可能性は結構高いのではないだろうか。
人間は、どこまで自己改造して構わないのか
ここまで書いているうちに、ふと、2つの疑問が頭に浮かんだ。
疑問その1。
その時代・その社会に適応することが難しい特徴は、どこまで増えるのか。
前世紀から今世紀にかけて、たくさんの行動や態度、特徴が社会にそぐわなくなり、不道徳であるとみなされたり治療やケアが必要な疾患であるとみなされたりした。ハラスメントの定義の拡大や精神疾患とみなされるものの拡大は、社会のアップデートや、その社会で期待される人間像の変化に寄り添っている。
では将来、ますます社会がアップデートされ、ますます期待される人間像が変化していった時、いったいどこまで私たちは不道徳とみなされるものや治療やケアが必要とされるものを増やさなければならないのか。
功利主義や危害原理の考え方は、おおむね社会に役立つに違いない。生産性や効率性も、高いに越したことはあるまい。だけど、それらがエスカレートし続けるとしたら、その社会にふさわしい人間像を素のままでやってのけられる人間はどんどん少なくなって、やがて、あの人もこの人も不道徳であるか治療やケアの対象とみなさなければならなくなるのではないか。
その行き着く先が、たとえば全人口の40%程度が素のまま社会にいられて、残りの60%が不道徳とみなされるか、さもなくば治療やケアの対象とみなされなければならない社会だとしたら、それはもう、社会としてどこかおかしいのではないかと、私は思う。
それとも、全人口の過半数が素のままで社会にいられなくなってさえ、より正しく、より生産性や効率性の高い社会を目指さなければならないのだろうか?
疑問その2。
治療という名であれ、そうでない名目であれ、人間は、どこまで自己改造をやっていくのか。
精神医療の領域で、さまざまな特徴が治療やケアの対象になっていることは先に書いたとおりだ。ADHDや社交不安症への薬物療法は、治療として認められた自己改造で、これらをドーピング呼ばわりする人はいない。医療の世界に限らず、人間は案外、社会に適応するために小さな自己改造を行っているものである。眠くならないようにコーヒーを飲むだとか、学業成績のためにスマートドラッグを求めるだとかは、その最たるものだ。違法性や危険性に抵触しない限りにおいて、ケミカルな自己改造はさまざまに行われ、認められてきた。
言うまでもなく自己改造はメンタル以外の領域でも行われている。美容整形はもちろん、あちこちの子どもに施されている歯科矯正も、美醜の問われがちな現代社会に適応するための自己改造と言えるだろう。歯並びの良さや顔立ちの良さが社会適応を助け、より高い収入や地位を得る助けにもなる以上、美容整形や歯科矯正は現代の「正しさ」にも資本主義のロジックにも妥当している。
こちらの場合も、この流れの行き着く先がどこなのか、私は気になってしまう。
競争に勝つためや社会に適応するためなら、精神も肉体も自己改造して構わない・自己改造するのが当たり前になった社会の行き先もまた、人間が素のままではいられない社会だろう。いや、歯科矯正の現状などをみるに、すでに社会はそうなっているのかもしれない。
社会のなかで認められ、各人に期待される自己改造の程度は、その社会の「正しさ」の基準や、あるべき人間像の要求水準、テクノロジー水準などによって左右される。昨今は「正しさ」がますますアップデートされ、あるべき人間像の要求水準も高まり、テクノロジーも進歩し続けているのだから、2040年頃には自己改造の程度は今よりも高まっていると想像せずにいられない。
病気や疾患は増え続けてきた。自己改造も発展し続けてきた。社会はどんどんアップデートされ、「正しさ」もアップデートされ、期待される人間像も変わってきた。今までは、おおむねそれで良かったのだと思う。ではこれからは? これからも、おおむねそれで良かったと言い続けられるのか? 不機嫌をハラスメントの一種とみなす啓蒙的記事を読んで、いつものように、そういう不安に私は襲われた。
……そういえば、不安もまた自己改造の対象なのだった。こういう私の心配性も、より正しく、より生産的に改造されなければならないのだろう。