シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

現代社会には、イライラした人間の居場所が無いとわかった

 
 ここ一週間ほど、ずっとイライラとしていて情緒が安定していなかった。そうなってみて、改めて自分と自分を取り巻く環境への影響を考えてみたら【イライラしているおじさんやおばさんがいて構わない場所は現代社会には存在しない】ということに気づいたので書き留めておく。
 
 
 【イライラした人間は、どこへ行ってもイライラを伝染させる】
 
 イライラしている客、イライラしている職場の同僚というのは、迷惑な存在であろう。
 
 想像してみて欲しい。
 
 ショッピングモールに、家電量販店に、苛立ちを隠せない客がうろついていたら周りはどう感じるだろうか。イライラした客だな、と思うに違いない。苛立ちは伝染する。「あいつはどうして苛立ちを表に出すんだ」、と思う人も出てくるだろう。
 
 職場でも、やけにイライラしている同僚とデスクを囲むのはどんな気分だろうか。職場の空気はたちまちギスギスしてしまうだろう。「明るい職場」という言葉があるが、イライラした人間が一人混じるだけで「明るい職場」は失われる。「明るい職場」にはイライラした人間はいてはならないのだ。内心はともかく、少なくとも、言動から苛立ちがほの見えるような人間がいてはならないのだ。
 
 家庭でも同様である。
 
 イライラした父、イライラした母を、家庭という小さな器は受け止めきれるだろうか。否。
 
 苛立ちは家庭という小さな器をたちまち満たし、安らぎの場であるべき家庭は針のむしろとなる。子どもの情操教育とやらにも苛立ちはよろしくあるまい。かろうじて、子どものイライラや癇癪ならば、親がなんとか対応できることもあるが、昨今の子育て事情や子どもの抑うつの話などを聞くに、子どものイライラが家庭から溢れ出てしまうことも稀ではないように思われる。
 
 さて、冒頭で触れたとおり、私はここ一週間ほど、ここ十年来なかったほどイライラしていた。ということは、行く先々で、イライラしているおじさんであるところの私は迷惑をかけていたことになる。
 
 私は「明るい職場」に水を差す存在であったと推定される。申し訳ない。
 
 私は店舗でイライラした客だと思われる存在だったと推定される。申し訳ない。
 
 私は家庭でイライラした父親だと思われる存在だったと推定される。申し訳ない。
 
 いや、「推定される」というのは遠回しだ。イライラした存在だったのだ。申し訳ない。
 
 そういう、どこへ行っても情緒面で迷惑であっただろう我が身について反省してみた時、では、ストレスなり内因的な要因なりによってイライラしているおじさんやおばさんが居ても良い場所というのは一体どこにあるのだろう? と疑問を感じた。
 
 答えは見つからない。いまどきは、インターネットも「王様の耳はロバの耳」の洞穴の役割は果たせそうにない。付言すると、インターネットに口汚いことを吐き散らしたところで内的興奮や情緒不安定はほとんど改善しないように思われる。ただカルマが下がるのみだ。
 
 街の盛り場に出ればイライラが減るのか? わからない。ただ、イライラし続けている時の飲食や娯楽というのは、言うほど気を紛らわせるものではないし、イライラはやはり周囲の人に伝わっておそらく迷惑であろうということだ。
 
 結局、誰にも会わずに引きこもり、ただただ眠ることが正解のように思われるが、勤務に出なければならない・家族の一員でなければならないといった務めを思うと、それができる余地は少ない。せいぜい、休日にアナグマのように閉じこもるだけだ。それは家庭に不安をもたらすものではあろうけれども、イライラした人間が家庭を闊歩するよりはまだしもマシな選択だろう。
 
 イライラしたおじさんやおばさんは、どこにも居てはならないのだ。ひょっとしたら、子どもすらそうなのかもしれない。
 
 こうしたイライラのたぐいが一定期間持続すれば、いや、抑うつが一定期間持続したとしても、現代の精神医学は診断基準にもとづいて鬱病をはじめとした「気分障害」の病名をくだすだろう。私のようにせいぜい数日程度の苛立ちの連続ではそうとも限らないかもしれないが、一定期間を超えれば確実に疾患とみなされる。
 
 疾患は英語で「disorder」という。「dis-order」だから、直訳すれば「秩序の外」という意味になる。イライラや抑うつは現代社会には要らない、持続するようなら「disorder 秩序の外]だ‥‥ということは、翻ってみれば、現代社会の秩序とは、イライラの無い生活、抑うつの無い生活なのだろうと思う。
 
 誰かがイライラしていれば、「明るい職場」も「明るい家庭」も望むべくもない。健康で望ましい生活からは、イライラや抑うつは追放されるべきなのである。伴って、イライラしたおじさんやおばさん、抑うつなおじさんやおばさんも追放されるべきなのだろう。いや、治療されるべきなのだ。治療を受けて、イライラしないおじさんやおばさんにならなければならない。それがあるべき姿であり、それが現代社会の秩序にとって必要不可欠なありようだからだ。
 
 イライラし続けている自分自身を内省という名の鏡にうつしてみると、ああ、イライラしているとは「dis-order」であり、秩序とは、職場でも家庭でも居酒屋でも朗らかで楽しげで寛いだ余裕のある態度であって、そこにイライラや抑うつや怒りが入り込む余地は無いのだと痛感させられる。秩序の一員に戻るためには、イライラや抑うつをどうにかしなければならないのであって、どうにかできない限り、秩序の一員には戻れないのである。もし私がもっと長くイライラし続ければ、「明るい職場」や「くつろいだ家庭」やを壊す秩序の敵となってしまうのであり、社会的信用も社会的立場も真夏のかき氷のように溶けてなくなってしまうのだろう。わざわざ烈しい躁状態になどならなくとも、秩序の外の人間であり続ければ秩序の明かりのもとでは暮らせなくなる。それを踏まえれば、なるほど、現代社会においては、苛立ちや抑うつは早急に治療しなければならないというのはわかる話である。
 
 
 【イライラしたら迷惑な社会】
 
 本来、イライラや抑うつは人間にあってもおかしくない情緒の一種である。しかして、現代の秩序は職場でも家庭でも居酒屋でもそれを許容するようにはできていない。
 
 「明るい職場」や「くつろいだ家庭」をデフォルトの秩序とする現代社会は、一面では過ごしやすい社会である。
 
 しかし別の一面として、そのような社会でイライラしてしまったり抑うつになってしまったりしたら、どこにも居場所はないし、どこへ行ってもそれは迷惑になってしまうのである。果ては、「治療」という枠組みが適用されることさえある。
 
 職場や家庭からイライラや抑うつを追放した「明るい社会」は、いざ、イライラや抑うつに見舞われてしまった時に、どこにも居場所が無くなってしまう、包摂度の低い社会ではないか、といまの私は思ってしまった。
 
 もちろん、寛大な職場の人々や家庭の人々は、そのようなイライラや抑うつに見舞われた人を許容するのだろう。だが、いつまでもというわけにはいかないし、どうあれ社会的評価や社会的立場は真夏のかき氷のような速度で溶けてゆく。溶けきってしまう前にイライラや抑うつを回復しなければならないし、なんとなれば「治療」されなければならない。
 
 現代では、職場のメンタルヘルスだの、心のケアだのを大切なものとして、誰もが健康的な精神生活をおくれるように一大運動が展開されている。ストレスケアの一環として、マッサージだのアロマテラピーだのも盛んにおこなわれている。そうやって、誰もが躍起になって社会からイライラや抑うつを追い出して、社会はますます過ごしやすくなって、快適になって、職場にも家庭にもショッピングモールにもイライラした人間がいなくなって住みよくなるのは良いことに違いない。ああ、良いことに違いないとも。 
 
 だが、そうやってイライラも抑うつも追放された社会のなかで、イライラがとれない一人のおじさんとして数日程度を過ごしてみて思い知らされたのは、そういった健康的な社会秩序のなかに、イライラしてしまった自分自身の身の置き場などどこにもない、ということである。イライラした人間がいないことを前提に、職場も家庭もショッピングモールもできあがってしまっていたのだ。自分が秩序の側に長らくいたせいで、私はそのことを忘れてしまっていた。
 
 どこもかしこも明るくなってしまった社会には、暗いもの・ネガティブなもの・憂鬱とみなされてしまうものは、あってはならなくなってしまう。それが社会の進歩だとしたら、ああ、寿いでみせるとも。だが、その進歩から取り残されてしまった時代遅れで「不健康」なエモーションは、どうすればいいのだろうか? 推し殺し、我慢するしかないのか。そうだ。そうだとも。私のやっている仕事とは、「不健康」なエモーションを発見し、駆逐する仕事ではないか。メンタルヘルス。ああ、メンタルヘルス。メンタルヘルスは正義で、そうでないものは不正義。だとしたら。だとしたら。だとしたら。