シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

書評『眠りつづける少女たち』(の続き)

 

 
今年の6月、共同通信さんのご依頼でスザンヌ・オサリバン『眠り続ける少女たち』の書評を書くミッションに挑んだ。7~8月にかけて全国の新聞に載せていただいたのだけど、新聞書評に書ききれなかったことも色々あったので、ブログにまとめてみる。
 
 

新聞書評で強調した点

 
はじめに、新聞書評としてとりあげた点を。
 
新聞書評は本当に色々な人の目に留まる。精神疾患や精神症状の知識が無い人、偏見や嫌悪感を持っている人だって読むかもしれない。そして『眠りつづける少女たち』には小さな書評欄には到底おさめきれない、誤解や偏見を招くおそれのある難しい問題がたくさん記されている。
 
特に難しいのは、同書のなかで大きなウエイトの置かれる、機能性神経障害についての記載だ。
 
機能性神経障害(機能性神経症状症)はDSM-5にも記載されている由緒正しい精神疾患だが、ややこしい病態と難しい歴史を背負っている。なかでも『眠りつづける少女たち』に記載されているのは、それが環境因子・状況因子によって引き起こされたウエイトが大きく、かつ集団的に発生した、稀だが目立ちやすい事例が中心だ。精神科医が日常的に遭遇する機能性神経障害は、『眠りつづける少女たち』にみられるような環境因子・状況因子が誘発因子として大きな症例ではなく、どちらかといえば患者さん自身のうちに、なんらかのストレス脆弱性や自己主張の困難な問題点が見出される症例が多い。
 
精神科医が日常的に遭遇する機能性神経障害はポピュラーな精神疾患だろうか? 到底そうとは言えない。もちろん精神医療をちゃんとやっている精神科医なら「よく見かける」と答えるだろう。救急医の先生も「よく見かける」とおっしゃるかもしれない。でもうつ病に比べれば遭遇率は低い。だから機能性神経障害について読者があらかじめ知っていると期待できないので、この精神疾患を中心に『眠り続ける少女たち』を紹介しようと思ったら、疾患の紹介だけで文字数をとられてしまうのは目に見えている。
 
そこで新聞書評では、「身体は言葉以上に雄弁だ」という切り口から『眠り続ける少女たち』を紹介した。実際、同書には機能性神経障害に限らずさまざまな精神疾患において身体症状が出現すること、そしてその身体症状が文化や文脈に左右され、しばしば状況や環境を変えたり、当人の社会適応に影響したりするさまが記されている。
 
精神疾患において身体症状そのものは非常にポピュラーだ。
 
うつ病は精神疾患とみなされているが、非常に高確率に身体症状が伴っている。適応障害の患者さんでも、登校前の腹痛、出勤前の動悸や過呼吸が出現するのはよくあることだ。
 
それらの身体症状は患者さん自身を苦しめるものであると同時に、患者さんへの周囲の対応を変えたり、患者さんが適応しなければならない環境や状況を変えるものでもある。登校前の腹痛や出勤前の動悸は、身体症状であると同時に適応障害の患者さんを不適応の状況から遠ざける。周囲の人に病気だと認識させたり、休職や配置転換などの変化をうながす影響力を持っていたりもする。もちろん機能性神経障害にもそうした性質があるのだが、新聞書評では、ともかく身体症状が精神疾患と繋がりを持っていること、そして身体症状のあらわれがメッセージのような効果を発揮する点を中心にまとめた。
 
そして治療する側にせよ受ける側にせよ、現代人がメッセージとしての身体症状を"翻訳"するのはあまり上手ではない。対照的に、昔ながらのシャーマン的な治療者がしばしば"翻訳上手"であると同書は紹介している。
 
そうかもしれない。DSM-5に機能性神経障害が記載されているとはいえ、心身二元論的な価値観に基づいたいまどきの精神科医が身体症状をよく読み取り、環境や状況に即した柔軟な解決法を提示するのに長けているとは私にはあまり思えない。患者さんの側も、自分自身の身体からのメッセージを無視し続け、ときには鎮痛剤などで黙らせようとし続けた挙げ句、気がついた時には深刻な精神疾患や身体疾患になってしまっている例が絶えない。
 
 

新聞書評ではあまり書けなかった点

 
ここからが新聞書評の外側だ。
 
『眠りつづける少女たち』の面白味は決してそれだけではない。同書には、集団発生した機能性神経障害にフォーカスを絞っているならではの、議論に値することが他にも載っている。しかし新聞書評の文字数で誤解を招かずまとめるには甚だ向いていない。幾つか挙げてみよう。
 
ひとつは、機能性神経障害の歴史的経緯と偏見について。
 
機能性神経障害の呼び名はコロコロ変わり続けている。はじめはフロイトらのいうヒステリーで、これは語源が子宮から来ているとおり、女性に起こるものとみなされていた。有病率をみると確かに女性のほうが高いが、男性の症例もそこまで珍しくない。そして俗に「ヒステリック」という言葉があるように、この言葉にはジェンダーにかかわる偏見がついてまわってきた。
 
そうしたわけで、精神科医たちはこれの改名を (疾患概念の可変とあわせて) 繰り返してきた。転換性障害、転換症、変換性障害、変換症などはその例だ。そして最も新しい診断基準であるDSM-5TRに照らし合わせるなら、機能性神経障害は機能性神経症状症、となる。
 
改名をとおして、機能性神経障害への偏見は克服されてきたのだろうか?
ある面ではそうかもしれない。精神科医以外は知りようのない病名となり、当の精神科医が同疾患を呼びならう言葉に偏見が伴う、そのリスクが減ったことだけは確かだからだ。精神科医自身が同疾患を偏見フリーな専門用語で呼びならえるようになった、そのことだけでも良かったといえば良かった。
 
しかしそれだけで偏見がなくなったと言えるだろうか。ヒステリーという言葉、さらに集団ヒステリーという言葉は死んでいるとは言えないし、「ヒステリック」という語彙だって死んではいない。ヒステリーや集団ヒステリーという言葉の指し示す内容と目的が医学用語どおりの場合でも、これらの言葉の使用にはある種の先入観が宿るおそれがあり、その先入観が女性差別と結びついている点を筆者は指摘している。同書では女生徒の間で集団発生した機能性神経障害とキューバのアメリカ外交官の間で集団発生したそれの比較をとおして、この言葉、この現象にジェンダー的な先入観がいまだ宿っていることを例示している。
 
もうひとつは、機能性神経障害と個人の適応について。
 
機能性神経障害以外も含め、身体症状の発生のなかには状況や環境、文化に文脈づけられるような発生の仕方をするものがある。まただからこそ地元のシャーマンがより上手く取り扱える余地があるわけだが、だとしたら、機能性神経障害には患者個人の社会適応を助ける──もちろん、助けるといっても短期的にはプラスになっても長期的にはマイナスになってしまうようなものもあるが──障害というより適応行動としての側面がある、といった含みがこの本にはかなり載っている。
 
もちろん、身体症状が必ず患者さん個人の社会適応を助けてくれるとは筆者も書いていない。たとえば身体症状の渦中にある人は、しばしば生理的なフィードバックの輪がおかしくなってしまう。HPA系、自律神経系、自分自身の身体の変化に対する敏感さ、等々についての生理的変化が進行し過ぎて心も身体も苦しい悪循環に陥ってしまうと、その原因が機能性神経障害であれうつ病であれ、その悪循環から抜け出すのは難しくなる。たとえ機能性神経障害のはじまりが状況や環境、文化に文脈づけられるような発生の仕方だったとしても、症状が遷延すれば生理的変化の影響によるダメージが心身に蓄積することになり、ADLやQOLは低下する。
 
とはいえだ、同書には身体症状が言葉にできない事物のメッセージたり得る点、患者さんをとりまく状況に働きかける要素のひとつたり得る点もとりあげている。機能性神経障害には、当人および周囲の社会適応を助ける、または当人および周囲の社会適応に影響する、影響力がある。これは、防衛機制論を知っている人や疾病利得という言葉を知っている人にはわかることだろうし、そうでなくても診断書などをとおして病気は社会的影響をしばしば及ぼす。症状や病気は、生物学的・生理学的な現象であると同時に社会的な現象だ。その側面を同書はかなり率直に論じてもいる。
 
が、これは書評欄に300文字ほどで説明できる話ではない。ある程度の文字数を費やすことが不可避で、たとえば単なる嘘のたぐいとイコールでないことを踏まえなければならない。それは書籍には記述可能だが新聞の書評欄でやるのは難しい。
 
もうひとつだけ挙げておこう。
 
それはこの本が今日の精神疾患の診断と治療の体系に対して投げかける疑問だ。
 
機能性神経障害を地元のシャーマンがしばしば巧く取り扱うのは先に述べたとおりだが、対する西洋医学、現代精神医学はそれをうまく取り扱えていない。そうである理由はさまざまだ──心身二元論をとっていること、ローカルな地域や文化の文脈を無視したグローバルスタンダードな治療体系をつくりあげていること、等々。
 
それでも現代精神医学は疾患を定義し、その疾患の定義の影絵として正常なるもの*1が社会に析出する。いや、社会で正常なるものと期待される機能の影絵として現代精神医学の疾患が定義される、という見方も可能だが、いずれにせよ現代精神医学はグローバルスタンダードな西洋の文化とともに現代ならではの疾患概念を打ち立て、さまざまな症候の医療化*2が進んでいった。
 
筆者は世界じゅうで観測された機能性神経障害を紹介するにあたり、それぞれの文化的背景や出来事の文脈を追おうとしている。しかし、現代精神医学は筆者と同じ態度で、あるいは地元のシャーマンと同じ巧さで機能性神経障害を取り扱えるだろうか? たぶん、難しいのではないだろうか。身体症状を伴ううつ病の治療などに際してもだ。メンタルクリニックの精神科医が、DSMに基づいてうつ病を診断し、抗うつ薬を処方するのはたやすいし、その所作はグローバルスタンダードとして認められている。しかしそのうつ病が起こったこと、身体症状が出現したことについて患者さんとローカルな文脈に基づいて話し合い、未来を展望することはそれほど簡単ではなく、たくさんの患者さんの処方に追われる外来ではなお難しいだろう。ましてや、ローカルで文化的な側面まで拾い上げることは可能だろうか?
 
文化が異なれば症状の出現や症状を巡る文脈が変わる様子は、日本で精神医療に従事していてもしばしば感じる機会がある。都会の患者さんと過疎地の患者さんでは、同じ年齢・同じ精神疾患でも微妙に違っていることが多い。外国籍の患者さんになると、それがもっと甚だしくなり、治療に戸惑うことがしばしばある。たとえば東南アジア文化圏や南米文化圏の患者さんを診ていると、症状が異なるだけでなく症状の受け止め方も違っているとしばしば感じる。治療、休養、医療者のアドバイスに対する姿勢もどこか違っていることが多い。そしてたいていの日本人の患者さんと比較して、彼らは宗教やハーブや民間療法にも多くを依っている。DSMに基づいて彼らを診断し処方すること自体はたやすい。でも、そうでないところで異なっている諸々までグローバルな診断体系がカバーしているとは、なかなか思えない。
 
同書が示唆するこうした部分も、ともすれば、現代医療やグローバル精神医学の否定と捉えられてしまうかもしれない。筆者は必ずしも現代の精神医学を否定する立場ではないのだけど、そのように誤解されてしまう細い道をソロソロとわたって、わたりきっている。こうした部分も、新聞書評の短い文面におさめるのは難しいと判断した。
 
 

盛り沢山だけど人は選ぶ本

 
このほか、タイトルともなっているスウェーデンの眠りつづける少女たちの例をはじめ、各地で観測された(集団的かつローカルな)機能性神経障害を巡る諸事情・諸文脈も記されて、『眠りつづける少女たち』は盛り沢山な内容だ。精神疾患と文化、症状と社会的文脈、スティグマ、グローバルスタンダード精神医学、等々に関心のある人なら読んでみると得るものがあるだろう。
 
それゆえ、この本を読み解くには一定の知識と慎重さが必要とも思える。切り取り方次第では、この本の趣旨から離れたことを読み取ってしまうかもしれない。たとえばこの本は西洋型のグローバル精神医学の弱みを指摘しているが、それを全否定しているわけではない。身体症状が状況や環境に働きかける側面を有し、ローカルな文化によっても変わることを記しているが、それらが人間の生物学的・生理的メカニズムとは無関係な、純ー社会構築的なものであると主張しているわけでもない。この本は文化と身体と精神をまたにかけているため、一部だけを切り取って読むと誤解してしまうおそれがある。飛ばし読みは絶対避けるべきで、できれば事前にある程度の知識を身に付けておくのが望ましい。
 
『眠り続ける少女たち』は、だから難しい本だ。精神医療が「生物、心理、社会」モデルといわれる、まさにその領域をよく扱っているから難しい。精神医学はこういうことも気にしているんだよと教えてくれる貴重な本なので多くの人に読んでいただきたい一方で、まあその、人を選ぶ本だよねとも思いました。
 
 
以上です。以下の有料記事パートは、書評の外側、サブスクっている常連さん向けの個人的感想などです。
 

*1:いや、ここでは疾患に当該しないものと呼ぶべきだろうか?

*2:=医療の対象、診断や治療の対象とみなされていく現象のこと

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