シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

社会学者による「新型うつ」批判について、私が考えること(後編)

 (※このブログ記事は前編/後編からなっています。前編はこちら。)
 
 
 
 先日公開した前編では、「新型うつ」という言葉について、SYNODOSに掲載されていた井出草平さんによる「新型うつ」批判をおおむね支持する見解を述べた。
 
 ここからは、その「新型うつ」批判で語られたところの、「新型うつ」を取り囲む精神科医や精神医学に関する実情について、私が実地で見聞してきた事を補足する。そのうえで、一精神科医としてDSMやICDといった現代の診断基準を使いながら臨床上どのように行動し、また臨床外においてどのように考えるのが望ましいのか、私個人のオピニオンを述べてみる。
 
 
 

DSMやICDの内側も外側も知っておく必要がある

 
 井出さんは、この「新型うつ」を巡る問題の一端として、「時代遅れの、勉強をさぼった精神科医が「新型うつ」を語っている」といったニュアンスのことを述べている。その対照として、現代的なDSMやICDを「他の医学と同じような方法」とみなし、「この数十年で研究が飛躍的に進んでいる」とも表現している。少なくとも私にはそのように読めた。
 
 しかし、本当に「「新型うつ」を語っているのは時代遅れで勉強をさぼった精神科医ばかり」なのだろうか? そして「DSMやICDを評価軸とした現代精神医学」を他の医学とどこまで同列とみなして構わないものだろうか?
 
 「DSMやICDが新しくて良い精神医学」で「DSMやICD以外は古くて悪い精神医学」という構図は、傍目にはわかりやすい。「新型うつ」という言葉を広めた香山リカさんが、DSMやICD以後の精神医学の言葉をあまり使わず、それ以前の言葉を使うことが多いこともあって、この場合、その構図は説得力を持っているようにみえる。
 
 だが、“メディアのご意見番”としてキャリアを重ねてきた香山リカさんの精神医学の専門性やノウハウは、一般的な精神科医のそれとは違った特徴があるだろうし、ほとんどの精神科医は、DSMやICDをある程度尊重しながら、それ以外の疾患概念や精神医学的見地も学んでいるのが実態ではないだろうか。とりわけICDに関しては、障碍者手帳申請、障害年金申請、医療保護入院入院届といった公式書類を発行する際に必須になっているわけで、これを素通りして精神医療に携わるのは、ほとんど不可能に等しい。
 
 このあたりに関して、一般的な精神医療の実情とは言えないかもしれないが、ひとつの実例を示してみる。まだ私が駆け出しだった頃、DSMを叩き込んでくれて、「DSMが使いこなせない精神科医は精神科医失格」とまで言い切っていた先輩と私の会話だ。
 
 

先輩「なあ、おまえ、パチって知ってるか?」
 私「パチなんて聴いたことありませんよ。」
先輩「サイコパチーpsychopathyの略でパチだ。」
 私「あー、それならわかります。精神病質、ですね。」
先輩「そうだ、精神病質だ。で、精神病質の抑うつの薬物療法についてだが……」

 
 
 こういう会話を記憶しているのは、その先輩がDSMを必須の診断基準とみなしていたにも関わらず、耳学問レベルの話になると、DSMには記載されていないこと・DSMが普及する以前に語られていたことをたくさん教えてくれたからだ。そして、もし同じ事象をDSMで表現するとどうなるのか・DSMに当てはめる際に何が加わって、何が抜け落ちるのかといった議論もしてくれた。
 
 研修医としての私は、力動精神医学や精神分析に関心を持ちやすい環境で育ち、その後、DSMに詳しい先輩達に囲まれて臨床生活を過ごした。その結果、後者の先輩達からは「どんな症例も必ずDSMでコーディングするよう癖をつけろ!」としごかれたものである。
 
 ところが先輩達はDSMを授けるだけでなく、DSM以前の知識や概念も積極的に授けてくれたのだった。はじめのうち、私はそれを矛盾と捉えて、否定的に捉えていたが、しばらく師事するうちに捉え方が変わった。
 
 DSMは診断と研究の共通言語として非常に優れている。だが、DSMの診断体系だけですべての症例・すべての特徴を言い表せるわけではない。むしろ、昔の疾患概念のほうがピタリと当てはまる症例もあり得る。おそらく、そのDSMを最適に使いこなすためにはDSMの内側しか知らない精神科医になってはダメで、DSMの外側も知らなければならないのだ――という事を当時の私は先輩達から読み取った。この考え方は今も変わらない。
 
 国際的な操作的診断基準が重要なのは論を待たないが、そこに、精神医学のすべての表現・すべての知恵が盛り込まれているわけではない。診断基準がつくられる間に漏れてしまったアイデアは沢山あるし、反対に、あまりにも新しすぎて診断基準への記載が見送られているアイデアもある。そして最も新しいアイデアと最も古いアイデアが繋がっていることもある――双極スペクトラム概念とクレペリンの関係などは、その最たるものだ――わけで、DSMの記載内容だけでは痒い所に手が届かない事象を取り扱うべく、DSMの外にもアンテナを伸ばしておくのが、精神科医のあるべき知的探求心ではないかと私は思う。そして私の周囲を見渡す限り、DSMやICDに積極的なドクターも、嫌々ながら用いているドクターも、多かれ少なかれDSMやICDの内外両方を見つめているようにみえる。
 
 DSMを重視したアメリカの教科書『カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開 第3版』の最新版には、以下のような文言がみられる。
 

DSM-5は教科書ではなく、診断マニュアルである。原因、管理、治療論または特定の診断カテゴリーをとりまく議論の余地のある問題には言及していない。そのためには、論争や新しい観点を自由に論じられるComprehensive Textbook of Psychiatry のような教科書が必要である。
(同書P330より)

 また、DSM-5のひとつ前のバージョンのDSM-IVの緒言には、以下のような文言がみられる。
 

 DSM-IVは、臨床的、教育的、研究的状況で使用されるよう作成された精神疾患の分類である。診断カテゴリー、基準、解説の記述は診断に関する適切な臨床研修と経験を持つ人によって使用されることを想定している。重要なことは、研修を受けていない人にDSM-IVが機械的に用いられないことである。DSM-IVにとりいれられた各診断基準は指針として用いられるが、それは臨床的判断によって生かされるものであり、料理の本のように使われるためのものではない。たとえば、臨床像が診断のための基準すべてを満たすにはわずかに不足している場合、現存する症状が持続性で重症である限り、臨床的判断を活用することによって、その患者に1つの診断を与えることができる。一方、DSM-IVに不慣れであるか、またはDSM-IVの基準の極度に柔軟な片寄った使用や慣習は、情報伝達のための共通言語としての有用性を著しく減退させる。
 高橋三郎ほか監訳 DSM-IV 精神疾患の診断・統計マニュアル P23より

 
 
 これらを見知っている私としては、DSMやICDに頼った診断と治療を行うとしても、それらしか勉強しない・それらだけ勉強していれば安心だ、という態度は危険だと思う。私よりもずっとDSMに詳しい精神科医の先達でさえ、DSMの内外をしっかり勉強していたのだから、私は彼らの姿勢に倣いたい。
 
 

精神医学はそんなに目覚ましく進歩していない

 
 そしてDSMやICDは、というより精神医学は、内科学や外科学と同列には論じきれない問題点を含んでいる。
 
 統計学的に有意な研究を積み重ねているという点では「他の医学と同じような方法」と言えるし、それがアメリカ精神医学における力動精神医学の“跳梁”を軌道修正したとも言えそうだが、いまだ精神医学に決定的に足りていないのは「病巣や病変や病理の同定」である。
 
 精神医学以外では、疾患には特定の病理学的所見や病態生理学的所見が同定されている。たとえば胃癌なら胃に癌細胞が見つかるし、肺炎には肺炎球菌等が、糖尿病ならインスリンに関連した糖代謝メカニズムの病態生理が確認できる。病変・病態生理と疾患概念は、しっかりと結びついている。
 
 ところが精神医学にはこれが無い。いや、まったく無いわけではない*1が、内科系/外科系疾患の多くに比べればまだまだ乏しい。
 
 精神医学の領域で病変・病態生理が比較的検出しやすいのは、アルツハイマー型認知症の領域である。頭部CTやMRIの脳画像所見、PETやSPECTによる脳代謝評価などは、病変・病態生理を「内科的に」捉えることを可能にした。脳内アミロイド沈着やタウ蛋白のメカニズムがもう少し解明できれば、アルツハイマー型認知症は「もっと内科的な」疾患になっていくだろう。あるいは、統合失調症から“抽出された”抗NMDA受容体抗体脳炎なども「内科的」な疾患と言えそうだ。
 
 しかし、うつ病、双極性障害、統合失調症といったメジャーな精神疾患においては、この限りではない。脳画像所見も診断マーカーも基礎研究のレベルを出るか出ないかの水準であり*2、病変・病態生理と疾患概念が結びついているとは言い難い。少なくとも、一般臨床レベルではそうだと言わざるを得ない。
 
 医学全般は、科学的・病因論的臨床医学を推し進めてきたし、(辺縁的な疾患はともかく)それぞれの科の中核的な疾患は、病因の特定や解剖学的/生理学的解明を推し進めてきた。もちろん精神医学もそうした努力を積み上げてきたのだが、残念ながら、中核的な精神疾患ですらいまだに病因や病態生理の解明には至っていない。精神薬理学的な諸仮説にしても、薬効をある程度説明してくれるが病態生理と疾患を固く結びつけるほどではなく、「うつ病」「統合失調症」といった名称の本態は症候群である。そして現今のDSMやICDは、こうした点を不問に付したまま統計的検討を積み重ねるシステムとしてできあがっている。
 
 だから、井出さんの
 

 今では大量の患者が外来に訪れるわけですから、経験した症例数が少ないという状況にはありません。また、この数十年で研究が飛躍的に進んでいるのですから、うつ病の性質や予後を専門家は知っておくべきでしょう。
 昔は反応性だろうか、それとも内因性だろうかと原因を探って診断していたのですが、DSM-IIIへの診断基準の変更によって、原因は考えずに診断するようにということになったのです。
 これは、精神医学の診断方法が、他の医学と同じような方法に変更したということなのですが、やり方が変わると反発も起きました。診断基準が変更されても人材は急に変わることがありません。DSM-III以降のDSMへの批判というのは今も根強く行われています。

 この文章はちょっと大袈裟だ。DSMは大きな進歩だが、病因や病態生理を不問に付したそれらを「他の医学と同じような方法」とみなすのは言い過ぎである。そしてDSMを最も活用している精神科医のなかにも、現今のDSMシステムの問題点を認識し、批判している人が少なくないことを表現し落としているようにみえる。
 
 日頃、DSMによって助かっている部分は多々あるし、研究・統計の規格統一も画期的な進歩に違いない。しかし、診断基準から病因を取り除いて*3、診断マニュアルに徹底したということ自体、精神医学の「病巣や病変や病理の同定能力」が脆弱でしかなく、ある面において、前世紀とそれほど変わっていないことを暗に示している。この点では、精神医学を内科学や外科学と同列に扱って構わない日が来るには、もう少し時間が必要だろう。
 
 

精神疾患は社会的存在であり、精神医学もまた社会的存在である

 
 それともう一点、精神医学ならではの特徴、あるいは問題点がある。
 
 内科学や外科学は、今後も発展し続けて種々の疾患の予後を改善させていくだろうし、新しい病変・病態生理を発見するたびに疾患カテゴリを増やしてもいくだろう。だからといって、そのひとつひとつが社会における人間のあり方や、あるべき人間の姿を変えるとは、あまり考えられない*4
 
 しかし、精神医学が定めたもう精神疾患は、生物学的な概念であると同時に、社会と人間との結びつきのなかで疾患が析出する社会的な概念でもある点において、身体疾患よりもずっと社会的コンテキストとしての性質が強い。大雑把に言い換えると、「社会状況の変化によって、精神疾患の定義やカテゴリは変化する」
 
 精神疾患の発見はともかく、流行は、新しい社会状況の到来と表裏一体の関係にあった。それは第一次世界大戦と塹壕神経症のように明白なものだけでなく、20世紀のパーソナリティ障害の流行にも、21世紀の発達障害の流行にも当てはまる。
 
 文学作品や文学者自身が象徴しているように、パーソナリティ障害に相当する人物は19世紀にも存在していた。そしてパーソナリティ障害という診断名が流行する前には「精神病質」「境界例」といった診断名によって、かなり広い範囲の人々が一緒くたにまとめられていた。
 
 だが20世紀以降、ひとつはアメリカで精神分析学派が勢力を持ったことによって、なにより、新時代のライフスタイルに見合ったメンタリティとキャパシティが人々に要請されるようになったことによって、境界性パーソナリティ障害、自己愛パーソナリティ障害、回避性パーソナリティ障害、等々の、(DSMで言うところの)B群・C群パーソナリティ障害を診断する社会的ニーズが高まった。
 
 90年代の日本では、21世紀から眺めると過剰と言って良いほどパーソナリティ障害が診断されていた。既知の疾患概念だったにも関わらずAD/HDやアスペルガー障害は滅多に診断されなかったにせよ、精神病圏と診断するには軽く、神経症圏と診断するには重い一群の患者さん*5をなんらかカテゴライズし、治療を試みるニーズが90年代に高まった、とは言えるだろう。
 
 のみならず、90年代の日本は心療内科ブームの時代でもあった。うつ病や社交不安性障害やパニック障害などが大々的に診断・治療されるようになった理由の一端には、SSRIの発売と“種々の啓蒙活動”があるにしても、そのこと自体、これらの疾患が同時代的な社会的コンテキストの色彩を帯びていたことをある程度証明していると私は思う。診断したい人間・薬を売り捌きたい人間がいるだけではブームは起こらない。社会の側もまた、そうした診断と治療を要請していたからこそ、ブームは生じるのだから。
 
 20世紀の前半には、少数で重症な、まさしく精神病の人間だけが治療を受けなければならなかったところが、20世紀の後半には、より軽症の人間でも治療を受けたほうが望ましい社会状況が生じたことによって、精神科医も製薬会社も学界も挙ってそれに応えた。
 
 社会のニーズに応え、人々のQOLの向上に努めるのが精神科医の使命なのだから、そうした変化がいけないとは私は思わない*6。今日の発達障害“ブーム”にしても、90年代以前には必須ではなかったようなコミュニケーションの機敏や落ち着き払った言動が都市生活者や郊外生活者に求められるようになってしまった以上、それについていけない人を診断・治療していくのは基本的には良いことだと思う。
 
 だが、いずれの精神医学的“ブーム”も、中枢神経系の病変・病態生理の飛躍的進歩によってもたらされたわけではなく、そのような疾患概念ができあがっていたところに、社会から要請されて脚光を浴びたという側面、精神科医が対応しなければならないニーズが都市生活や郊外生活のなかで変化してきて生じてきたいう側面を、忘れてはいけないと思う。
 
 

結語:「新型うつ」はともかく、精神医学の社会的側面にはこれからも注意が必要だ

 
 「新型うつ」からスタートして遠い話になってしまった。
 
 DSMやICDにしても、そうした社会的コンテキストと精神医学が結託したなかで生まれ、アップデートされていく側面を持ち合わせているし、ベテランな精神科医はそのことを意識しつつも最良の使用法を心得ていると思う。DSMやICDはアップデートされるがゆえに、いつも最新のエビデンスとニーズを踏まえたものなろうけれども、ゆえにこそ、社会的コンテキストによって揺れ動く側面を(密かに、だが必ず)含むだろうし、永遠のバイブル足り得るものではない。
 

 DSMは単純でなければならないが、精神医学はちがう。DSMによる診断は、個々の患者の複雑で多様な面を包括的に説明する総合評価のごく一部として見るべきである。残念ながら、DSMのアプローチはあまりにも強い影響を及ぼしている――われわれがけっして意図しなかった形で、この分野を牛耳っている。ニュアンスの精神医学はチェックリストの精神医学になり、個々のちがいやそれぞれに合わせた治療を均質化してしまっている。かつてあまりにも統一がなくて混乱していた精神医学は、いまやあまりにも画一化されて単細胞になっている。教育課程は診断教育ばかりを重視し、患者のそのほかの面の理解にじゅうぶんな注意を払っていない。人々はヒポクラテスの英知を忘れている――「その人がどんな病気にかかっているかを知るより、どんな人がその病気にかかっているかを知るほうが大切だ」。両方を知るのが最善であるのは言うまでもない。DSMによる診断はどんな評価でも不可欠な地位を占めているが、何もかも教えてくれるわけではない。
 アレン・フランセス『<正常>を救え』 P64-65より

 
 DSMやICDは精神科診断学の大黒柱になっているが、上掲のように、すべてが詰まっているわけでもないし、DSMの内側だけで自己完結できるわけでもない。精神科医はDSMの外側にも関心を持ったほうが良さそうだし、精神疾患・精神医学の社会的コンテキストの側面に、醒めた意識を持っておいたほうが良いと私は思う。
 
 ここまでを踏まえたうえで、再び「新型うつ」について再び考え直すと、あれもまた、精神疾患や精神医学の社会的コンテキストとしての側面に注意しなければならない、ひとつの契機ではなかったかと思う。
 
 たぶん香山リカさんは、精神科医として、社会変化に即した新しいニーズを言葉にしようと試みたのだろう。社会変化に伴って新しく浮上してきた精神医学的イシューを掬い取るべく、DSMやICDの枠内では表現しきれない何かを彼女なりに伝えたいと思って「新型うつ」という言葉が造られたのかもしれない。その根底には、善意があったと私は信じている。
 
 しかし安易に広がった結果、「新型うつ」という言葉は新しいスティグマの源として独り歩きを始めてしまった――逆に言うと、そのようなスティグマが社会自体にあったからこそ「新型うつ」という言葉がメディアに拾い上げられ、拡散していったともいえる。このような出来事を、DSMやICDといった診断体系の大樹にもたれかかっている精神科医は、どこまで他所事とみなして構わないのだろうか。いわゆる「最新の精神医学」を朴直に追いかけていれば、それで、精神医学の社会的コンテキストとしての側面を免れ得るものだろうか。
 
 繰り返すが、私は井出さんの「新型うつ」批判そのものには肯定的だ。けれども、いわゆる「最新の精神医学」といえどもまだまだ進歩が足らず内科学や外科学と同列に論じられる段階には遠いということ、そして精神医学自身が社会的コンテキストを抱え込んでいて、社会のニーズとの相互関係のなかで揺れ動く存在であることを、思い出しておいたほうがいいんじゃないかと感じたので、この文章を付け加えた次第だ。
 
 精神科医としての私は、温故知新の精神で、新しいものにも古くから伝わっているものも興味をもって接していきたい。一方で、ブロガーとしての私は、自分が見知っている歴史的変遷のなかで、どのような概念や流行が浮上し、どのような概念や流行が廃れていくのかを、社会動向と照らし合わせながら考えていきたいと願う――精神医学の内側でも外側でも。
 

*1:神経梅毒は、数少ない例外だ

*2:かろうじて、光トポグラフィは診断補助としての意義を獲得しているが

*3:ごく一部の疾患には病因を云々することを許されたが

*4:ただし、近代医学の普及期においては、「疾患が治療し得る」ということ、「健康が発見される」ということ自体が社会変化を促す材料足り得たろうし、医療がシャーマン的なものから現代医学的なものへ変遷していく過程も、社会変化とリンクしていたとはいえる。だが、そういった劇的な変化が今後の内科学や外科学の進歩によって促されるとは私には思えない。健康を度外視して構わないほどのブレークスルーがあれば話は別だが。

*5:精神病圏・神経症圏については、たとえばこちらを参照→ http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/iyasi/1nyumon.html

*6:そうした変化をメタに考えると、それは精神医学の覇権主義ではないか、口では多様性を称賛しつつも結局は「正常」「定型発達」をかえって浮き上がらせる活動ではないか、等々を考えたくもなるが、そういう疑問を論議しはじめるときりがないので、ここではよしておく。