シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

いま、精神分析に意味があるとしたらそれは何か

 

 
同業の人が学会に集まろうとしている季節に、「いま、精神分析に意味があるとしたらそれは何か」などというお題をネットのopenな領域に投げるのは蛮勇すぎるのですが、ある集まりで「今、精神分析に意味はあるの?」という問いをいただき、持ち時間100分ぐらいで今の自分が何を思いつくのか書いてみたくなったので、えいっ! と随筆してみる。
 
なお、これは私に問いを与えてくれた人に応えるという体裁でやっていることだとエクスキューズさせてください。各方面の精神分析に造詣のある人は、ある程度これに同意してくださるかもしれないけれども、全面的に同意してくださるとは思えない。また、私がなんやかや言っても(精神医療の実地において)標準的治療と治療ガイドラインと精神行動科学的な研究をリスペクトしていることにも引っ張られている部分があると思う。そのあたりを気にしない人が読んでくれると想像しながら、以下を記す。
 
 

本題に入る前に (本題に入りたい人は読み飛ばしてください)

 
でもその前に、精神分析だの無意識だの、ひいては「こころ」だのを云々してどうすんのよ? ほかにすることはないのですか? 的なビジョンもをあえて挙げてみたい。読みたくない人は、次の見出しまで飛ばしていただいても構わない。
 

「人の心という曖昧なものに頼っているから、ネルフは先のような暴走を許すんですよ。」
『新世紀エヴァンゲリオン 第七話 人のつくりしもの』より

 
精神分析が心 psyche*1に焦点を向け、自我超自我イドをはじめ、さまざまに心をモデリングして議論するものである限り、心という直接観測できない曖昧なブラックボックスを取り扱っている、という感はどうしてもぬぐえない。
 
精神分析に意味はあるのでしょうか、という問いはあと少しの変奏で「こころを云々することに意味はあるのでしょうか」という問いに化ける。直接観測不可能なブラックボックスを云々するより、第三者にも観測可能で、エビデンスを集積できるものを取り扱い、操作や管理の対象にしたほうが科学的知見が集積しやすく、再現性のある治療技法が生み出せるんじゃないだろうか?
 
そこで、「こころ」より「行動」ですよ!
 
行動なら、第三者にも観測できるし大規模に記録することだってできる。精神分析というプロセスを介して心をうんたらかんたらするより、行動のほうがずっと観測・記録を集積させやすい。エビデンスが集まりやすい、ってわけよ。心そのものはわからないままでも、(症状も含めた)人間の行動を統計的に分析し、確率的に管理できるなら、その行動にまつわるリスクは管理できる。治療者側にとってはそれでもう十分有意味なのだ。
 
少なくともなんらかの行動上の障害や症状を管理する点では、クライアントの心をうんたらかんたらするより、行動に注目して操作や管理を試みたほうがエビデンスベースドなことができるはずだし、それは時代の要請にも適っている。
 
でもって、最近の大学精神医学教室のなかには「精神行動科学」を名乗っている教室が結構あって、私は潔いと感じている。こころという曖昧なものではなく、精神行動を研究している、という実直さが感じられて。
 
問題点がないわけではないとしても、こうした行動を科学する向きは今日の精神医学、精神医療の主流をなしているし、私はそれが妥当だと思っている。20世紀中頃、アメリカでは精神分析的精神医学が栄え、日本でも精神分析のプレゼンスは20世紀末ぐらいまでかなり大きかったけれども、効率性の面でも再現性の面でもエビデンスに基づいた精神医学、認知や行動を対象とする精神医学にとってかわられた。
 
私は精神分析には今でも意味や意義があると思っているけれども、今日日の精神医学の主流派がやっていることも好きだ。実臨床では後者のお世話になっている度合いが高い。だからどっちも大事に思っていることは断っておく。
 
 

今、精神分析を学ぶ意味1 リベラルアーツ、教養として

 
ここから本題。
勘違いがあるかもだけど、書いてみる。
 
今、精神分析を学ぶ意味のひとつに、人文科学領域の広範囲を理解する補助線になるよ、というのがある。芸術や社会科学領域を理解する補助線としてもまあまあ現役じゃないだろうか。
 
フロイトが発見・提唱・拡散した無意識という概念は、近代社会における特異点のような何かで、影響はさまざまな分野に及んだ。いろいろな分野の人がフロイトから影響を受けたし、そうでなくてもフロイトと同じ時代を生き、同じ思想の渦のなかで考えた。だから20世紀の人文科学~芸術~社会科学には、フロイトとその後継の精神分析諸派の考え方があっちこっちに登場する。そして、当時の読者に向かって書いているからか、しばしば、無意識とその構造──超自我、自我、イドといったような──をある程度は知っているという前提で記されていたりする。
 

 
千葉雅也さんが書いた、哲学入門の本としてはすごく売れている『現代思想入門』にも、フロイトやラカンの説明が登場している。というのも、ポスト構造主義(や構造主義)を理解するにあたって、フロイトやラカンとの接点が無視できないからだ。もちろん千葉雅也さんは21世紀の哲学者なので、この入門書を読むにあたってフロイトやラカンを諳んじている必要はない。けれども「入門」の書籍にもそれらが登場してざっくり説明されている程度には、ポスト構造主義や構造主義を理解する補助線として精神分析は無視できない。
 
あるいは、アドラーやマズローといった、いまどきの経営者と労働者のモチベーションにゆかりの深い人たちの書籍と向かい合う際にも、精神分析を知らないよりは知っていたほうが面白い。彼らは精神分析の正統後継者ではないかもしれないが、精神分析の分家か傍流だ。ユングも分家で、人文科学領域では思い出したように登場する。そして面白いことに、進化生物学や進化心理学の書籍にも、フロイトをはじめとする精神分析諸派の考え方がさまざまに登場したりもする。
 
こんな風に、精神分析とその言葉はかなり広い領域で流通しているので、知っておくとそのかなり広い領域の書籍の読みやすさが向上する。20世紀に書かれた書籍では特にそうだし、21世紀に書かれた書籍ですら、ときにはそうだ。精神分析はリベラルアーツだと言われていた時期があった(今でもいわれている?)が、実際、かなり広い領域の本を理解しやすくしてくれるという意味では、確かにリベラルアーツであり、教養として機能する。
 
なお、徒手空拳でいきなりフロイトやラカンを読もうとしてもしんどいだけで得るものは少ないんじゃないだろうか。私はフロイトやラカンをいきなり読むより、まず、自分が出会った書籍のなかでなるべくわかろうとしてみてみるか、自分が出会った領域の書籍の解説書や入門書に書いてあるフロイト理解なりラカン理解なりを読んでみるのがいいと思う。かくいう私もラカンは今でもあまりわからないし、インストール済みの進化生物学と戦争状態が続いている。フロイトにしても、面白い・スゲーと思うようになったのはフロイト以外がフロイトについてあれこれ言っているのを読んでから。特別に講義してくれる先生と抄読会を組むのでない限り、いきなりフロイトを最初から読もうとするのは難しいんじゃないかな、と私は思う。
 
 

今、精神分析を学ぶ意味2 DSM以前の疾患概念や精神医学史、パーソナリティ障害を理解する補助線として

 
次の項目は精神科医とその周辺が今、精神分析を学ぶ意味について。
これも自信ないけど書いてみる。
それと精神科医以外はここは飛ばしていいかも。
わかりにくいし、わかってもらおうって配慮があまりできなかった。
 
精神分析というからには、精神医学とその周辺を理解する際にも、一定程度は役に立つ。というか、知っていないと疾患概念がわかりにくかったり、カンファレンスの時に年配の先生がしゃべっていることが呪文みたいに聞こえる事態が発生するかもしれない。
 
たとえば病態水準とか原始防衛機制とか、そういった言葉には精神分析の考え方のフレーバーが宿っている。ロールシャッハテストやバウムテストといった投影法の心理テストの読み筋にもだ。
 
神経症、という疾患概念については特にそうだと言える。DSM*2の時代になり、そういった言葉は影が薄くなっているし、DSMからは神経症という言葉そのものが消えた。けれども「ストレスを被った時に、人がどのように反応するのか(または、どのように症状を呈するのか)」の原因と結果の関係を考える際や、「その人の生い立ちや生物学的要因によって、ほぼ同じストレスを被っても反応や症状が大きく違うのはなぜか」を考える際のツールとして、これらが引っ張り出されてくることはまだある。DSMが栄えているのに、なぜこれらが引っ張り出されてくるのか?
 
それはたぶん、DSMやそれに連なる現代精神医学が、「その人の生い立ちや生物学的要因によって、ほぼ同じストレスを被っても反応や症状が大きく違うのはなぜか」について神経症の完全上位互換といえる理解の道筋を提供しているわけじゃないからだと思う。DSMらは、神経症に代わる理解の道筋を提供するのでなく、理解の道筋を、放棄した。もちろん統計的傾向についてはDSMらはさまざまなことを教えてくれる。統合失調症や躁うつ病になりやすい統計的傾向とか、ほぼ同じ症状の人でも治療がうまくいきやすい人といきにくい人はどう違うのかの統計的傾向とか、そういうものはたくさん提供してくれている。だけどそれは神経症の完全上位互換ではない。目の付けどころや研究の姿勢が違っているのだ。
 
しぶとく繰り返すが、現代精神医学は良いものだ。けれども目のつけどころや研究の姿勢が違っているからこそ、神経症との互換性にかなりの問題がある。そして今でも日米の精神医学のテキストブックや学会のお題から精神分析や神経症といった言葉が消えきっていないことが暗に示しているように、時々、昔の考えや昔の疾患概念を思い出して考えたくなる場面はある。
 
あとはパーソナリティ障害か。
パーソナリティ障害は、DSM-5ではかろうじて残ったけれども臨床的にはそれほど診断されなくなっている(発達障害圏のスペクトラムや双極性障害圏のスペクトラムでしゃべったほうが今風な場合が多いと思う)。
けれども、いざ、境界性パーソナリティー障害を理解しようと思ったら、やっぱり精神分析の弟子筋であるカーンバーグは避けられない。
 
いまどきはもう、カーンバーグを一生懸命に勉強しようって精神科医は少ないのかもしれないが、それでも境界性パーソナリティー障害を学ぶこと自体がカーンバーグを追想するようなところがある。ひょっとしたら境界性パーソナリティー障害を学ぶこと自体、今後はあまり意味を持たなくなるのかもしれないし、実際、DSMと双璧をなすICD(国際疾病分類)の新版ではパーソナリティーはディメンジョナルな分類へ分解されると聞いている。けれども、そのディメンジョナルな分類じたいも境界性パーソナリティー障害から議論を継承している部分があるので、ただ運用するだけでなく、もっと詳しく知りたいと思ったらたちまち、20世紀以前の議論を思い出さなければならなくなる。
 
だから、ここでも精神分析はリベラルアーツや教養的な意味合いとして生きている。ある診断や疾患概念について議論を遡ると、しばしば精神分析的なものにひょっこり出会う。それは、精神分析がアメリカ大陸の精神医学にすごく大きな影響を及ぼしていた一時代があったからでもあり、ドイツやイギリスやフランス、ひいては日本においても精神分析が精神医学に影響を及ぼしてきたからでもある。ある診断や疾患概念について、今この瞬間だけでなく、過去から現在、そして未来へ至る流れのようなものを知る一助として、精神分析とそのプロダクツを知ることには意味があると思う。こうした場合、カーンバーグやコフート、アンナフロイト、ウィニコットやメラニー・クラインといった人々が遭遇しやすい出会いと思うけれどもいかがでしょうか。
 
 

今、精神分析を学ぶ意味3 自分自身の盲点やこだわりを知る一助になる(かもしれない)

 
ここからますます怪しくなる。
ちょっと恥ずかしいかもだけど、えい、書ききってしまおう。
 
精神分析は、クライアントのこころについて知ったり治したりするものって思われているかもしれないし、精神分析の治療者の仕事はそうなのかもしれない。ちなみに私はそうではない。精神科医だが精神分析を精神分析として患者さんに実行することはない。それは正規の教育分析を経た精神分析のひとがやることだろう。
 
とはいえ私も精神分析に関心があったし、お互いの病理を指摘しあい、防衛機制について云々する空間でキャリアの最初期を過ごす幸運を得た。ほんのさわりながら、スーパーバイズの機会まで頂戴した。そうした自分自身の見聞と先輩がたの言葉から、精神分析には、クライアントのこころをどうこうする前段階として自分自身のこころについて考えさせられる部分がきわめて大きい、と私は感じ取った。
 
もし精神分析的にクライアントとかかわる際に、治療者が自分自身のこころの性質や自分自身の盲点について自覚的でなかったら、精神分析のことばのひとつひとつは、クライアントのこころについてそのまま反映したものではなく、治療者自身のこころの性質や盲点の色彩を帯びているのに気づかないものになりはしないだろうか。だから精神分析でクライアントのこころについてあーだこーだする(または考える)前に、そのクライアントのこころについてあーだこーだしたり考えたりする自分自身の性質についてできるだけ知って、その治療者自身に由来するバイアスについてできるだけ知っておかないとまずいはずだ。
 
私が好きな精神分析の一派である、コフートの自己心理学という派では、「治療者自身に由来するバイアスを真っ白にするってちょっとあり得ない。バイアス込みでやっていくしかないよね」的で、治療者自身を真っ白漂白しろ、みたいなことは言わない。でもって、他派は治療者自身を真っ白漂白するべきって言いすぎじゃね? みたいなことも言っていた。この、治療者自身を真っ白に漂白すべきかどうかという問題はここでは於いておこう。しかし、コフートの自己心理学でもそうじゃない精神分析の諸々でも、治療者とクライアントのやりとりに際し、治療者自身の性質や盲点について知っておかなければならないし、教育分析がそれを知るための過程でもある点は共通している。
 
だから精神分析は、他人のこころをズバリ考えるためのものである前に、自分自身のこころについて考えたり、突っ込まれたり、ウヘエって思ったりするものなのだと私は思う。そして精神分析的に他人のこころについてあーだこーだと考えるとは、他人のこころと自分のこころの相互関係について(真っ白漂白か、そうでないかはさておき)考え続けることに他ならないと思う。そういう相互関係について考えなきゃいけないと直観させてくれる、力動精神医学とか精神力動論といった言葉が私は好きだ。精神分析、という言葉に比べたら世間に知られていないけれども。
 

(※うちにあるのはこれより版の古いやつ)
 
ところで、精神分析を学べば、かならず自分自身の盲点やこだわりはわかるものだろうか?
 
私は、わかることもあればわからないこともあるのが本当じゃないかと思っている。
わかるよう努めるのが精神分析の治療者のあるべき姿だし、そこまでいかなくても、精神分析が好きなら自分自身をいつも顧み、他人のこころと自分のこころの相互関係について考え続けるってものだろう。
でも、努めることとできることはイコールじゃない。
なかにはぜんぜんできない人もいるだろう。
いや、いる。
っていうか、できるできないのバラツキが大きいから、結局精神分析って廃れたんじゃなかったっけ?
 
教育分析という、時間もお金もめちゃかかる過程を潜り抜けたら全員スーパー精神分析治療者になれるなら、きっと精神分析はもっと栄えているはずだ。でも、実際はそうなっていない。なぜか。それは時間もお金もめっちゃかかる過程なのに、全員がスーパー精神分析治療者になれるわけじゃない、からではないだろうか。
 
その点、DSMは優れている。エビデンスに裏打ちされた診断体系と治療ガイドラインさえきちんと守っていれば、精神科医の卵だってエビデンスにあるとおりの治療成績を出すことができる。できる人、できない人のバラツキも最小化できる。将来的には、生身の精神科医である必要すらなくなってくるかもしれない。アメリカにおいて、DSMが精神分析から主導権を奪えたいきさつは書き始めると長くなるけれども、誰が治療者でもアウトプットが安定している点、再現性が高い点は重要なポイントのひとつだった。
 
自分自身の盲点やこだわりを知る一助になる(かもしれない)と、わざわざ書いたのは、そういうところがあるからだ。精神分析に触れて自分のことがわかるかどうか、わかるとしたらどの程度わかるのかは、人によるとしかここでは言えない。
 
 

今、精神分析を学ぶ意味4 他人のこころを推測する一助になる(かもしれない)

 
……ということはだ、精神分析をとおしてクライアントの、ひいては他人全般の行動を推測するとは、どの程度できると言えるものだろうか?
 
精神分析なんて知らない人にも、他人のこころが読める・丸見えだと思わずにいられない場面はある。
 
たとえば自分自身のコンプレックスをモチベーションとして、異様にがんばっちゃっている人が、周囲の人からは「あの人は、自分のコンプレックスがモチベーションになってあんなに躍起になっている」と読み取られることは、よくあることだ。でもって、当人はそのことに無自覚で、そうだと指摘されても躍起になって否定することもよくあることだ。当人にとって完全な盲点になっているような防衛機制は、だいたい他人にはおそろしいほど丸見えである。
 
でも、そういう極端な場合を除けば、精神分析をよく学んだからといって他人のこころが読める・他人のモチベーションの源が読める、ものだろうか。あるいは、たまたま他人のこころがわかった・読めたと思ったそれが精神分析を学んだおかげだと言い切れるものだろうか。
 
そういうこともあるかもしれない。だけど慎み深く考える場合、「自分は精神分析をマスターしたから他人のこころがわかるようになった」とはなかなか言えまい。まあそもそも精神分析がクライアントに提供するのは、きっとそういうことじゃないのだと思う。こころのwikipediaを読み上げ、「うん、わかった」「理解した」と言って終わらせるようなものではないはずなのだ。
 
……精神分析を学ぶ意味について書いていたはずが、他人のこころを推測するって段になったら私はちょっとしり込みしている。
それは私が不勉強を恥じているからかもしれないし、他人のこころをわかる、という表現や状況を安易に使ってはいけないと感じているからかもしれない。
 
だからここまでを読んで「なあんだ、精神分析を学んだって一流のメンタリストになれそうにないな」なんて思った人もいるかもしれない。そうかもしれない。けれどもここまでこうして書いてきたのは、私のなかに精神分析に触れる機会があって本当に良かったという思いと、それでも精神分析を学ぶこと・知ることには意義があるという思いを捨てきれないからだったはずなのだ。
 
長い文章になってしまった。
長い文章であること、それ自体は精神分析を学ぶ意味の大きさを必ずしも示さない。
ただ、この長い文章をとおして、私は自分自身が精神分析をとおして何を得たのか、それとどんな姿勢を獲得したのかを振り返ったような気がした。
「今、精神分析に意味はあるの?」という問いをはじめに与えてくれた人への直接回答になっていないけれども、私個人の精神分析観をこのように振り返った。
 

*1:精神分析における精神、とも訳されるけれども、ハインツ・コフートの自己心理学ではpsycheに心と宛て字してあるのでここではそれに倣う

*2:アメリカ精神医学医学会の診断のマニュアル。統計的なエビデンスが圧倒的で、精神疾患の診断と治療を統計的にまとめあげ、分類した大部のものだ。このDSMの大きなマニュアルじたいが読み物として優れていて、ときどき読むと勉強になるし精神科医はしばしば面白いとも思うはずだ。なお、ここでいう大きなマニュアルとは、ポケットサイズのあいつのことではない。殴って人が殺せそうな青色の分厚いやつのことだ。精神分析とはだいぶ遠いけれども、あれは、いいものだ。