東京新聞の記者が日本精神科病院協会(日精協)の会長にインタビューした記事が掲載されていた。
www.tokyo-np.co.jp
この記事は、精神科病院での身体拘束を問題視し、その必要性を述べている日精協会長の発言まで問題視するもののようにみえる……が、あまり迫力ある主張になっていなかった。
これは、精神保健指定医である私が見てそう感じただけでない。個人の自由を尊重する価値観の多いはてなブックマークのユーザーの反応も、そのようなものだった。
[B! 医療] 身体拘束「なぜ心が痛むの?」「地域で見守る?あんた、できんの?」精神科病院協会・山崎学会長に直撃したら…:東京新聞 TOKYO Web
この、はてなブックマーク上の反応をみる限り、多くの人は事態がそれほど単純ではないことを見抜いている様子だった。
身体拘束をはじめとする行動制限については論点がたくさんあり、全てを論じようとすれば一冊の書籍になってしまう。そこまでやるのは無理なので、無料記事では論点のひとつを紹介し、有料記事では他のいくつかの論点に言及してみる。
どんな患者さんが身体拘束の対象になっているのか
インタビューのなかで日精協会長は「この20年間で身体拘束が増えたというが、どういう疾患で増えたのか」という疑問を投げかけているがそれを記者はスルーしている。しかし現場に肉薄するためにも、行動制限の対象がどんな疾患の患者さん(以下、患者と略記します)なのかは、確かめてみたいところだ。
精神科病院における行動制限の現状について、私はパーフェクトな資料をサッと出すことはできない。しかし、かなり参考になりそうな資料は見つかる。
奈良県立医科大学精神医療センターにおける隔離・身体拘束の実態調査
上掲は、奈良県立医科大学精神医療センターからの論文だ。
ここは、日本の精神医療の最前線にある精神科病院のひとつ、とみて差し支えないだろう。本気で興味のある人には通読を勧めたい。この論文からは、身体拘束や行動制限について考える材料が無数に見つかる。身体拘束の対象となっている精神疾患の分類も、この調査には掲載されている。
それによれば、身体拘束の対象となっている患者の疾病分類は、ICD-10分類でF0圏、つまり認知症の患者が最多だった。そのF0圏の患者は、それ以外の疾病分類の患者に比べて身体拘束の期間が長引く傾向にあり、のみならず、身体拘束の対象となっているF0圏の患者は、身体拘束の対象となっていないF0圏の患者と比較して重症度が高かった。
同じ行動制限といっても身体を拘束しない「隔離」と比較してみよう。「隔離」は旧来と同じく、統合失調症圏の割合が高い。厚労省『患者調査』においてF0圏の患者数が(増加しているとはいっても)そこまで多くないことまであわせて考えると、認知症圏における身体拘束の割合は際立っている、と言わざるを得ない。
データと私個人の観測範囲を見比べてみる
このデータを踏まえたうえで、精神科病院の実地において身体拘束はどうなっているのか、特に認知症圏において身体拘束がどうなっているのかを、私なりに述べてみたい。
精神科病院の実地で行われていること、問題視されていることは、おおむねこの論文のデータと一致している。少なくとも私の観測範囲とくだんの論文は矛盾していない。精神科病院で身体拘束は増えている。だが、その増加の相当な割合を占めるのは高齢者の認知症疾患だ。そして、そのような認知症疾患の患者の身体と安全を守るうえで身体拘束がやむをえず必要とされる場面は少なくない。
精神科病院において身体拘束が必要とされるのは、身体や生命の安全がそうしなければ守らないほどの状況だ。精神科病院では珍しくないとはいえ、割合でいえば全体のなかの少数、たいへん重篤な状況だといえる。
たとえば双極性障害や統合失調症で身体拘束が必要となるのは、とんでもなく重症度の高い躁状態や幻覚妄想状態や精神運動興奮状態のために身体の安全が守れないほどである場合、点滴などを用いたin-out管理を行わなければ脱水や栄養失調などで死んでしまうような場合、重大な身体合併症を呈している場合などが連想される。重症度の高い摂食障害もここには含まれるだろう。希死念慮という言葉が軽々しく思えるほどの自殺関連行動がみられるために身体拘束が必要なケースもある。
そうした、昔から見かけることの多かった身体拘束に関しては、その切迫した事態が改善すれば身体拘束は終わる。
対して、F0圏、すなわち認知症圏の患者で身体拘束を必要とするのは、そこまで極端な精神症状を呈しているわけではないことが多い。それでも認知症圏の患者は全体的にADLが低く、自分自身の安全がおぼつかない。そうしたところに、認知症の周辺症状(BPSD)や意識障害(せん妄も含む)を合併していることもある。認知症圏の患者はえてして高齢で、身体機能が全体的に低下している。わずかなふらつきで転倒し、転倒すれば骨折する。慢性硬膜下血腫も怖い。異食行為が発生し、そこから誤嚥性肺炎などの重大な身体疾患につながることもある。
身体拘束は患者自身はもちろん、医療者側にもかなりの負担がかかるものだから*1、できれば避けたい。だから、高齢者が転倒し放題・骨折し放題・異食し放題・合併症起こし放題で構わないなら、自由を優先させるという意味でも精神科病院の採算性からいってもなるべく減らしたいと言える。しかし、患者の身体や生命を守るのが病院の役割だから、そんな放置主義が許されるとも思えない。日精協会長は、法律を守って自分たちは身体拘束を行っていると述べているが、実際、身体拘束をはじめとする行動制限にかんする条項が精神保健福祉法に存在するのは、患者の身体や生命を守るためにそうした措置が必要な状況が存在することを踏まえている。これらを承知したうえで、医療サイドは行動制限を減らすよう努めなければならないし、まともな精神科病院なら、そのための努力をやっているはずである。
それでも、認知症疾患の精神科病院への入院依頼は次第に増えている。そりゃそうだろう。高齢化により認知症疾患はうなぎのぼりだ。そうしたなか、家族が介護しきれない・施設では対応できない、そうした診療相談が精神科病院には流れ込んでくる。わざわざ精神科病院に入院依頼をしてくる以上、介護の簡単なケースではあり得ない。認知症の周辺症状であるBPSDやせん妄、意識障害、身体合併症などを伴っていることが大半だ。家庭によって虐待が行われている場合や患者によって家族が命の危険にさらされている場合、行政から「早急な入院を」と念押しされている場合も多い。
そうした、簡単ではない認知症、なかでも特に介護が困難になってしまった症例が、患者として精神科病院に紹介されてくる。外来での薬物療法だけで改善に向かうケースもあるが、もちろん入院になるケースも多い。そしてその何パーセントかが身体拘束を余儀なくされる。一連の、ディフェンスコントロール的な決定の背景にあるキーワードは、「患者の身体や生命を守る」である。患者の身体や生命を守る、その切迫性の度合いによって、外来か入院か、入院したとしてどの程度の行動制限が必要なのかが決まってくる。
決定は恣意的なものではないし、そうあってはならない。身体や生命を守る必要性に応じ、また、精神保健福祉法を遵守する範囲において、行動制限、ひいては身体拘束の決定が行われる。手続きは法に基づいたかたちで・患者の身体や生命を守る観点から行われなければならない。
心が痛むか、痛まないかと問われたら、そりゃ痛む、と答えるほかない。では、心を痛めて、じくじくと心が血を流していればいいのだろうか? 違うだろう。この場合、患者の身体や生命を守ることが肝心だ。それと法に基づいて決定が行われること。そうした事々を踏まえたうえで、身体拘束の事例数を減らし、日数をも減らす努力が行われなければならないと私は思う。
逆に、患者の身体や生命を守るうえで身体拘束がどうしても必要と考えられる場合、精神保健指定医はその提言ができなければならないとも思う。
ときにはご家族の意向が身体拘束を「招く」こともあるかもしれない。入院中に何かにぶつかる・転ぶ、そうしたリスクは減らすことはできてもゼロにはできない。そうしたリスクをめぐる話し合いの結果、ご家族が、通例よりも身体拘束にウエイトを置いた治療を望まれる場合がある。
より厳密に転倒を防ぐ・より厳密に骨折を防ぐ、と考えていった結果、通例よりも身体拘束寄りの治療指針が生まれることはあり得る。いくら骨折を防げるからといって、身体拘束のような自由のきかない状態が長く続けていれば長い目でみれば生命予後はたぶん悪くなる。だから私たちは通例よりも身体拘束寄りの治療指針を嫌う。しかし、たとえば遠方の親族が「絶対に転倒させてはならない」「絶対に骨折させてはならない」と強く主張し、治療指針をそのような主張にふさわしいものにしたいと強く要求するなら、結果として通例よりも身体拘束寄りの治療指針が発生することがあり得る。
[関連]:精神科の身体拘束【追記あり】
いったんまとめ
……無料部分はサクッと終わらせるつもりが、早くも、論点がひとつでなくなってしまった。
この文章で私が一番伝えたいことは、「身体拘束の増大の背景のひとつとして、増え続ける認知症疾患、それに伴って身体拘束を伴った治療を必要とする認知症疾患が増えている」ということだった。
もちろん、それだけが原因とは思えない。もっと大きな要因として私は「患者の身体や生命を守る」という医療のセントラルドグマを思わずにいられない。患者の身体や生命を守ろうと思うほど、身体拘束や隔離といった、行動制限の必要性は高まる。マンパワーが無限にあれば、身体拘束なしにBPSDやせん妄を伴った重症の認知症患者をも診ることはできるかもしれない。しかしそんなマンパワーが、ひいては予算があるかといったら存在しない。ない袖は振れない。
そうしたなか、「精神科病院で身体拘束が実施される」とは、本当は行儀のよい部類だとさえいえる。精神科病院において精神保健指定医の指示のもと行われる身体拘束は遵法的だし、身体合併症防止のためのノウハウがまだしもあるからだ。わけのわからない介護施設で同じことが行われたら、あるいは自宅に座敷牢をもうけたら、そうはいかない。
精神科病院での身体拘束に問題意識を持つこと・問題提起すること、そのものは必要だと私は思う。くだんの東京新聞の記事も、そのために書かれたのだろう。しかし、身体拘束の必要な患者は増えている。少なくとも今日の「患者の身体や生命を守る」観点からみて、身体拘束を必要とする高齢の認知症患者は間違いなく増えていて、どこの精神科病院でも、そうした患者が身体拘束の大きな割合を占めていることを懸念している。元来、精神科病院はそういった高齢の認知症患者とその身体拘束に慣れてきたとはいえず、およそ特化しているとはいいがたいからだ*2。
長くなってしまったので、この無料パートは一記事として独立させることとする。
この文章では、精神科病院で増加している身体拘束について、データおよび個人的経験をとおして認知症圏の身体拘束ニーズが増えている現状を紹介した。この文章を書くなかで私は、高齢化が進行し、認知症が増大し、その認知症のなかでも重症度が高い患者の身体や生命を守らなければならない限りにおいて、身体拘束のニーズは今後も高まるだろう、と思わざるを得なかった。身体拘束を行わなければ守れない身体や生命があり、その治療なりメンテナンスなりが期待されている以上、身体拘束はなくならないのではないだろうか?
もちろん、これだけが身体拘束にまつわる問題ではない。諸外国はそんなに素晴らしいのか? そもそも、ここでいう「患者の身体や生命を守る」とは一体何なのか? そして東京新聞に登場した「地域で見守る」とは何で、それは日本で可能なのか?
論点は尽きない。残りの論点については有料記事で触れてみる。ただし、あくまで触れてみるだけだ。こんな大問題を私一人が全部・整然とまとめられるとは到底思えないし、現在進行形で考え中なこともあるからだ。
※後編は有料記事で、ブレインストーミング的です。こちらになります:娑婆ウォッチ「身体拘束、パターナリズム、日本社会」 - シロクマの屑籠