シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

誰もが表現者になれる時代はとっくに終わってるんだよ

 
今回の内容は、以前にも誰かが書いていたかもしれない。でもこれから私が書くことを一字一句違わず書いた人はいないはずだから、誰かに届くかもと期待しながら記してみる。
 
インターネットの普及期と現在を比較して、違っているところを挙げるとしたら何が挙がるだろう? アングラ感の強弱。インターネットの多数派がどんな人なのか。コミュニケーションの主な手段がウェブサイトかブログかSNSか動画か。挙げれば色々ある。
 
今日、まとめたいのは「誰もが表現者になれる時代の終わり」についてだ。
 
インターネットではさまざまな新しいネットサービスが流行っては廃れを繰り返してきた。そして共通点がある。どのサービスでも、流行期には「誰もが表現者になれる」という夢が薄らぼんやりと漂い、それに釣られて集まってくる人々がいた。
 
90年代から00年代のはじめはウェブサイトの時代だった。この頃インターネットをはじめたアーリーアダプターたちはこぞってウェブサイト、日本風に言い直せば「ホームページ」を立ち上げた。特別な才能のある人・知識を披歴したい研究者だけが「ホームページ」を立ち上げたのではない。そうしたものが無い人でも、自分のホームページが世界に開かれ、誰にでも読まれるかもしれないという気持ちでホームページを立ち上げた。「このホームページは日本語だけです」などとトップページにことわりを入れたホームページの、なんと多かったことか。冷静に考えれば、ありふれた個人ホームページに英語圏の読み手がわざわざ訪問することなど無いはずなのに、そういう浮かれ具合になれる雰囲気がウェブサイトの時代にはあった。
 
00年代中頃からはブログの時代。この頃、インターネットをはじめたアーリーマジョリティたちはこぞってブログを書いた。ブログはウェブサイトより取扱いやすく、誰でも書くことができた。そして表現者になれるような気がした。アメブロでもFC2ブログでもはてなダイアリーでも、有名人やアルファブロガーと肩を並べられるかもしれない……という夢をみることができた。アルファブロガー・アワードなども、そうした夢をかきたてるイベントのひとつだっただろう。
 
特にはてなダイアリー(現・はてなブログ)では、そうしたアルファブロガー希望者、ブログワナビーとでもいうべき人が繋がりあったりオフ会をしあったりしていた。実際、そうしたブロガーのなかから著述業に転身していった者もいた。はてなダイアリー界隈で「単著もないのに」が煽り文句のひとつとなったのも、ブログが表現者の登龍門として一定の期待を持たれていたからにほかならない。
 
10年代からはなんといってもSNSの時代、中途からはインスタグラムや動画配信の時代だ。上手いSNSの表現は、上手いブログの表現・上手いウェブサイトの表現と重なっている部分もあれば重なっていない部分もある。ともあれ、アルファブロガーに代わってアルファツイッタラーが、いや、インフルエンサーが目指すべき表現者になった。実際、この時代にフォロワー数を稼ぎに稼ぎ、ひとかどの表現者になった人もたくさんいる。
 
冷静に振り返ってみれば、どの時代にも表現者になりきれる人はわずかで、その他大勢は表現者たり得なかった、というのが本当のところだろう。もちろん純然たる日記としてブログを書いていた人もいたし、SNSを情報収集や身内のやりとりに専ら使っていた人もいたから、表現者なれる雰囲気に全員が感化されていたわけではないが。
 
しかしどの時代にも表現者になれるという蜃気楼のような願いがあり、どのネットメディアにも表現者ワナビーとでもいうべき人たちが存在していた。積極的に表現者ワナビーにならなくても、「自分にもワンチャンあるかも」という薄らぼんやりとした霧のなかでネットライフを過ごせる雰囲気があった。
 
 

「自分にもワンチャンあるかも」って今、思えますかね?

 
で、だ。
今、そのように思いやすいネットメディアはどこにあるだろうか。過去のウェブサイト、ブログ、SNS、インスタ、Youtubeに相当する夢見るネットメディアはどこにあるだろう?
 
私のみた限りでは、そういうインターネットの場は今、見当たらない。表現者になれそうなショートカット、表現のブルーオーシャンはオープンなインターネットの領域には見当たらない。小説家になろうやカクヨムなども含め、どこもレッドオーシャンだ。真っ赤っ赤になった海に表現者志望者が溢れている。そのさまは、夏の週末の江の島のようだ。
 
もちろん、表現者になろうと頑張っている人は今でも各方面にいる。特に若い人はどのネットメディアでも表現と功徳を毎日のように積み重ねているだろう。ここで強調したいのは、表現者になろうとしている人がいるかいないかではない。誰もが表現者になれそうな夢見心地が成立可能かどうか、表現者ワナビーとして「自分にもワンチャンあるかも」とぬるく思い込めるような雰囲気が残っているか残っていないかだ。それでいえば、今日のブログも、SNSも、インスタも、小説家になろうも、「自分にもワンチャンあるかも」とぬるく思い込めるような雰囲気は残っていないんじゃないだろうか?
 
なぜ、残っていないかといえば、どこのネットメディアにもブルーオーシャンみが無く、既に競争者や先行者がひしめき、フォロワー争奪戦が進行した後だからだ。成熟したネットメディアには影響力の不平等、先行者利益がすでに存在している。そしてネットメディアが、いやインターネット全体がすっかり成熟し、皆がすでに複数のネットメディアを使っていて新しい誰かのために可処分時間を割くことに慎重(または億劫)にもなっているため、新たにフォロワー数を稼ぐことが昔ほど簡単ではなくなっている。
 
適当こいていてもフォロワー数が稼げた時代は、とっくに終わっているのだ。
今、フォロワー数を稼ぎ影響力を獲得するためには、適当であってはならない。
各ネットメディアですでに頭角を現している人々と真正面から対決し、凌駕しなければならない。面白さであれ、表現力であれ、情報価値であれ、センスであれだ。そこには、誰でもワナビーになれるようなぬるさは存在しない。
 
夢は、いまなおインターネットに存在するだろう。しかし夢は正真正銘のものでなければ見れないものになった。あるいは一途なもの・ブレないものでなければならないというか。薄らぼんやりと「自分にもワンチャンあるかも」と思えるような、ぬるいワナビーにとってちょうど良い湯加減の夢は、今のはてなブログやtwitter(X)や動画配信にはもう無いんじゃないだろうか。
 
誰もが表現者になれる時代が来た試しは無いけれども、誰もが表現者になれると思い込みやすい時代は確かにあった。新しいネットメディアが開闢し、そこがブルーオーシャンと呼び得た時代には特にそうだ。しかしインターネットが成熟し、人の手垢にまみれるようになって長い歳月が経ったから、今は青い海はどこにもない。そういえば青い鳥もいなくなってしまった。twitterがついに崩壊し、複数のtwitter的なものに分裂した果てに、SNSの後継者とでも呼べるものが登場すればそこはブルーオーシャンかもしれない。あるいはメタバースが。しかしそれらの新しい場にしても、イノベーターが試しに使ってみる程度の水準ではワナビーの夢を担えるほどには至らない。アーリーアダプターが定着しアーリーマジョリティがこれから雪崩を打って入って来るような、そういう雰囲気ができあがってくればぬるい夢が蘇るのかもしれないが。
 
ここまで書いてみて、ああ、ちょっとだけタイトル詐欺だったかな、と思った。正確を期するなら「誰もが表現者になれると思い込める時代はとっくに終わってるんだよ」とすべきだったろう。いや、些事か、そんなのは。本当は、誰もが表現者になれる時代なんて来たためしがなかった。ホームページを開設してもブログを書いてもSNSに毎日20回投稿しても表現者になれるわけがなかった。あったのは、誰もが表現者になれるような雰囲気、「自分にもワンチャンあるかも」と思えて表現者ワナビーがぞろぞろ集まってくるような雰囲気だった。今、そういう雰囲気はどこで期待すればいいのか?
 
「それはあんたの観測範囲の問題だ」、と当然指摘は入るだろう。とはいえ大局的にみれば、既存のインターネットはどこも赤い海で、どこも人間がごった返していて、ぬるい夢をみせてくれる場所なんて残っていなんじゃないかと私は悲観する。
 
 
以下は、クローズドなインターネット等について。課金するほどでもないと思うので、サブスクしている人だけどうぞ。
 

この続きはcodocで購入