ネットのみなさん、本当にたくさん文章をお書きになりますね。
SNSやLINEはいつも大盛況で、ブログも新しい書き手がたえません。「小説家になろう」みたいな場所や動画配信なども含め、大勢の人が表現に時間を費やしています。
みなさん、そんなに「書きたい」んですか?
そこまで頑張ってアウトプットして、友達や見ず知らずの人のリアクションを得たいのでしょうか?
いつでもどこでもフリック入力に熱をあげ、信じがたい数の人々が文章や動画のアウトプットに入れ込んでいるのを眺めていると、なにか、正気の沙汰ではないような気がするんですよ。なにかを書きたくてたまらない人が存在するのはわかるし、10人に1人ぐらいいたって不思議じゃありませんよ?でも今の世の中はそうじゃなくて、誰も彼もがPCやスマホを使って「書いて」いるんです。SNSやLINEに矢継ぎ早にポストしている人、ブログやfacebookによそ向けのテキストを綴っている人、どちらもありふれた存在です。
現代人はそういう風景に慣れっこになっているふしがあります。でも、ちょっと振り返ればわかるとおり、こんな風景ができあがったのはたかだか数年前なんですよ?たとえば10年前の2005年の頃、ネットに文章を「書いて」いる人はこんなにいましたっけ?いませんでしたよね?ごく一部のネット好きと、メールで人間関係中毒みたくなっている少数の若者だけが、オンライン空間に大量の文章を吐き出していたわけです。
「書きたい」気持ちが重要だった頃のインターネット
私は、みんながオンラインに書きまくっているいまの風景を、ミレニアムの頃のそれと対比させたくなります。
まだブログすら普及していなかった頃のインターネットは、どうみても文章を書きたがっている人・書かずにはいられない人が主流派でした。純粋な表現欲によるのか、承認欲求目当てだったのかはさておき、とにかく「書きたい」明確なモチベーションをみんな持っていたし、持っていなければ長続きしませんでした。
なにせ、当時のインターネットは面倒くさかったのです。ボタンひとつでアカウント登録できるわけでもなく、いつでもどこでも書き込めるわけでもなく、htmlを理解し、日用品とは言い難かったパソコンを使いこなさなければなりませんでした。趣味や研究をアウトプットするのみならず、掲示板に書き込んだりチャットをしたりするだけでも敷居が高かったわけです。
他方、現在では当たり前になっているモチベーションの源は希少でした。いまどきのブログはアフィリエイト収入のような経済的利益が当たり前になっていますし、プロブロガーなる人種も生まれています。でも、昔はネットユーザーが経済的利益を得るための手段が整備されておらず、お金をモチベーションとして文章を書き綴る人は稀でした。また、「小説家になろう」や「pixiv」のような登竜門が整備されていたわけでもないため、ウェブ上の創作活動を商業作家デビューと結びつけて考えるのも困難でした。
承認欲求についてもそうです。現在のインターネットでは、facebookの「いいね!」をはじめ、【褒める/褒められる】【評価する/される】がとてもイージーです。書いた文章やコンテンツを眺めてくれる人の絶対数も増え、昔のウェブサイトにありがちだった、「感想メールが一年に数回も来れば上等」とは隔世の感があります。インターネットの心理学的報酬の流通量は、経済的報酬の流通量に勝るとも劣らないほど増加していると私は感じています。
つまり経済的にも心理的にも、あの頃のインターネットは行動とモチベーションの水路づけが曖昧だった、ということです。個々のネットサービスが「ほらほら、ここでこんな満足が得られますよ、こんな可能性がありますよ」と教唆してくれるわけでもなく、良く言えば自由に、悪く言えばデタラメに皆が書きたいことを書いていました。しかし、手取り足取りネットサービスが誘導してくれるわけでもなかったからこそ、それぞれの書き手において「書きたいことを書く」というプリミティブな動機が問われていたとも言えます。
あの頃のインターネットの風景は、書きたがりな人々によってつくられていたと言って差し支え無いでしょう。
みんなが「書かされる」時代がやってきた!
ところが時代が経つにつれて、この「書く」という行動を後押ししてくれるようなモチベーションの源が増大し、アウトプットを手助けしてくれるハードやソフトも充実していきました。
ほとんどのネットユーザーには無縁だったアフィリエイト収入は手近なものになり、野心的なブロガーはgoogleアドセンスを導入するようになりました。ニコニコ生放送のような領域では、銀行口座をネットに公開して寄付を募る活動もみられます。
くわえて、「いいね!」ボタンなどの普及によって、ネット上で承認欲求をやりとりする行為が簡便になりました。「小説家になろう」や「pixiv」なども、そうした承認欲求に基づいたモチベーションと商業作家的なモチベーションの両方のツボを押さえて、ユーザーが「書く」ための動機を刺激してやみません。
いやはや、インターネットは便利で簡単になりましたよ。でも、ここまで便利で簡単になった結果として、もう、自分が書きたいから書いているのか、ネットサービスにモチベーションのツボを刺激されて書かされているのか、わけがわからない時代になってきたとも思うんですよ。
ブログを書けばお金が儲かる・SNSに書き込めば承認欲求が充たせる・何某のネットサービスを利用すれば作家になれる……そういった欲求は、もともと自分自身にあったものでしょうか?それともネットサービスを眺めているうちに誘惑されて、そのネットサービス提供者のシナリオ通りに書かされているものでしょうか?そういう事が、今日のインターネットではとてもわかりにくい。
FacebookやLINEにしてもそうです。頻繁に写真を公開し、なにやら格好のつきそうなレストランに「いいね!」をつけ、大急ぎでトークをやりとりするのは、本当に、あなたがやりたかった事だったのでしょうか?何かに流され、誰かに促され、いつの間にか、やりたいと錯覚している部分はないものでしょうか?
現在はたくさんの人がブログを書き、ウェブ小説を書き、若い人達は四六時中SNSやLINEに張り付いています。ですが、比較的最近まで「書く」などという酔狂にとりつかれる人が少なかったことを思うにつけても、かなりの人が「書く」行為に駆り立てられ、その作法行儀もモチベーションも、ネットサービス側のコントロールにおおむね従っているように私にはみえるのです。あなたは一体誰のために無料サービスを利用し、書いて書いて書きまくってるのでしょうか?
しっかりしてないと、ネットサービスの操り人形になっちゃいますよ?
もちろん、こうした欲求の“ハッキング”商売は今にはじまったわけではなく、かつては雑誌やテレビが一手に引き受けていたものです。人々の欲望をハックしコントロールする力があったからこそ、雑誌やテレビは強い力を持っていた(持っている)のであり、そのお鉢がようやくネットサービスにも回ってきた、と言い直すこともできます。
そういう意味でも、インターネットは既存のマスメディアに近い機能を獲得した、と言えるでしょう――欲求をデザインしコントロールする少数と、欲求を誘導される大多数から成り立っているという意味において、インターネットは正しく大衆化しました。メディアとして成熟した、と言うべきでしょうか。
現在のネットサービス設計者は、だから面白い仕事だと思いますよ。マスの欲求を設計し、マスの欲求を誘導するということは、とりもなおさず、世の中をつくること・時代をかたちづくることに他なりません。ネットサービスの業界人は、これまでのギョーカイ人にかなり近いか、あるいはそれ以上に、たくさんの人間を魅了し操作する現代の魔術師となったわけです。
ネットユーザーの視点で捉えなおすと、インターネットはそうしたサービス提供者のコントロールを免れにくくなったわけで、これは手放しで喜べるものではありません。昨今のインターネットはパーソナライゼーション*1機能をはじめ、ユーザーのモチベーションを効率的に誘導し、あれこれ欲しがらせる仕組みに事欠きません。簡単にできること・無料でできること・手近に触れられるものの裏側には、サービス提供者の作為が透けてみえます。
その際、「何かを買わされる」可能性だけを問題視にするべき時期はとっくに過ぎていて、「何かを書かされる」「コミュニケーションをさせられる」といった、行為の次元にも注意を払っておくべきでしょう。少なくとも、今日のブログサービスやSNSサービスにそうした意図が含まれているのは明白です。何も考えず、何も節制せずにネットサービスを利用する人は、そうしたネットサービス設計者の意図にたやすく呑まれてしまいます。
だからといって、私はネットサービスを利用するなと言いたいわけではありません。便利なサービスが存在する以上、使うべき時には使えばいいと思います。ただ、ネットサービスの背後には常に欲求をマニピュレートする意図が見え隠れしていて、ともすれば欲求を焚き付けられ、行動をハックされているかもしれない点は、折に触れて振り返ったほうが良いと思うのです。
もっと手短に言うと、「おのれの欲求の輪郭はちゃんと把握しろ」ということです。本当に自分がやりたい事をしっかり把握している人なら、ネットサービスに流されてしまう危険も少ないでしょう。昔もそうでしたが、自分というものをキチンと把握しているか否かが肝心と思います。
*1:注:ユーザーの閲覧履歴や購入履歴にあわせて広告をカスタマイズする仕組み。Amazonや楽天などでおなじみ