シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

忘れる・忘れられることを承知のうえでゲームと向き合うこと

 
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ゲームの個人史って、ものすごく儚いと思いませんか?
 
その点でいえば、ゲームの個人史でなくゲーム史をものしたいと願った人の気持ちは理解できる。と同時に、ゲーム史として・サブカルチャーの「正史」として後世に語り継がれていくものが個人の印象に歪曲されてしまうことは罪深いことだろうとも想像できる。
 
が、「正史」としてゲームの歴史家が編纂する範囲はあまり広くなく、その外側には無数のゲーム個人史が残り、あまたのエピソードが取り残される。アニメ個人史やライトノベル個人史、コミックマーケット個人史もそうかもしれない。体験した者の数だけ風景が存在したはずだが、それらのうち、「正史」に編纂されるのはごく一部だ。「正史」に残らない部分についてはなまじっかな努力では忘却に逆らうことができない。それが虚しく思えることが最近の私にはよくある。
 
 

私のゲームシーンもあなたのゲームシーンも、時の風化を免れない

 
先日、同時代にゲームやアニメを観てきた愛好家たちと昔話をする機会があった。そのなかで私は「最近、ゲームを追いかけて、体験して、それで後に何が残るんだろうって思うんだ」と心境を吐露した。どんなに忘れたくないと思っていても、そうした体験は過去になっていき、遠くになっていき、あまり思い出せなくなっていく。世間の人々が思い出してくれるとも思えないし、誰かが記録に残したところで、10年も残ってくれないだろう。だとしたら、四十代、五十代になってもなお、それらと向き合い続けるとは一体なんなんだ、忘却の壺に余暇の時間を投げ込んでいるようなものではないかと。
 
愛好家の知人たちは私よりも割り切っている様子だった。それは諦めている、と。ソーシャルゲームの今は忘れられていく。『ゼルダの伝説ティアーズオブザキングダム』の今も、『艦隊これくしょん』が脚光を浴びていた一時代も、『バーチャファイター2』がゲーセンで大人気だった頃もそうだ。大まかな出来事については「正史」が拾ってくれ、後世に語り継いでいくのだろう。しかし「正史」を編纂する者はどこまでを「正史」として残していくだろうか? またそのとき過去のコンテンツはアーカイブとして残されるだろうか?
 
難しいんじゃないかと思う。
たとえば未来において『ウマ娘プリティーダービー』を遊ぶことはできない。それだけでなく思い出すことも難しくなる。あの頃こんな風に盛り上がっていたよねとか、こんな風に不平を言っていたよねと思い出せる人はだんだん少なくなっていく。ゲーム人生が10年か20年ぐらいの人はあまり意識しないかもしれないが、ゲーム人生が30年40年となっていくと、忘れられていく、ということが小さくない問題として鎌首をもたげてくる。たとえばメガドライブが現役だった頃のこと、セガの大型筐体ゲームがゲーセンでグリグリ動いていた頃のことを思い出せる人はだんだん少なくなってくるし、そういう話を共有できる者も少しずつだが少なくなっていく。それだけではない。過去について、嘘・大袈裟・知ったかぶりな話をする人もチラホラ現れるようになってくる。
 
自分の記憶のバリエーションもだんだん減っていく。案外、エピソード記憶のひとつひとつは鮮明だったりするが、思い出せるエピソード記憶のバリエーションがだんだん少なくなってくるのだ。たとえばファミコン時代の記憶は私にはそれなり残っているが、それでも20年前に比べれば随分と思い出せなくなってしまった。
 
そうやって過去のゲームはどんどん遠くに行ってしまう。そして昔のゲームをもう一度遊べる可能性は低く、たぶんレトロゲームたちをリプレイする機会は二度と来ないのだ。ゲームに限らずだけど、サブカルチャーには現在や未来はあっても、過去はない。いつか、古典といわれるゲーム作品が現れるなら、ちょうど夏目漱石の小説やヴェートーベンの交響曲がそうであるようにずっと楽しめ、ずっと忘れられない作品になるのかもしれないが、たぶん今はその時ではない。
 
私はたぶんバカげたことを書いている。
忘れられていく、そんなの当たり前のことじゃないか、と。
昭和時代の歌謡曲もテレビドラマも、それらを思い出せる人はどんどん少なくなり、それらを語る人や愛着する人も少なくなってきた。現役でいられなくなった作品は消えていく。いや、私たち自身だってそうだ。忘れられることは、愛着しないことの理由にはなりっこない。それを理由にしてしまったら、この世のあらゆることが愛着するには値しないだろう。わかっている。頭ではわかっているのだけど。
 
それでも一体なんなんだという思いも、捨てきれない。
前を向いてゲームと向き合っている時、今という時間にリリースされたゲームと向き合っている時、忘却のことはあまり気にならない。が、いざ過去を振り返り、5年前に最新だったはずのゲーム、10年前にシーンを形成していたはずのゲームが早くも時の風化作用に晒され、遺構になりつつあるのを見る時に飲むワインはひときわ苦い。そして時の風化作用を受けるのはゲームやゲームシーンだけでなく、プレイヤーとしての自分自身、追憶者としての自分自身もそうだ。風化作用にさらされているから生きている意味が無いなどとは、私は言わない。生きるとは、風化作用にさらされていくことと同義だからだ。それでも、忘れ難かったはずの一瞬一瞬がこうも形骸化し、記憶からもインターネットアーカイブからもどんどんなくなっていくのは悲しいことに違いないはずなのだ。
 
この悲しさに対抗するべく、ある時期、私はゲームについて個人的なプレイのアーカイブを作ろうと努めたことがあった。でもやめた。そうした個人のアーカイブを作ったところで、ドメインが死ねば一巻の終わりであることを、昨今のインターネットは教えてくれているからだ。個人がゲーム個人史のアーカイブを残そうと努力して、いったいどこまでのことができるのか、今は疑問に感じている。本当に・どうしても残したいなら、メッセージを御影石に刻印したうえで大洋底に沈めるしかないのではないだろうか*1
 
いやいや、ばかげているな。読み返してみて思うに、今日は本当にばかげたことを書いてしまった。
これは、ゲームが忘れられていくことが問題なのではなく、忘れられることを悲しく思い過ぎている(今の)私自身が問題なのだろう。ほとんどのゲームファンは、自分が今プレイしているゲームが10年後にどのぐらい忘れられるものかを一切気にせずに遊んでいるし、それが健全な姿勢だろう。ところが今の私は忘れられていくこと・忘れていくことに憂鬱になりすぎていて、不健全だ。案外、こういうのも更年期的な心象変化なのかもしれない。最新のゲーム・最新の漫画・最新のアニメと向き合っていてそれぞれに感心しているはずなのに、最近の空模様のように気持ちが晴れない。
 
 

*1:御影石にメッセージを刻んだ石板をハワイ沖の大洋底に沈めておけば、数千万年にわたってアーカイブを残すことができる。人類が滅んでもなお、メッセージは健在だろう