シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

40代になってからも限界はみえない。それでもできることは減っている。

 
2023年度のGWも終わって、何というでないけれどもくたびれている。このままギアを落とさず5月をやっていくのかーと思うと気分が晴れない。五月病など、あってはならないことだ。
 
仕事と原稿と家庭に忙殺される日々を振り返って、思う。ああ、すごくできることが増えたけれども、すごくできることが減ったなぁ、と。以下に書くことがすべての中年に当てはまるとは、私も思っちゃいない。けれども私のようなパターンにはまる中年もいるはずだし、そういう人には刺さるかなと思って、四十代後半になった一人の人間の成長と限界について書き置きしておく。
 

「中年の成長の限界」の予想と現実

 
私は昔から成長の限界について考えるくせがあって、もう20代の頃から自分の限界はどこなのか、もし限界が来るとしたらどう身を処すべきか意識してきた。不安だったのだろう。というか今でもまあまあ不安だ。
 
そうして20~30代の頃に想像していた「中年の限界」とは、第一に能力的な限界だった。認知機能の低下、動体視力の低下、バイタリティの低下などをとおして成長の限界を迎える中年。そうした想像に傾きがちだったのは、私がコンピュータゲームという、身体機能の衰えを感じやすいジャンルに身を置いていたからだと思う。
 
ところが実際に30~40代になってみると自分の成長が止まらないことに気付いた。
 


 
このRootportさんの所感は、30代後半~40代前半にかけての私の印象とほとんど違わない。真っ先にダメになると思っていたゲームの腕前も、思っていた以上に経験でカバーできることがわかった。もちろん、『スプラトゥーン3』を若さに任せてゴリ押ししていくような、中学生ライクなプレイスタイルは無理なのだけど。
 
いっぽう書籍を読むこと・書くことについては間違いなく成長があった。私は短時間に本を読み過ぎると頭がぱんぱんになってしまうし、物語にハマると感銘や感動にいちいち足止めされて、なかなか先が読めなくなってしまう。だから私は読書家には向いていないと自認していた。
 
それでも40代になってから、以前よりずっと読めるようになったし、そうなれたのは過去に読んだ本たちが読書をアシストしてくれるおかげだ。たぶん、読書については私はまだ成長途上で伸びしろがある。そのおかげで私の文章づくりの総合力もたぶんまだ伸びているっぽくて、全盛期はまだ先じゃないかと今は予想している。
 
本業のほうも、20~30代の頃に比べて診断と治療、コミュニケーションについて精度・集中力・メリハリが向上したように思う。だからといってままならないのが精神医療ではあるけれど、私は精神医療に興味関心が尽きないままこの年齢を迎えることができた。学会で聴く話が色あせてしまうこともない。
 
こうした色々を踏まえると、私は10年前より間違いなく成長している。もし、タイムマシンで2013年の私に「2023年のおれはこんなことをやっているぞ」と知らせたら、10年前の私は驚くだろう。
 
そのかわり、まったく違う方向から限界がやってこようとしている。
それは時間だ。
 
さまざまなことができるようになり、さまざまなことをやるようになり、さまざまなことを引き受けられるようになったのは良かった。そのかわり、自由に使える時間、自由に遊んだりふざけたりのんびりしたり考えたりする時間は目減りしている。その目減りが未来の成長に影を落とすかもしれない。それを心配するようになった。
 
たとえばこのブログの更新頻度や、twitter等に書き込む頻度が、昔よりペースダウンしている。書いてみたいこと・しゃべってみたいことはたくさんあるのだけど、時間がそれを許してくれない。うすらぼんやりとインターネットを回遊する時間は20代の頃は膨大で、30代の頃もそこそこあったが、40代になるとそんな暇はなくなり、40代の後半にさしかかった今は全く見ない日すら増えた。「twitterなんて、放っておいてもいくらでも書ける」と思っていたけれど、twitterも、そこに入り浸っていないと案外書けなくなるものだと知った。
 
そうして優先順位の低い活動や娯楽が、とりわけ時間不足にさらされている。あまり期待していないアニメを観る時間や、比較的どうでもいいゲームをプレイしてみる時間も少なくなってしまった。効率ばかり優先させていては、趣味生活は痩せてしまうものだ。が、これをどうにかする術は思いつかない。
 
でもって優先順位の高いことをいろいろ頑張っているわけだが、一日は24時間しかなく自分の体力にも限度があり、慢性的な時間不足が解決するめどは立たない。それらが年々ひどくなり、色々と手放してもまだ時間が足りないのが今の私だ。やがて起こるライフイベント等まで考えるに、私はきっともっと多くを手放さなければならず、もっと少ない時間しか手許に残らないだろう。
 
中年の限界は確かにあった。私の場合、それが能力的な衰退に先立つかたちで時間不足によって起こりつつある。とにかく時間が足りない。それは日一日という意味でもそうだし、人生の残り時間という意味でもそうだ。50歳になるまであと何年、60歳になるまであと何年と考えた時、惑っている暇はない。惑っている暇がないからこそ、時間にあそびがない。
 
 

何が限界のボトルネックになるのかは人それぞれだろうけど

 
こうして私は私の限界にぶちあたっている。
時間という限界に。
ああ、今日という日もこうして暮れゆこうとしている。
人生の残り時間もそんなにあるわけじゃない。
 
何が限界を定めるボトルネックになるのか、それが何歳の頃に現れてくるのかは人それぞれだろう。けれども限界のない人間はいない。なぜなら人間は生物学的にも社会的にも加齢し、一日は24時間しかなく、寿命の限界があるからだ。その寿命も、健康管理やソーシャルな管理をおろそかにしていれば簡単に短くなるだろう。放置していても健康でいられる時期は過ぎた。健康は限界にダイレクトにかかわってくる要素なので、健康の奴隷にはなりたくないが、さりとて健康を無視して中年がやっていけるとも思えない。命を大切にしつつ、命を燃え上がらせて生きたい。