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先日、狂人を名乗っている小山さんが、「論破王」ひろゆきさんとtwitterで「議論」になった一部始終をnoteにまとめてらっしゃった。その内容は、ひろゆきさん自身に焦点を当てるよりも、ひろゆきさんのファン層に焦点を当てた内容だった。
小山さんは驚きをもって語る。「日本語は読めないけれど論破したい」という欲望が存在する、と。ひろゆきさんのファンからの声には、論争内容を理解したコメントがぜんぜんなくて、まったく論争内容を理解していないコメントが無限に飛んでくる、と。
自分はインターネットに20年以上どっぷり浸かり、不毛なネット論争を何十何百と繰り返してきたわけなのですが、ここまでファン層の知的レベルが低いのは確実にひろゆきさんが初めてだと思います。というか、おそらくは「論争」という知的(?)遊戯を嗜まない層にまでひろゆきさんの影響力は波及している。論争の当事者になることで、それがはじめて実感を伴って理解できました。
ここから、ひろゆきさんが「論破したい欲求を満たすコンテンツ」や「知性を誇示する欲求を満たすアイコン」になっていることを小山さんは以下のように述べる。
ただ、「知的な存在になって知性を誇示したい」という欲望を満たす娯楽は、現代に至るまでほぼ存在しなかったんですよね。知性というのは自己変革を伴うので映画やゲームのように仮想体験することが難しい。しかし「ひろゆき」というコンテンツは、おそらくその欲望を満たしてくれる。
— 小山(凍) (@iikagenni_siro_) 2023年5月5日
自分は大まじめに「いま日本で最も支持されてる思想家はひろゆき」だと思っていますが、彼が持つ「知的ゲームを仮想体験させる技術」については、もっとみんなちゃんと真剣に直視しないとアカンと思う。https://t.co/ELopuQO1PF
— 小山(凍) (@iikagenni_siro_) 2023年5月5日
「ひろゆきが日本で最も支持される思想家」といってバカバカしいと思う人もいるかもしれない。が、私も、真剣に直視したほうがいいやつだと思う。
ひろゆきさんが掬い取っているものは何か? ひろゆきさんが感化し、ある種の風向きを作っているものは何か? これらは考察に値することだと思う。対策が必要だとみなす人も、いるかもしれない。
こうしたことはひろゆきさんのファン層だけでみられる現象でもあるまい。たとえばはてなブックマーク等を見ていても、タイトルしか読めていないユーザーはごまんとみられる。いや、それどころかタイトルすら読めていないユーザーも見かける。
もちろん、はてなブックマークユーザーのリテラシー (読み書き能力) が特別に低いと言いたいわけではない。同じようなユーザーはtwitterにも動画コメント欄にも数多みられるものだ。そういうユーザーの過去ログを読み進めていくと、特定の思想信条に関してだけ文章読解ができない人もいれば、まんべんなく文章読解ができない人もいる。そして、小山さんの指摘を裏付けるように、インターネット上のカリスマに感化され、その走狗となり果てているケースも珍しくない。
タイトルしか読まない/タイトルすら読まない読者の「声」は聞こえるか
古き良きインターネットの時代には、しばしば「ネットには人々の本当の言葉がある」などと言われたものである。たとえば匿名掲示板にしか書かれないホンネがある、といった具合に。真偽はともかく、ネットユーザーの少なくない割合がそう思い込めた時代があったのは確かだと思う。
では、今でも「ネットには人々の本当の言葉がある」のだろうか? もう少しかしこまった表現を許していただくとして、そこに、「大衆の声」や「民草の声」はあると言えるのだろうか。
吉本隆明の「大衆」概念じゃないが、知識人を否定し大衆や民衆の持つ知恵を信じようというのは、必然性のある思想的態度だったと思うが、2ちゃんねるやらQアノンやら陰謀論の時代を経てなおそのままの思想でいられるとしたら、それは不誠実だろうと思う
— 藤田直哉@『ゲームが教える世界の論点』『新海誠論』 (@naoya_fujita) 2023年5月5日
これに関連して、藤田直哉さんはなんだか難しいことを問うている。が、この難しいことはさておくとしても、タイトルしか読まない人/タイトルすら読めない人が誰かのファン層となって言葉を発していく今のネット空間において、その言葉は誰のものだろうか。たとえば、ひろゆきさんは「大衆の声」の代弁者と言っていいのだろうか?
私には、それが疑わしく感じられる。
ひろゆきさんをはじめ、今のネット空間には沢山のカリスマや雄弁家がひしめいている。そうした状況下で「自分の頭で考え、自分の意見を主張する」とはとても難しいことではないかと思う。読み書きについてよく訓練している人でさえ、誰かの主張に呑まれてしまい、呑まれてしまっているのに自分の頭で考えていると思い込んでしまうことはありがちだ。
今、カリスマの声や雄弁家の声と、自分自身の声とを峻別するのはとても難しくなっていないだろうか?
ネットが到来する以前、たとえば「新聞の時代」や「テレビの時代」においても、カリスマの声や雄弁家の声は大きく、自己主張は難しかったに違いない。そもそもメディアにツテのある人でない限り、自分の声を誰かに届けることが難しかった。新聞やテレビの向こう側にいるカリスマにゴーストダビングされ、その劣化コピーになってしまう人も多かっただろう。しかしメディアの特質として、新聞やテレビの向こう側は遠かった。SNSや動画配信の生き届いた今と比較すると、カリスマや雄弁家が遠くに感じられる時代だった。
いっぽう今は、自己主張が簡単になると同時に、カリスマの声や雄弁家の声が非常に近く感じられる時代だ。アメリカの大統領やイーロンマスクの声までもが、とても近しい存在と感じられ、布団のなかにまで入ってくる時代。ひろゆきさんも、そのような近しいカリスマとして認識される一人なのだろう。
カリスマや雄弁家が耳元でささやいてくるようになった時代、とも言えるかもしれない。その時代に、私たちの手許にはスマホがありSNSがある。そのスマホやSNSをとおして誰でも自己主張できる……ということにもなっている。
しかしカリスマや雄弁家との距離が近くなったせいで、そのツイートをリツイートしたりいいねしたりしているうちに彼らの劣化コピーになるのはより容易く、より回避困難になっていないだろうか。カリスマや雄弁家の発言を劣化させたような言葉でも、自分でタイプしている限りにおいては自分の意見のように思えるものだ。そしてひろゆきさんをはじめ、優れたカリスマや雄弁家は、そのように他人に思い込ませるのが抜群に美味い。インターネット、とりわけSNSのようなメディアは心の間合いが狭いから、優れたカリスマや雄弁家に耳元で囁かれるうちにコロリと感化されてしまう。*1
今日のインターネットでは、政治領域にしろ他の領域にしろ大勢のカリスマや雄弁家がひしめき合い、影響力を行使しあっている。SNSなどは、人々の声を代弁するという体裁のもと、ゴーストダビングを行っていく影響力の草刈り場である。そうしたなか、それぞれのカリスマや雄弁家のファンや支持者の声を大衆の声と同一視していいとは思えない。
カリスマや雄弁家のゴーストダビングとなってしまった人々の声は、あくまでカリスマや雄弁家の声でしかないのではないか?
だとしたらだ、タイトルしか読めない人やタイトルすら読めない人たち、その人々の声の多くも、カリスマや雄弁家の声でしかないのではないかと私は疑う。というよりリテラシーが低い人々こそ、カリスマや雄弁家の声に対して抵抗力がなく、たやすく感化されてしまう人々の最たるものだ。そうした人々はカリスマや雄弁家の声を模倣してみせるかもしれないし、自己流に解釈してSNSに書きこもうとするかもしれない。が、リテラシーが乏しいからこそ、カリスマや雄弁家の拡声器として体よく利用されやすい。
今日のインターネット環境において、だから「大衆の声」を聴くのはとても難しくなっている、とみたほうがいいのだと思う。ひろゆきさんのファン層をはじめ、大勢の人々がカリスマや雄弁家の声によく似た書き込みをしている。が、それは大衆の声そのものというより、大衆の口を借りたカリスマや雄弁家の声でしかないと解釈すべきではないだろうか。それが言い過ぎだとするなら、「大衆の声は、カリスマや雄弁家の影響下に置かれている」と言い直すべきだろうか。
かつて、大衆の声とか大衆の知恵として期待されたものは、メディアに毒されていないところにある、そのような声や知恵ではなかっただろうか。だとしたら、そのような声や知恵が今日のインターネットに存在可能とは思えない。今日のインターネット環境では、大衆と言っていい人々はたちまちカリスマや雄弁家の影響下に入ってしまい、彼等のメッセージを模倣する拡声器にされてしまいやすい。
結局彼等はサバルタンのままでしかない
インターネットが完全に普及し、誰でも情報発信ができる時代が到来したとは、よく言われることだった。実際、シェアや「いいね」機能をとおして、何も書けない人でもインターネット上のオピニオンやメンションに vote できる時代になったという点では、確かに情報発信は万人に開かれた、のだろう。
他方、あまりにもインターネットが普及し、そこにアメリカ大統領やらイーロンマスクやらひろゆきさんやらがひしめいている状況となった結果、インターネットは影響力争奪戦の戦場となり、カリスマや雄弁家の草刈り場になり果ててもいる。カリスマや雄弁家が間近に感じられる今の環境のなかで、彼等の劣化コピーとならないこと、誰かの意見ではなく自分自身の意見を持つことは、本当は難しいはずである。だとしたら。
だとしたら、ネットのカリスマや雄弁家に出会ったことで何かを言えるようになったと感じている人は、結局、もの言えぬ人々のままなのではないか。彼等が何かを言っているつもりでいて、実はカリスマや雄弁家のスピーカーになり果ててしまっているとしたら、結局彼ら自身は物言わぬ人々のままでしかない。なまじ、カリスマや雄弁家が間近に感じられるものだから、自分自身の意見とカリスマや雄弁家の意見の境界は曖昧になりやすい。リテラシーが乏しければ、そうした傾向に拍車もかかろう。
弁論術も含め、リテラシーとは、自己主張していくためのツールとして必要不可欠なわけだけど、そのリテラシーが欠如している限り、SNSがあろうとも、自分の意見を代弁してくれている誰かの追っかけをやろうと、結局自己主張は困難なのだと思う。のみならず、リテラシーが欠如しているからこそ、カリスマや雄弁家の巧みな弁舌から自分の意見を守ることも難しい。そうやって、タイトルしか読めない人やタイトルすら読めない人がネットのカリスマや雄弁家に浸食されているのが、ここ十数年の間にできあがったインターネットの風景だと思う。
もしそうだとしたら、「大衆の声」に相当するものは今、どこで聞こえるのだろうか。いや、そもそも大衆とここで言われる人々に、声や意見は持ち得るのだろうか。インターネットをとおして影響力が刈り取られまくっている現在の環境下で、自分自身であること、自分の意見を持つことはどこまで可能だろうか。それは他人に問うだけでなく、自分自身にも問わなければならないことだ。たとえば私がここに書いてあることだって、冒頭の小山さんの影響下にあって書いたものと疑ってかからなければならない。
ネットに限らずだが、このメディア全盛の時代、緊密に人と人とが繋がり合った時代において、声とは、いったい誰のものなのだろう? そして自分の意見とは?
*1:テレビが主流になった後のラジオもそうなのかもしれない。が、それでもラジオのリスナーはリスナーでしかなかった。ラジオという媒体は「自分ももアメリカ大統領やひろゆきさんもひとつのアカウント、ひとりの発信者だ」と思える構造にはなっていなかった