シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

Q:思春期において、承認欲求とどう向き合えば良いのか?

 
 
 
つい先日、こんな質問を読者のかたからいただきました。
 
1.「承認欲求を持つことは悪いことか」
2.「思春期の年頃において、承認欲求とどう向き合っていけば良いのか」
 
このブログを長らく読んでいる人には答えの見える質問かもしれませんが、そうでない人に説明するのはちょっと大変そうです。そこで今日は、予備知識のない人に一から説明する心づもりで1.2.の質問に答えてみます。
 
 

1.「承認欲求を持つことは悪いことか」→いや、人間そういうものだし

 
まず、「承認欲求を持つことは悪いことか」について。
 
私の答えは「良し悪しは別にして、人間には承認欲求はあります。あるんだからしょうがない」、となります。ビーバーがダムをつくるように、ライオンやトラのオスがなわばり意識を持つように、人間は社会的欲求を持ち、良好な社会関係(人間関係)を得たがるものなのです。「人間は本能的に社会的欲求を志向する」と表現してもいいかもしれません。承認欲求は、その社会的欲求なかでも意識しやすいもののひとつです。
 
なぜ、人間は社会的欲求を本能として持っているのでしょう? それは、人間が太古の昔から一人では生きていけない生物だったからではないでしょうか。私の調べによれば、人類はホモ・エレクトスの時代から男性と女性が助け合わなければ子育てが困難な種だったそうです。狩りをするにも子孫を育てるにも人間は協力しあう必要がありました。農業が始まり、さまざまな職業が生まれ、分業が進むにつれて人間はますます助け合いながら、人間関係を築きながら生きていかなければならなくなりました。人間関係を築いていくうえで、他人から認められること、それから自分の属するグループに仲間意識を持ったり尊敬に値するリーダーを尊敬し彼/彼女から学んだりすることは、とても大切なことだったはずです。
 
「人間関係なんてどうでもいいし」「私は他人に認められなくても、みんなから無視されていても構わないし」なんて思っていた人はいつの時代にも生き残りづらく、子孫を残すことも難しかったでしょう。
 
太古の昔から現在まで、そうした社会的欲求をもたない人間よりもっている人間のほうが生存しやすく、子孫を残しやすい状況がずっと続いてきましたから、社会的欲求を持った人間がもっぱら子孫を残し、気が付けば人間はだいたいそういう性質になっていたのでしょう。進化生物学っぽく言い換えるなら「社会的欲求は人間の行動形質のひとつになった」とか「人間は社会的欲求を持つよう進化した」と言い換えられるかもしれません。
 
20世紀の心理学者であるアブラハム・マズローという人は、この、社会的欲求について「欲求段階説」という有名なピラミッド状のモデル*1を残しました。昔の私の書籍から引用した図で恐縮ですが、以下をご覧ください。
 

※昔の本から引っ張り出してきた、マズローの欲求段階説のピラミッドを簡単に書いたもの。自己実現欲求、承認欲求、所属欲求が社会的欲求に該当しますが、この文章では、承認欲求と所属欲求について書いています。
 
マズローのモデルによれば、人間はこのピラミッドの下の階層の欲求が満たされるにつれ、上の階層の欲求を充たしたがるそうです。最下層の生理的欲求や安全欲求は、飢えないことや身の危険がないことを求める欲求、生存に必要不可欠な条件が脅かされている状況で強く意識される欲求です。戦争や災害のもとでは、これらの欲求が最優先になるのはわかる気がします。でも、現在の日本で生理的欲求や安全欲求が最優先になる暮らしをしている人は少ないでしょう。そうなると、中層にある承認欲求や所属欲求が意識されることになります。最上層に書かれている自己実現欲求は……まあ、忘れてくださってもいいと思います。マズローにとってはこれが一番思い入れのある欲求だったようですが、そのマズローも「誰もがこの自己実現欲求にまで辿りつけるわけじゃない」といったことを著書のなかで書いています。今日の説明では、これは省くことにします。
 
で、承認欲求と所属欲求。
 
承認欲求は、他人から承認されたい・認めてもらいたい・いっぱし扱いされたいといった欲求を指します。「自尊心」と言い換えてもいいでしょう。承認欲求は他人から自分に向かって肯定的な視線や評価が向けられる状態を望む気持ちですが、これはほとんどの人に沸いてくる気持ちですし、まったく無い人よりはある人のほうが人間関係について努力し、ちゃんとした人間関係を築けるようにも思います。
 
たとえば友達からいっぱしの仲間として認められたい・親や先生から褒められたいって気持ちは、多かれ少なかれ持っているものでしょう。学校では褒められたいそぶりを見せていない人でも、いつもの遊び場や仲間内では認められようと努力をしている、なんてこともよくあります。逆に、承認欲求がまったく充たされない状態は辛いですよね。たとえば学校や職場であいさつもできず、誰ともコミュニケーションできない人を想像してみましょう。そういう人は学校や職場で他人から肯定的な視線や評価を得ることもできず、居づらい気持ちになります。承認欲求を持つことが良いことか悪いことかはわかりませんが、とにかく、承認欲求をまったく充たせないと人間は辛いしやってられないのは間違いなさそうです。
 
また、社会的欲求には承認欲求とは違ったかたちのものもあります。それが所属欲求で、誰かに対して肯定的な視線や評価を差し向けている時も、それはそれで結構気持ちが充たされるんですよね。最近よく言われる「推し」も所属欲求のかたちのひとつだと言えます。アイドルでも学校で一番素敵な先輩でも大昔の音楽家や哲学者でもいいですが、誰かを「推し」ている時って、結構気持ちが充たされていませんか。コンサート会場で「推し」を中心に皆が盛り上がっている時、会場のなかで承認欲求が充たされないとブツブツ言っている人はたぶんいないでしょう。お祭りの御神輿、チームワークの良いスポーツチームなどもそうですね。御神輿を持ち上げて皆が一体になっている時やチームがひとつになっている時、私たちの気持ちは充たされます。そういう時には承認欲求も引っ込んでいることが多いものです。
 
このように、承認欲求と所属欲求はどちらも大切な欲求で、私たちが人間関係をうまくやっていくうえで鍵になる欲求だと言えます──これらの欲求があるから、私たちは他人にちゃんとみられよう、いっぱしの人間としてみられようと努めることができますし、チームワークなどをとおして一人では達成できないことを達成したり、ライバルたちと切磋琢磨して成長したりできるのですから。もちろん、「これらの欲求を充たしたいけれども充たせないから苦しい」とか、「学校でも職場でも家庭でも充たせないからネットの危ない場所で危ないことをしてしまう」といった難しいところもあります。が、私たちはこれらの欲求のおかげで向上心を持ち、協調性や社会性を養えるのでしょう。そして現在の高度に分業の進んだ社会も、元をただせばこうした人間の社会的欲求のおかげ、社会的欲求をとおして複雑な人間関係や協力関係を築き、文化や技術や流通や生産体制を発展させてきたおかげだ、と言ってもいいように思います。
 
 

2.思春期の年頃で社会的欲求とどう向き合うべきか

 
では、そんな承認欲求や所属欲求とどう向き合うのが好ましいでしょうか。 
 
世の中では、承認欲求が強すぎることが批判的に語られがちです。最近の人気アニメでも「承認欲求モンスター」という言葉が出てきましたね。実際、承認欲求や所属欲求のままに行動していたらひどいことになってしまった……なんてケースも結構あります。仲間内でウケようとして違法な動画を投稿して炎上したとか、ソーシャルゲームで上位ランカーでいようとして無理をし過ぎた結果、生活がおかしくなってしまったとか、承認欲求を充たそうとするまま行動して大変なことになってしまった話はいろいろありますよね。
 
あと、承認欲求って自分自身が認められたい・褒められたいって欲求なので、欲求に忠実すぎると自己中心的な振る舞いになってしまいかねない、という問題もあります。それで他人の気持ちを踏みにじってしまうようだと、むしろ逆効果、他人から嫌われてしまいます。
 
所属欲求だって、案外コントロールが難しいものです。「推し」を推したい気持ちが高まりすぎてコントロール不能になったら、グッズ購入や投げ銭が止まらなくなっちゃうかもしれないし、「推し」の布教活動をしすぎて周囲をドン引きさせてしまうかもしれません。なかには「推し」を神様のように理想化するあまり、「推し」のストーカーみたくなってしまったり、「推し」やそのファンが自分の気に入らない行動をとることを許さない「厄介なファン」になってしまう人もいます。スポーツチームなどの組織でも、チームや組織への忠誠心が強すぎるあまり、他のメンバーにも同じ気持ちを求めすぎてしまい、かえってチームや組織の運営を難しくしている人もいるかもしれません。強すぎる承認欲求だけでなく、強すぎる所属欲求も、それはそれで厄介ものなのです。
 
ですから「承認欲求も所属欲求もバランス良く、強くなり過ぎないように気をつけましょうね」が模範回答になると思います。が、それって難しくないですか?
 
両方の気持ちが出しゃばりすぎず、かといって過小にもならない状態は大人でも結構難しいものです。まして、大人に比べて経験の少ない思春期の時期はコントロールが大変。周りに認められたい気持ちが先走ったり、「推し」を思う気持ちが高ぶりすぎたりする経験は、誰だって一度や二度はあるでしょう。でも、そういった経験を繰り返しながら人は成長していくものです。ときには失敗することだってあるでしょう。
 
最近の日本社会では、その「ときには失敗することだってあるでしょう」を他人に対しても自分自身に対しても許さない・許せない人も多いようですね。だから私は「承認欲求や所属欲求で失敗することがあってもいいんだよ」と本当はもっともっと言いたいのですが、そのように言いづらいなと最近は感じています。失敗のない人生も、誰からも嫌われずいつも都合の良い欲求しか出さない人間も、本当はいないはずです。だからそれらの欲求で若い人が失敗することがあっても、再び立ち上がれるならそれでいいと私は思います。もし、若い人にそのような再起のチャンスを与えられないとしたら、それは若い人たちが間違っているのでなく、本当は社会が間違っているのだと私は思いたいですね。
 
だけど社会のせいにするのはさておき、自分自身を振り返って、気を付けてみましょう。「自分の欲求が暴走しているな」と感じるサインには敏感でありたいものです。周囲の人の反応を気にし過ぎるのもまずいですが、まったく気にしないのも考えものです。それから承認欲求と所属欲求、どちらか一方だけではバランスが悪くなりがちな点にはご注意を。たとえば承認欲求ばかりの人は自己中心的と思われやすくなっちゃうかもしれませんし、チームワークがおろそかになったり、友達といえる人がいなくなってしまうかもしれません。逆に所属欲求ばかりの人は、自己主張ができない人になってしまったり、「推し」にお金や時間をかけるあまり自分自身にお金や時間をかけるのが疎かになってしまうかもしれません。承認欲求/所属欲求どちらかオンリーで社会的成功にたどり着く人がまったくいないわけではありませんが、そういう人はまれです。まれなので、原則としてはおすすめしません。
 
それから最後に、友達の承認欲求や所属欲求が強くなりすぎている時のことを考えてみましょう。もし、友達の承認欲求や所属欲求がやけに強まっているようにみえる時には、どうしたらいいでしょうか。
 
それらがあまりにひどく、しかも長引くなら「ちょっとそれ、きついんですけど」ぐらいは言っていいんじゃないでしょうか。友達同士ならある程度は許しあえるのも事実ですが、それとは別に、「親しき仲にも礼儀あり」という言葉もあります。お互いの気持ちを破壊しかねない状態が続くなら、そのことは相手に告げなければならないものだと私は思います。
 
でも一時期にそうなっただけなら、お互いに許しあえるといいなとも思います。承認欲求や所属欲求がやけに高まる瞬間って、心に隙間風が吹いている時が多いんですよね。家庭で何かあった、学校で何かあった、別の友達と何かあった。そんな時、一時的に承認欲求や所属欲求がぶわっと強くなったり弱くなったりする瞬間があります。大人はそういう瞬間でもなるべく動揺しないよう、経験を積み重ねているかもしれませんが、未成年のうちはなかなかそうもいきません。
 
自分自身も、まわりの友達やクラスメートも、いつになく承認欲求や所属欲求が強まる瞬間はきっとあるはずです。でも、人間なんてそんなものだと私なら思います。現代社会には、そういう欲求の強弱をいつもコントロールできる完璧人間でなければならない、みたいな思い込みをしている人たちがいますが、完璧人間になろうと頑張りすぎるのは疲れちゃうし、疲れるわりに人間は完璧にはなれません。なかなか難しいことを承知で理想を語るとしたら、承認欲求や所属欲求をお互いに充たしあい、それでいて多少の揺れ幅は許しあえる、そんな人間関係と社会であって欲しいものです。
 
これから大人になっていく年頃のかたには、どうか、承認欲求や所属欲求といった社会的欲求と上手に付き合っていって欲しいと思います。上手に付き合うとは、全部充たそうとすることでも、全部我慢しようとすることでもありません。お互い、ときどき失敗することはあっても、まあなんとかやっていこうじゃないか──そんな経験を積み重ねながら、お互いの承認欲求や所属欲求にゆるく構えていける大人になれたらいいですね。毎日の生活のなかで、是非、そのような積み重ねができる場所、積み重ねができる人間関係を探してみてください。
 
 
*承認欲求や所属欲求について私がまとめた本は、少し前のものになりますが、『認められたい』というものがあります。kindle版もあります。興味ありましたら、そちらもご覧ください。
 
 

*1:補足。全部読み終わった後に気が向いたら読んでください:マズローの欲求段階説は、脳の機能と欲求について詳しいことがわかる前に、マズローが人間の欲求をざっくり整理したモデルでした。これが今日まで用いられるのは、生物学の進歩にぴったり合っていたというより、マズローのモデルがざっくりしていて使いやすく、整理に便利で、一部の人が自己実現欲求という超人的欲求をありがたがっていたから、だと私は理解しています。脳の局在的な機能と人間の欲求を直接結び付けて人間の欲求を説明するとしたら、マズローのような説明にはならないと思います。承認欲求と所属欲求は社会的欲求を整理整頓するモデルとして便利ですが、あくまでマズロー流のモデルであり、整理整頓のひとつのかたちである、とみなしておくのがいいと思います。