シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

人が集まって、同輩意志を持つということ

 
 
 昔は忘年会や新年会のたぐいはひたすら嫌悪の対象だったけれども、最近は、幾ばくかでもメンバーシップを感じるようになった。余所の研究会や勉強会でもそういう感覚を覚えることがある。はてなブログ・はてなブックマーク関係のオフ会に関しては言うまでもない。
 
 別に、それぞれの集団に私が忠誠を誓っているわけではない。
 
 それでも、メンバーの一員であること、この人達と一緒に行動できることを実感するだけで、自分の気持ちが多少なりとも充たされていくのを感じる。と同時に、このメンバーの参加者からみて面目の立つようなことをやっていこう、リスペクトできる集団の末席にいても構わないように過ごそう、という気持ちがちょっとしたモチベーション源になる。
 

認められたい

認められたい

 
 
 ここで私が感じている気持ちは、承認欲求がメインではなかろう。もちろんメンバーに認められたい・承認されたいという思いもあるに違いない。だが、それだけが私の心を温めているのではなく、メンバーの一員であることの喜び、上司、部下、先輩、後輩といった区別なく、その人達にリスペクトの念を向けていることによる高揚感のようなものが、私の心を温めている。
 
 承認欲求といえばマズローだけど、マズローの分類でいけば、私は所属欲求を充たされているのだと思う。
 
 人間関係にまつわる欲求といえば、承認欲求が今日では有名だが、すべての人間が承認欲求だけで生きているわけではないし、すべての時代において承認欲求こそがメインの社会的欲求だったわけでもない。個人として他人に承認されるだけでなく、集団に所属しているという実感、あるいは仲間やライバルと共にあるという実感も、しばしば人の心を温め、ときに、モチベーションの源として役に立つ。
 
 そうした社会的欲求が、ときには残念な結果を生むこともある。カルト集団が濃密な同輩意識のなかで暴走することもあるし、ナチスの頃のドイツなども、そうした所属欲求の暴走をかなりの割合で含んでいたのだろう。承認欲求が暴走するとネット炎上をはじめ残念なことが起こるのと同じように、所属欲求も暴走すれば残念なことになる点には注意しなければならない。
 
 けれども、さしあたって職場や趣味仲間といったコミュニティ内で心理的に満ち足りるための秘訣は、承認欲求だけをモチベーションにするのでなく、この所属欲求をもモチベーションにすることだと私は確信する。承認欲求onlyの人にとって、忘年会や新年会は、自分が注目されない限り苦痛の場でしかないが、所属欲求をも大切にしている人にとっては、そういった集まりはメンバーシップを介してほんのりモチベーションを再獲得するチャンスを含んだ場となる。
 
 宴席の片隅で、はんなりしているだけでも満更ではないという幸せ。
 
 私は、ある時期まで承認欲求をどう充たすのか、どう転がしていくのかが社会適応の重要な鍵だと思っていた。だが、最近は承認欲求だけが重要なので無く、むしろ、所属欲求がモチベーションの源として機能するのか、しないのかが重要ではないかと思うようになってきた。
 
 だってそうだろう、承認欲求onlyの人に比べて、所属欲求も充たせる人は、モチベーションや心理的充足感を得られるチャンスが二倍あるようなものなのだ。自分自身が承認されることしか考えていない人は、自分自身が承認される状況以外は苦痛でしかないが、メンバーシップを喜べる人、誰かと一緒に行動できることに喜びを感じられる人は、そうとは限らないのである。
 
 承認欲求にウエイトが傾きまくった心の持ち主にとって、これは、さっぱりわからない話に聞こえるかもしれないし、飲み会のたぐいでメンバーシップを介して心が温まるとは一体どういう境地なのか想像しにくいかもしれない。私自身も、二十代前半の頃は承認欲求にウエイトが傾きまくっていたので、今、私が書いている文章をタイムリープマシンで18年前の私に届けたら「お前は何を言っているんだ」と首を傾げるだろう。
 
 だが、ここまで生きてみて、そして多くの人を実際に観察してきて段々気づいたのは、承認欲求にモチベーションを頼りきっている人より、所属欲求との両方をモチベーション源にできるような人のほうが気持ちの欠乏にも苦しまなくて済むってことだ。たいていの場合、そういう人のほうが出世もしやすく、人望も得やすいのではないか。
 
 この視点で見ると、所属欲求をもモチベーション源とする習慣が早くから身に付いている人は、たぶん生きやすいのだろうなと思う。インターネットの世界では体育会系のノリを毛嫌いする向きもあるけれども、ああいう体育会系をはじめ、部活動のような集まりを介して早くからメンバーシップに慣れておくのは、社会適応していくうえで重要なことなのだと思う――たとえ、すべての部活動メンバーが所属欲求の充足に慣れていけるとは限らないとしても。
 
 こういう視点で飲み会というものを眺めてみると、これがものすごく重要な社会的機能を帯びていることを再認識せざるを得ない。メンバーそれぞれがメンバーシップ意識をもって、モチベーションを充足させていけば、個々人のメンタルヘルスのためだけでなく、組織の一体感や相互信頼も高まる。だからこそ飲み会は一部のメンバーだけが楽しむものでなく、できるだけ多くの参加者が楽しいと思えるような、そして疎外感よりも一体感を確かめられるような向きであるべきなのだと思う。
 
 そして個々人においては、できるだけ早い段階から、できるだけ望ましいかたちで所属欲求の充足に慣れておくこと、そのような機会をたくさん持てることが重要なのだと思う。なにもハードな運動部である必要はない。どこのコミュニティでも構わないから、人が集まり、同輩意識を持てるようなメンバーシップを体験しておくことが、先々のモチベーションと、そのモチベーションに導かれる人生行路を左右するのだろう。
 
 十代の頃から部活動やサークル活動に当然のように参加している人達は、そういったことを意識するまでもなく、所属欲求の持ちように慣れていくに違いない。それに比べれば私は随分と遠回りをしてしまったけれども、これからは、人の集まりや同輩意識を大切にしていきたいな、と思う。