シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

文系の権力とは何か

 
今日は、文系の権力とは何か、について現時点の私の考えをまとめてみる。
 
先日、地方の理系男子学生について東大の文学部教授氏が「支配階級の再生産だ」と述べていたが、私には中央の文系エリートの持つ力と、支配階級の再生産が気になった。それを書いたのが下記の文章だった。
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 
 

文系理系の将棋のメタファーは王将と金将を過小評価している

 
それに対して、Xで以下のような突っ込みをいただいた。
 


 
うん、だけど、中央の文系エリートが持つ権力は代えが利かないし、魅力的だよね……。
 
インターネット上では、文系と理系の力関係を示すメタファーとして、しばしば下のような将棋盤が引用される。
 

 
しかし、このメタファーは王将や金将の力をうまく表現できていない。確かに理系の力も弱くはない。それはテクノロジーの力で、飛車角に比喩されるのがお似合いだ。理系とそのアウトプットを適切に使役すれば、ロケットを飛ばしたり通信網をつくったり、生物・自然界・宇宙のメカニズムを解明したりできる。
 
では、文系の力とは何なのか。
一言で言えば、それは人を統治する力、人を動かす力、そして社会と人間がどうあるべきかを定める力だ。権力、と言い換えても差し支えないだろう。
 
たとえば理系は男女の生物学的な機能の違いを研究することができる。だが、社会のなかで男女がどうであるべきか、社会のなかで男女の生物学的な機能の違いをどう取り扱うべきかを決めるのは理系ではなく文系、とりわけ文系エリートたちの領分だ。
 
同様に、社会や自然がどうであるかを解明し、それらを変えていくためのテクノロジーやツールを生み出すのは理系の役割*1だが、理系が生み出したテクノロジーやツールをどう使うのか、なんなら禁止にしてしまうのかを定めるのは文系、とりわけ文系エリートの仕事にあたる。文系の仕事は社会を規定し、社会を変えてしまい、人を規定し、人を変えてしまうものだから、将棋のメタファーでいえばまさに王将にふさわしい。将棋における王将とは違って、文系は、人間社会という盤上のゲームルールを改変する権限にもかかわっている
 
その源流に位置しているのは、哲学や倫理学だ。これらの学問は、生半可なことでは食っていけないし、そのトップに位置するまでの道のりは恐ろしく険しい。しかし、本当の本当に社会統治の中心にいて、社会がどうであるべきかに論及するにあたって最も正当性の高い位置と専門性を握っているのは、彼らである。
 
だからもし、そのように正当性の高い位置を占めている者が特定の立場の人々を非難するステートメントを発するとしたら、その影響力を等閑視すべきではないと思う。そのような発言、そのような意見が未来の社会実装を左右する可能性を低く見積もるべきではない。そのように正当性の高い位置を占めている者が胸先三寸で社会を壟断するなどあるわけがないし、また、あってはならないが、腐敗した社会においてはそうした出来事も起こるかもしれない。
 
そうした文系エリート中枢の周辺には、実働部隊が位置している。立法、行政、法曹を司る人々は、哲学や倫理学を参照しながら、社会統治の実務を担っている。たとえば裁判所や裁判官の決定にはどんな理系も逆らえないし、理系がつくったテクノロジーやツールが社会のなかでどう活用されるべきかを(法にもとづいて)定めるのは立法に携わる人々だ。法に基づいて社会が統治され、その統治を支えるために警察機構も含めた行政組織が整備されている近代国家においては、すべての人が法にもとづいて行動するよう期待されている(法を無視すれば罰せられるだろう)。法に基づいた裁定が下った際には、どれほど才能のある理系のエンジニアでも逆らうわけにはいかない。法が執行される際には、国家機構の末端に位置する役人や警察官の指示にも従わなければならない。
 
理系はこうした法治に全面的に従う。理系が法治を従えることなどできない*2。近代国家と現代社会は法に基づいていて、権力の流れの水源には哲学や倫理が、本流には法治にかかわる諸学と専門家が配置されていて、権力を差配している。その権力の流れに理系が口出しする余地は無い。
 
それから官僚組織も忘れてはいけない。たとえば厚労省は日本国憲法や関連法律に基づいたかたちで医療や福祉や労働環境を司っている。厚労省そのものには理系の力、いわば飛車角や香車の力は欠けているかもしれないが、厚労省は理系の力を従え、理系の人々をも従え、みずからのビジョンに基づいて医療や福祉や労働環境のこれからを主導していく。
 
どのような医療行為が適法でどのような生(と死)が好ましいのかを決めるのは、厚労省だったり法曹だったり倫理学者や哲学者だ。そのバイオポリティクスの枢要を握っているのは現場の医師や患者ではない。もちろん、統治の実働部隊も民草の声に耳は傾けよう。しかし民草の声だけを聴いているのではなく、倫理学者や哲学者たちの声、さらに、それらを踏まえた法学者たちの声にも耳を傾けている。いずれかひとつの職業、ひとりの人物がすべてを独断できるわけではないとしても、学識経験者たちひとりひとりの影響力は民草のひとりひとりの声に比べれば遥かに大きい。
 
 

キリスト教とその神学の末裔たちの持つ力

 
私の理解では、ここまで述べてきたような人を統べる役割を担ってきたのは、過去のヨーロッパ世界ではキリスト教とその神学だったと思う。
 
太陽と大地の関係はどうなっているか・人はどこから生まれてどこへ行くのか──そうした問題は、今日なら自然科学の問題とみなされようが、キリスト教全盛期においては神学的な問題だった。世界や自然を語ることは、そのまま創造主を語ることに通じる。同じく、日曜日はどのように過ごすべきか、キリスト教徒は何を是とし何を非とすべきかも、キリスト教全盛期においては法の問題である以上に神学的な問題だった。
 
もちろん、そうやって世界や自然や人間について語ることは権力に通じることだし、そうした解釈権を独占することは教会にとって大きな力となる。どこかの馬の骨が勝手に世界や自然や人間について語り始め、かくある/かくあるべしを語るのは畏れ多いことだ。神学はいつも自然科学に優越していたから、神学に触ることを言い立てる自然科学者は煙たがられただろう。たとえばガリレオガリレイのように。
 
だからといって、キリスト教とその神学が硬直していたと考えるのも、たぶん間違っている。
 

 
キリスト教とその神学は「アップデート」してきた。レコンキスタに前後するギリシア哲学の再発見、大航海時代の始まり、個人主義や資本主義の芽吹きといったインパクトに対し、キリスト教とその神学はけっこう対応できていたほうだと思う。そうして世界が広がっていくたびに、キリスト教とその神学はその広がりにあわせて軌道修正し続けてきた。その軌道修正のスピードはガリレオガリレイやマゼランやニュートンに比べて遅かったかもしれない。が、遅ればせながらもアップデートできたからこそ、キリスト教とその神学はそっぽを向かれることなく、フランス革命あたりまで健在だった。世界がどうであるか、人間がどうであるべきかを取り仕切るキリスト教は、植民地において原住民をどう処遇すべきか、非ーヨーロッパ世界の文明をどう支配すべきかにも論拠を提供した。大砲や大型帆船や胸甲騎兵が世界を征服していった時、統治や正当性の次元でヨーロッパを支え続けたのはキリスト教、それもアップデートし続けるプラグマティックな文系パワーとしてのキリスト教だ。
 
政教分離の国民国家の時代が到来し、世界の解釈が自然科学=理系に委ねられたフランス革命後の欧米においては、少なくとも表向き、キリスト教はそうした役割からリタイヤした。代わって台頭したのは、まさに文系エリートの中枢、哲学や倫理や思想の次元のイノベーターたちだ。ロックやルソーやアダムスミスといった人々は、社会がどうであるべきか、人間がどうであるべきかに論及し、それらが今日に至るまで、社会がどうであるべきか、人間がどうであるべきかの根幹にかかわる論拠になっている。
 
この次元において、ペンは明らかに剣よりも強い。彼らとその著作物はダイレクトに人を殺さない。が、社会がどうであるべきか、人間がどうであるべきかを決めるのはペンであって、剣ではない。今日に至るまで、文系エリートの最高峰の人々の仕事は私たちの社会の隅々にまで存在している──現代の東京において女性が夜に一人歩きしても安全で、且つ安全であるべきなのも、コンビニにおいて客が誰であれ定価で商品が購入でき、且つ購入できるべきなのも、遡れば近世~近代に活躍した哲学や倫理や思想のイノベーターたちの仕事のおかげと言える。彼らの弟子筋にあたる倫理学者や哲学者や思想家の役割も軽視してはならない。社会がどうあるべきかに論及し、社会の未来を方向付けるのはたいてい文系エリートたちだ。そして現在の社会をかたどり、社会を回しているのも文系エリートたちだ。
 
だから、キリスト教とその神学が担っていた仕事のうち、統治に直接かかわる領域の仕事は文系エリートたちに継承されていると、私は思う。そして聖書を読み聞かせる組織としてのキリスト教、住民台帳を管理する組織としてのキリスト教も、官僚組織とそれを司る文官たちに継承された。こうやって点検してみると、文系エリートたちの権力はとてつもない、と言わざるを得ない。今日の哲学者や倫理学者の仕事は、国家レベルの権力の流れの一番上流に存在する、ごく小さな泉のようにみえるが、しかしそれは権力の大河の水源地だ。その水源に端を発した権力は、立法や行政や司法のなりわいをとおして、ひいては官僚組織や行政組織のなりわいをとおして、巨大な権力となって私たち全員をすべからく統治し、人を、社会を、街をつくりあげる。そうしてできあがった体制に逆らうことはきわめて難しい。そもそも、そうした統治や体制はあまりにも当たり前になっているから、上流から下流へと流れる一連の権力の流れを日常生活のなかで自覚する機会はほとんどない。
 
 

経済セクターの話をまぜると、文系の権力はもっと大きくみえる

 
なお、ここまで経済セクターの話をしなかったが、日本の理系ー文系分類でいえば、経営学や経済学も文系の範疇に入る。貨幣は英語でcurrencyと呼ばれるが、究極的にみれば貨幣は信用や権力の一形態だから、これも文系が統べるものとしてふさわしくはある。一流企業においては、ここまでの話に直接かかわる法務部のような部署はもちろん、役員や従業員も今日の文系的な統治のありかたにリテラシーを持っているよう、期待される。すなわち、どのような正当性に沿って企業は運営されるべきか*3、社内のコミュニケーションはどうあるべきか、従業員のモチベーションや職場のウェルビーイングはどうあるべきかが、きちんとわかっていて絶えずアップデートされていくことが期待される。なぜなら、そうでなければホワイトな企業やホワイトな職場は運営できないからだ。
 
こうしたホワイト志向、企業や社員を文系の論理に沿ってクレンジングしていく方向性じたいも、文系権力のはたらきによって生じていると言えよう。そうした作用への自覚の有無にかかわらず、実際、ホワイトな企業のホワイトな社員は文系的な統治のありかたに対して高いリテラシーを持っているようにみえる。
 
そういうわけで、小さなガレージで理系たちがテクノロジーの産物を完成させ、テックベンチャーとして旗揚げしても、そこが理系の楽園でいられる時間は短い。企業として成長し、社会の公器とみなされていくにつれて、その企業はホワイトカラーたちの力を借りなければならなくなるし、遅かれ早かれ、その企業、そのテクノロジー、そのツールは文系たちの統べるものになっていく。
 
 

背広組には逆らえない。背広組がいなければ企業は(社会は)回らない

 
だから、経済セクターにおいても文系の権力、人を規定し人を変えてしまう力、ひいては人間を統治する力は(いろいろな意味で)強力で、はじめは理系がリードしているようにみえた企業でも、最終的な主導権は背広組のものになってしまう。とはいえ、大規模な企業、公器としての企業が円滑に動き続けるためには文系的な知・専門家・リテラシーといったものが必須なのも事実で、背広組は不要だ、といった考え方に安易になびくものではない。
 
長くなってしまったのでもうやめるが、このように、倫理や哲学、法治や政治、経済や企業活動のめちゃくちゃ広い範囲で、人を統治し人を動かすための知と、それを司る文系エリートたちは活躍している。
 
理系だけが社会を支えているわけでも、アップデートしているわけでもない。文系も社会を支えて、アップデートさせている。そしてもし、人を統治し、人を動かす力を権力と呼ぶとしたら、文系はまさに権力にかかわる領域で、文系エリートたちを権力者と呼ぶことは可能だと思う。そうした権力を、理系は蓄積させることができない。権力を蓄積させ、みずから刷新し、巧みに使いこなして人と社会を変えていくのは文系の仕事だ。
  
 

*1:補足:社会学のなかでも統計学を駆使する社会学は、理系に近い役割を果たすことがある

*2:理系が発明したテクノロジーやツールが法治に新たな問題を持ちこむことはあるが、遅かれ早かれ、そうした新たな問題も法治によって回収される

*3:くだけた言い換えをすると、「どういう運営なら警察や裁判所のお世話にならないで済むか」になるだろうか