私のXのタイムラインでは、定期的に「40代になったら狂う」論が流行する。去年も流行ったし一昨年も流行った。今年も3月下旬ぐらいから活況を取り戻し、まるで花粉症のようだ。
そうした「40代になったら狂う論」のなかには、面白がるようなもの、蔑む調子のもの、心配がるもの等々が混在しているが、今回、良いことをおっしゃってるなぁと思ったのは、カエル先生さんがポストした以下のものだった。
40歳を越えると人が狂い始めるのは、物語を喪失するからだ。
— カエル先生・高橋宏和 (@hirokatz) 2026年4月9日
アイヌの言葉に、「役目なしに天から降ろされたものは一つもない」というものがあるという。
何かの役目を与えられて天から地上に降ろされたものが、ある日突然その役目を剥奪されたらどうなるだろうか。
狂うしかないのではなかろうか。…
カエル先生さんのポストには大事なことが幾つも書いてある。核心を箇条書きすると、
1.人間には物語が必要
2.40代でいろんな物語が終わる
3.物語をアップデートさせよう
以下の三つになるだろうか。
1.2.の必然性、および3.の必要性は、ライフコースの多様性が進んだとされる現代社会でも、たぶんあまり変わらない。なぜなら、人間は生物学的にも社会的にも加齢する存在で、40代にもなれば20代の頃と同じはもちろん、30代の頃と同じ境遇すら覚束なくなってくるからだ。そのうえで人が生きていくためには自分自身の物語が必要になるから、境遇の変化にあわせて自分の人生の物語をアップデートさせる、または、別の物語に乗り換えたりするニーズが浮かんでくる。
人間は物語をアップデートさせながら生きている
「人間には物語が必要だ」。
ここでいう物語という言葉は、役割という言葉であるていど代替できる。人間は、しばしば自分の役割を自分の物語として体感しながら生きていくからだ。役割が変われば物語も変わる。役割が変わっただけ、物語も変わっていくし、変わっていかないほうが不自然だ。
人生には役割が変わる時期がたくさんあり、就学期、就職直後、家庭を持ったり子どもをもうけたりする時期にも役割がいろいろと変わりがちだ。だからミッドライフライシスだけでなく、たとえばクオーターライフクライシスといった言葉もあったりする。
私は『クオーターライフ』という本があまり好きではないが、アラサーあたりの課題をこの本は正面きって取り扱っている。それより私はダニエル・レビンソンの『ライフサイクルの心理学』上下巻のほうが説得力があると感じている。
『ライフサイクルの心理学』の良いところは、E.エリクソンのよく知られたライフサイクル論に比べて青年期~壮年期にフォーカスしている点、悪いところも、青年期~壮年期にフォーカスしている点だ。著者のレビンソンは詳細な聞き取り研究をとおして、ミッドライフライシス以外にも人生の危機たりえる山場や移行期があるさまを詳述している。というよりいささか詳述しすぎているせいで、あたかも人生はいつでも山場や移行期であるかのような印象すら受け、結局どこを強調したいのかが捉えづらい感じにまとまっている。
とはいえ、レビンソンは就職して間もない頃の役割とある程度仕事に慣れてきて周囲が見渡せるようになってからの役割が異なっている様子、たとえばアラサー手前ぐらいになって周囲が見渡せるようになってからの時期が意外に手こずりやすいさまを巧みに表現している。
そしてエリクソンと同様、ある時期の役割変換や物語変換が停滞した場合、ただちに深刻な影響を来すことはなくても、未来の役割変換や物語変換の時期に影を落とすことがあり得るとも述べている。*1ここで挙げた例でいえば、アラサー手前ぐらいの時期の役割変換や物語変換を頬かむりして済ませることは不可能ではない。しかし、変換を避けたツケはなんらか40代以降に影を落とし、まさに「40歳狂う論」で言われるような著しい困難にまで発展するかもしれない。
ここまで物語と役割について書いてきたが、実際には、これらは自分自身のアイデンティティともかなり重なっている。仕事人間であること、家庭人間であること、趣味人間であること、親やパートナーであることは、どれも自分自身のアイデンティティの構成要素となる。それも、かなり重要な構成要素だろう。
いろいろな物語が終わりいろいろな物語が始まる
40代はこれらが大きく動揺する時期だ。仕事の曲がり角、家庭の曲がり角、趣味の曲がり角、親としての曲がり角を迎えればアイデンティティも動揺する。終わってしまう物語もあれば、始まってしまう物語もあるだろう。平均寿命が延長し、晩婚化が進んでいる昨今は、そうした曲がり角の季節が50代にずれ込む人もいるかもしれない。
今まで立身出世の物語や夢追い人の物語を追いかけていた人が、それらの継続不可能性をとうとう直視する時がやって来る。あるいは、子育てに自分の役割やアイデンティティを仮託していた人が、子どもが自立していくのともにそれらの継続不可能性に気付くことがある。そうやって閉じていく物語がある一方、親の介護のような、今まで眼中になかった物語が始まることもある。望ましかった物語が失われ、眼中になかった物語が始まっていく時、人は多かれ少なかれ動揺し、新しい物語への適応に四苦八苦する。
更年期をはじめとする身体的変化が、それまでの物語を時代遅れにしてしまう一面もある。思春期から引きずっていたた若い自己イメージが身体的変化によって崩れてくると、「若くて元気な自己イメージ」を前提としてきた物語は閉じなければならなくなる。自分はもう若くないと感じた人は、自分自身の物語を「若者の物語」から「若くない者の物語」に改変しなければならない。役割やアイデンティティも同様だ。若くなくなったにもかかわらず若者の役割や若者のアイデンティティを貫こうとすれば、次第に難しくなり、やがて自己欺瞞を重ねなければならなくなる。社会からの風当たりも変わってくるだろう。「若者の物語」を引っ張って生き続ける難しさがだんだん露呈してくるのも40代あたりだ。通常、どんなに自己欺瞞のうまい人でも、身体の衰えやトラブルまでは隠しおおせきれない。
若者をやめて、中年としての自分にアップデートする(それか再起動させる)
こうした事態に対応するにはどうすればいいのか。
冒頭リンク先カエル先生は解決案のひとつとして「物語をあきらめ、ひたすら今ここを生きる」を挙げているが、直後に「だけど、そんなのは悟りを開いた達人にしかできないこと」と付け加えている。不可能と考えて差し支えないだろう。
もうひとつの方法として、物語のアウトソースを紹介している。宗教や共同体、ナショナリズムに物語を委ねてしまえばいい。今だったら、政治活動や推し活もこれに当てはまるかもしれない。
私個人は、人生の物語やアイデンティティの宛先を自分自身に向け過ぎるのもそれはそれで偏っていると思っていて、物語のアウトソース、ひいてはアイデンティティのアウトソースについて悪い風には言いたくない。しかし、ひとつの宛先に全面的にアウトソースしてしまうと、マインドコントロールされるリスクが非常に高くなると思われるので、あくまで副次的な手段に留めておくぐらいが安全だと思う。いまどきは、そこを鵜の目鷹の目で狙っている商売人や組織が少なくないと思ってかからなければならない。
さらにもうひとつの方法として「等身大の新しい物語を始める」とも記していらっしゃる。これが本命だろう。人間が、物語や役割を持たずには生きていけず、アイデンティティや自己イメージを形成せずに生きていけないとしたら、それらはみずから獲得していかなければならない。自分自身のうちにあった「若さを前提とした物語や役割」がじきに成立困難になるとわかったら、おそるおそるで構わないから、そうでない自分自身にも似合いそうな物語な役割を、ひいてはアイデンティティや自己イメージを模索していくのが安全策であるよう、私には思われる。それは仕事や子育てのウエイトの見直しだったり、若者に親和的な趣味への依存度を減らしシニアにも親和的な趣味への依存度を高めるといったかたちだったり、弱り始めた身体への顧慮、その身体にふさわしいライフスタイルや恰好の追求かもしれない。
そうした物語のアップデートのひとつひとつは、案外些細なものだ。髪型を変えるとか、通勤手段を変えるとか、その程度のものかもしれない。しかし、些細なことを五月雨式にアップデートさせていけば人生の物語も、五月雨式に若者のそれから中年のそれへと変わっていく。いきなり全面的に変えようとするより、そのほうが無難だし、そのほうが実践的だろう。歯磨き粉を歯周病対策のものに変えるとか、スマホのカバーを変えてみるとか、その程度の変更も積み重ねる値打ちはある。なぜなら、歯磨き粉やスマホのカバーも、自分自身の物語や役割、ひいてはアイデンティティや自己イメージのごく小さな構成要素のひとつだからだ。飲み屋を変えるとか、ジムに通い出すとか、アイデアは無数にある。それらも全部、自分自身を構成する、小さな素子のひとつとして機能する。
だから、物語やアイデンティティといった言葉が大げさだと思う人は、新しいことを初めてみたり、惰性で使い続けているものを現在の自分に馴染みやすいものにアップデートさせてみると良いと思う。身の回りの小さなアップデートが積み重なれば、勝手に自分の物語や役割やアイデンティティは僅かずつ変わるし、メインストーリーともいうべき根幹にあたる部分のアップデートもより易しく、より受容しやすいものになると思われるからだ。そうやって人生の物語をアップデートさせ続けている人なら、「40代狂う論」もそれほど恐れる必要はないはずだ。
*1:ただし、エリクソンが述べる発達課題の後回し問題は良くも悪くも精神分析的な色彩が強いのに対して、レビンソンが述べる停滞がもたらす問題はより即物的な印象を受ける。



