シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「自分に刺さるコンテンツ」がなくなったっていいじゃないか

 
 https://anond.hatelabo.jp/20180829224019anond.hatelabo.jp
 b.hatena.ne.jp
 ※このブログ記事を書いて数時間後、ブログ記事本体が削除されたのではてなブックマーク上の反応を追加しました。
 
 
 
 
 2018年は季節の移り変わりのテンポが早くて、もう、朝夕はめっきり涼しくなった。
 そのためか、ちょっとメランコリ―なブログ記事に、はてなブックマーカーが殺到しているのを見かけた。
  
 いまどきの人生を四季に例えるなら、20歳までは春、20代~40代は夏、50代~60代は秋だろうか。40代を「夏の終わり」とみるのは早すぎる気がしなくもないけれども、20~30代から見れば、40代は人生の後半にみえるかもしれない。もちろん、50代以降の人には40代はまったく違ったものとしてうつるのだろうけれども。
 
 これについて、ブログ記事筆者の気持ちとはほとんど無関係に、思うところを書いてみる。
 
 

「自分に刺さるコンテンツが無くなっていく」理由

 
 若い頃はサブカルチャーコンテンツに夢中だった人が、30代、40代と進むにつれて夢中になれるコンテンツを喪失していくことは多い。昔はゲームオタクとしてならしていた人が純粋な仕事人間になったり、昔は深夜アニメをよく観ていた人が定番のシリーズものしか観なくなったりするのを、私は何遍も見てきた。
 

 活動的なオタクライフを続けられなくなった人々は、趣味活動から身を引いていくか、昔のコンテンツを懐古するばかりになりました。なかには、無理矢理にでもオタクライフを続けようとした結果、趣味に時間や金銭といったリソースを食われて生活がだんだん苦しくなったり、身体を壊してしまったりする人もちらほら見かけるようにもなりました。
 このように、趣味を楽しむという一事についても、時間の流れは人を変えていきます。若者向けのコンテンツをいつまでも若者の気持ちのままに楽しめる人はそれほどいません。
「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?より抜粋

 大学生ぐらいの頃、「自分に刺さるコンテンツ」を見つけてくるのは難しくない。記憶と経験がまだ少なく、情緒が揺れ動きやすいことが、この場合はアドバンテージになる。
  
 しかし、30代40代になって「自分に刺さるコンテンツ」を新しく見つけて来れる人はそんなにいない。少なくとも、『ガンダム』や『頭文字D』や『ジョジョ』を"永遠の思い出"にしているような30代40代に比べれば少ない。それは、なぜか。
 
 理由の第一は、時間も注意力を十分にコンテンツに差し向けていられなくなったから、というのはあるだろう。
 
 思春期の彼岸には、仕事や子育ての充実した時間が待っている。 
 
 もちろん仕事や子育てには苦痛や我慢も伴うけれども、そのかわり、仕事や子育てをとおしてやり遂げられることも増えてくる。俗に、「働き盛り」という言葉もあるけれども、立場的にも、経験と体力のバランス的にも、40代にできて20代や60代にはできないことが沢山あると思う。だから、コンテンツに時間や注意力を回す暇が惜しいほど頑張っている中年がたくさんいることに違和感は無い。
 
 さまざまなフィールドで活躍している40代の男女から話を聞いていると、彼らがサブカルチャーの体内時計を何年も前に停まってしまっていることにしばしば気付かされる。20代の頃にファンになったアーティストや漫画家だけを追いかけていたり、『ドラクエ3』や『ストリートファイター2』を懐かしむことはできても現代のFPSやソーシャルゲームについては何も知らなかったりする彼らは、サブカルチャー愛好家としては完全に枯れている。
 
 たぶん、それで構わないのだろう。実生活が充実していれば、刺さるコンテンツが無くても生きていくには困らない。せいぜい、同窓会の時に話題にできればそれで事足りるのだから。
 
 そのことに加えて、実生活が充実していようが充実していまいが、忙しさや精神的プレッシャーはオフタイムからゆとりを奪う。本当はもっとコンテンツに向き合いたいと思っていても、帰宅してからの僅かな自由時間を、アルコールを片手にぼんやり過ごすしかない人も少なくはない。疲労はコンテンツへの没入を容赦なく妨げ、コンテンツの印象を散漫にしてしまう。それでも、年を取るにつれて、仕事が終わった後の肉体疲労は堪えるレベルになっていく。ただ疲れているだけで、コンテンツは刺さりにくくなる
 
 世の中には、年を取っても新しいコンテンツを次々に開拓していく人も幾らかはいる。だが、彼らは多数派とは言えないし、「自分にコンテンツが刺さるだけのゆとり」をなんらかのかたちで確保しているとみてとったほうがいいように思う。それは、時間や注意力を確保するための方策だったり、夜遅くに帰宅してから新しいゲームやアニメと向き合えるだけのバイタリティだったりする。まこと、中年になって思うのだけれど、時間と注意力とバイタリティはあらゆる活動のボトルネックだ。最近は、バイタリティに優れた同世代~年上の人が羨ましくてたまらない。
 


 
 ネットライフについても同様だ。
 いまどきなネット愛好家がやっていることを、今の私ができているとは思えない。ブログやtwitterやはてなブックマークといった馴染み深いフィールドでさえ、時間やバイタリティが足りなくなってくると巡回範囲が狭くなる。20代の私はそのことに耐えられなかったけれども、40代の私は、そのことをどこかで諦めてしまっている。見る人が見れば、それはネット愛好家としての堕落とうつるだろう。
 
 
 理由の第二には、すでに多くのコンテンツを経験済みで、それらと比較できてしまう……というのもあるだろう。
 
 ひとつのジャンルを10年も20年も続け、十分にクンフーを積んでいれば、おのずと見る目が肥えてくる。目が肥えると、良いコンテンツを良いと評価するには有利だが、あまりにもたくさんのコンテンツを経験していると、新しく出会うコンテンツはおのずと相対化されてしまう。記憶と経験がまっさらな若者にとって、ひとつひとつの名作や大作は絶対的なものになり得るし、ましてや『君の名は。』や『艦これ』や『UO』のように、界隈のシーンとなってコンテンツが立ち現れてくる場合には、コンテンツの相対化は難しくなる。コンテンツの相対化が難しくなるのは、批評家にとってはハンディでも、「自分にコンテンツが刺さる」には都合がいい。ところが、長いことコンテンツを噛み分け続けていると、コンテンツの相対化の罠にかかりやすくなってしまう。若い頃に絶対的なものとして体験した作品のことを、つい、思い出してしまう。
 
 

「コンテンツが刺さらなくなってからを生きる」

 
 じゃあ、コンテンツが自分に刺さらなくなってはいけないのかといったら……全然そうは思わない。
 

 私ぐらい年代では、昔の人気作品とその続編ばかりを楽しみにしている人がかなりいます。たとえば、『キン肉マン』や『ドラゴンボール』の関連作品だけを追いかけている中年、『宇宙戦艦ヤマト2199』のようなリバイバル作品や、『スターウォーズ』シリーズの新作を楽しみにしているような中年です。彼らは、ジャンルの新しいところを開拓していくだけの情熱や甲斐性を失っていますが、昔馴染みの作品は今でも愛しています。
(中略)
 このような保守的で、時計の針が止まってしまったかのような愛好家の姿は、新しいコンテンツにも目を通している若い愛好家からはまったく誉められないものでしょうし、反面教師にしたいと感じる人もいるに違いありません。
 ですが、サブカルチャーを心底楽しんできた青春時代が終わってからの落としどころとしては、いちばん無理がありませんし、そういった道を選んだからといって、人生の選択を誤っているとは私には思えません。むしろ、自分にとって本当に大切なコンテンツに的を絞ることで、最小の努力で自分の趣味の方面のアイデンティティをメンテナンスし続けられているとも言えます。
「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?より抜粋

 「自分に刺さるコンテンツ」を開拓しない・開拓できない境遇は、少なくとも中年にとっては困るものではなく、むしろ、メリットも大きいように思う。仕事や子育てなどの忙しさを抱え、疲れやすくなった中年が、学生時代と同じ情熱と時間をコンテンツに傾け続けるのは、ハイコストなことでもある。今の自分にとって為すべきことを為しながら、それでいてサブカルチャー領域の自分のアイデンティティをキープする一番たやすい方法は、思春期の頃に自分の心に刺さったコンテンツを愛し続けること・その続編コンテンツや周辺コンテンツを拾い続けていくことだと思う。多くの中年は、それに即した振る舞いをごく自然に身に付けている。
 
 むろんこれはゲームやアニメに限った話ではなく、たとえば『B'z』や『ドリカム』を聴き続ける人も、20世紀のSF小説で時計の針が止まってしまった人も、だいたい同じだ。そういう中年がたくさんいるということは、たぶん、それでも構わないってことなのだろう。「自分に刺さるコンテンツ」がいつまでも見つかり続ける人生もきっと良いものだろうけれど、だからといって「若い頃に自分に刺さったコンテンツ」を頼みとする人生がそれに劣っているとは、私にはどうしても考えられない。また、新しいコンテンツが刺さらなくなったことをもって趣味人や愛好家としての終焉とみなすのも、ちょっと違うと思う。
 
 現在進行形でコンテンツが刺さりまくっている人や、ごく最近までコンテンツが刺さっていた人は、「コンテンツが刺さらなくなってからを生きる」ことを否定的にとらえるかもしれない。けれども、コンテンツが刺さらなくなってからも、新しい地平、新しい心境が待っているので、気にしないで年を取っていけばいいと思う。「フレッシュなことはいいことだ」という思い込みを捨ててしまえば、案外、楽になるんじゃないだろうか。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?