*現在、所属欲求についてのブログ記事を連載中です(全三回)。承認欲求はよくわかるけれど所属欲求はよくわからない人、『認められたい』の拡張パッケージ的な文章が読みたい人に、特にお勧めです。*
第一回は、中年期以降まで見据えるなら、承認欲求だけでなく所属欲求もモチベーション源にして生きたほうがやりやすい、といった話をしました。
また、承認欲求に過重がかかりやすくなってしまった時代背景として、所属欲求が軽視され、所属欲求を充たせるセーフティネットに相当するコミュニティが希薄化していった流れについても書きました。
この第二回では、所属欲求を充たすための機会が一度希薄化し、2010年代になって一気に蘇った、そのあたりについて記します。
所属欲求に慣れる機会は遍在していた。が、ラクではなかった
個人が独りで生き抜くことの難しかった江戸期後半~戦前の日本社会では、地域共同体や血縁共同体のメンバーシップの一員であることが重要でした。共同体への所属は、地元で生きていくのに必要不可欠な“立場”やスキルアップの機会を提供すると同時に、所属欲求を充たし慣れる機会をも提供していました。
断っておきますが、「所属欲求を充たし慣れる機会がある」=「誰もがラクに所属欲求を充たせた」わけではありません。地域行事に必ず参加しなければならず、地縁や血縁のしきたり、上下関係に従わなければならなかったのは、けして楽ではなかったはずです。また、メンバーのなかには理不尽な年長者や意地悪な同輩といった人間もたいてい含まれていますから、それらとの付き合いに苦労することもあったでしょう。
所属欲求を充たし慣れる機会の多い社会とは、否応なく所属欲求を充たしながら生きなければならない社会、それができなければ精神的/社会的にドロップアウトする危険の大きな社会でもあったわけです。
個人単位で承認欲求を充たす意識や方法の乏しかった当時、所属欲求を充たせない境遇に置かれるのは、堪えたことでしょう。たぶん、承認欲求を主なモチベーション源としている人が承認欲求を絶たれるとすごく心が飢えるのと同様に、イエや地域を介して所属欲求を充たすことを主なモチベーション源にしていた人が所属欲求を絶たれたら、すごく心が飢えたのではないでしょうか。
そのかわり、いくらか不満を感じる年長者やちょっとウマの合わない同輩ぐらいとならメンバーシップを共有できるよう、ほとんどの人がトレーニングされました。子守りも農業も冠婚葬祭も、なにもかもが地縁や血縁のなかで行われていた社会では、所属欲求を充たすことに習熟する機会が豊富でした。また、人的流動性が低く、メンバーが滅多に入れ替わらないので、対処の難しいメンバーに対しても、時間をかけて馴染んだり他の年長者から対応策を教わるだけの猶予がありました*1。馴染むための時間的猶予があった点は、臨機応変なコミュニケーションが苦手な人、たとえば新しいメンバーに馴染むのは苦手でも馴染んでしまえばうまくやれる人、口下手でも誠実で真面目な人には、有利に働いたことでしょう。
共同体の希薄化と、所属欲求の没落
そうした、所属欲求に慣れやすい/慣れていかなければならない共同体は、時を経るにつれて、希薄化していきました。
まだ、地域共同体で生まれ育った若者が大多数を占めていた高度経済成長期には、所属欲求は、人々のモチベーション源として、企業や地域を結び付ける重要なファクターとして機能しました。個人主義的なライフスタイルに憧れる人が増えてはいましたが、社員旅行や盆踊り大会が体現していたように、あるいは麻雀やボウリングの流行が示していたように、当時の壮青年は集団的なレクリエーションに対して積極的で、そもそも、娯楽や余暇の相当部分が独りでは遊べないレクリエーションによって占められていました。レクリエーションとは少し違うかもしれませんが、若者の政治運動が盛り上がったのもこの時期です。
しかし、80年代にさしかかる頃から、こういった集団的なレクリエーションや運動はダサくて格好悪いものとみなされていきます。この世代の若者は『新装版 なんとなく、クリスタル (河出文庫)』に象徴されるような、消費個人主義に適合したライフスタイルを志向し、「シラケ世代」「新人類」などと呼ばれました。そうした志向は、“トレンディ”な若者に限定されたものではなく、地域から乖離し、好きな趣味生活をひたすらに追究した若者*2とも共通したものでした。
こういった個人主義的な若者が多数派を占めるためには、若者が独りで好き勝手なことをできるぐらいの、経済的余裕や空間的条件が揃っていなければなりませんでした。幸い、“一億総中流”と言われていた頃の家庭の大半には、子どもに種々のガジェットや子ども部屋を与えるだけの余裕がありました。また、塾通いや稽古事通いなどによって子ども同士のスケジュールが分断されやすくなったため、子どもが独りで余暇を過ごさなければならない時間*3が増えていきました。
独りで過ごす時間が増え、その必然的帰結として、メンバーシップ意識よりも個人としての自意識が優勢な若者に対し、マスメディアは、モノやファッションを買い求めて自己演出する方法、つまり“恰好つけて承認欲求を充たす方法”をどんどん流し込みました。ファッション雑誌やDCブランドが全盛期を迎え、さらにバブル景気が重なり、そうしたモノやファッションを買って承認欲求を充たす手法は、年長者をも巻き込んでいきました。
他方で、拘束力を伴った旧来の共同体は減り続け、たとえば、新興のニュータウンや高層マンションに生まれ、個人主義的なライフスタイルに忠実に育てられた子どもなどは、所属欲求を充たし慣れないまま成人することも珍しくなくなりました。“トレンディ”な若者は、いまだ土着性を引きずって群れている若者を「ツッパリ」「ヤンキー」と呼んで軽蔑し、時代遅れとみなしました。かつてはどこの学校にもありふれていた「ツッパリ」や「ヤンキー」はだんだん珍しくなり、と同時に、彼らを包摂していた地域共同体もますます衰退していきました。
こうした変化の総仕上げとして、バブル景気が崩壊し、大企業の倒産やリストラの嵐が相次ぎました。自己責任論が台頭するなか、企業に所属意識やメンバーシップ意識を持つような、所属欲求をモチベーション源としたワークスタイルは完全に時代遅れになりました。飲みニケーションや社員旅行といった、メンバーシップ意識を前提とした“社内の付き合い”が敬遠されていったのもこの時期です。
2000年頃、会社や組織に背を向けて自分自身の成果を追いかけたがる若者を「自己中心的な若者」とバッシングする向きがあったと、私は記憶しています。ですが、その背景として、そもそも所属欲求を充たせる/充たさなければならないような共同体が衰退し、子どもが独りで過ごさなければならない時間が増大し、老若男女がこぞって消費個人主義にのめり込んでいった、複数の社会変化があったことは踏まえておかなければならないでしょう。そのような変化のもとで育った若者達が、所属欲求よりも承認欲求を志向したライフスタイルと心理に傾いたのは、もっともなことだと私は思います。
SNSによって蘇った所属欲求
かくして20世紀末~21世紀のはじめにかけて、日本人のモチベーション源は、所属欲求よりも承認欲求を充たす方向へと傾き続けていきました。自己実現や承認欲求をテーマにした書籍が毎年のように出版され、所属欲求は、体育会系の領域などを除いて希薄になる一方のようにみえました。
しかし2010年代に入って情勢が変わってきたように思います。所属欲求を充たす新しい機会と空間を提供するようになったのは、インターネット端末、とりわけスマートフォンと、SNSです。
ガラケーやmixi、スマートフォンやSNSが普及するにつれて、ネットコミュニケーションは日本社会全体に、着実に広まっていきました。2009年頃からはtwitterとFacebookが急伸し、のちにLINEが加わりました。はじめ、これらのツールに触れた人々は、こぞって「いいね」を求めて、つまり、承認欲求がモチベーション源となってコミュニケーションしているかのようにみえました。自分の書き込みを読んで欲しい、なにか反応して欲しいという気持ちがあればこそ、mixiのあしあと問題や、LINEの既読スルー問題なども話題となったのでしょう。
ところが東日本大震災が起こった前後から、twitterやFacebookは、主義主張や立場ごとに寄り集まって意見をぶつけ合う、党派性を帯びたコミュニケーションの場としての顔貌を露わにしはじめました。
原発を巡って、与野党を巡って、ジェンダーを巡って、表現規制問題を巡って、たくさんの人が「こちら側か」「あちら側か」にわかれて集団を形成しました。いや、集団未満と言うべきでしょうか。リツイートやシェアによって暫時的に繋がっただけの現象を集団と呼ぶのは――まして共同体と呼ぶのは!――私には過大評価のように思えるからです。
とはいえ、リツイートやシェアには同調する者同士を集める強い力があります。もし、SNSに「いいね」ボタンしかついていなかったら、ひとつのアカウントが別のアカウントに承認される以上の展開は望めなかったでしょう。ところが、リツイートやシェアは、ひとつの投稿に集まる承認の上限を高めただけでなく、リツイートする者同士・シェアする者同士が同族意識や仲間意識をリアルタイムに体感できる、便利な手段*4だったのです。
膨大なリツイートやシェアを伴った投稿やトピックスは、さながら、祭りの神輿やトーテムポールのような役割を帯びます。SNSとスマホの利便性のおかげで、いつでもどこでも誰でも、この所属欲求の祝祭に飛び込むことができます。自分では弁が立たない人、美しい写真やイラストを作れない人でも、リツイートやシェアをすれば集まりに加わって、所属欲求が充たせます。さしずめ「リツイートやシェアすることによって、“神輿”や“トーテム”をいつでもどこでも誰でも持ち上げてワッショイできる」、といったところでしょうか。
たぶん、私達ネットユーザーは、「いいね」をもらうことによって承認欲求を充たしながらも、リツイートやシェアで所属欲求を充たせることに、だんだん気付き、味をしめていったのではないでしょうか。
ネットを使った所属欲求の相互充当が、SNS以前に無かったわけではありません。趣味のオフ会、2ちゃんねるの実況板、ニコニコ動画のコメント弾幕などは、所属欲求を充たしやすい機会だったと言えるでしょう。しかし、これらはユーザー数においても拡散力においても今日のSNSに比肩するものではなく、社会全体に所属欲求を介した繋がりをつくりあげるほどのものではありませんでした。
圧倒的な人数が利用し、いつでもどこでも誰でも承認欲求や所属欲求を充たせる手段として定着するには、SNSとスマートフォンの普及と、ユーザーの習熟を待たなければなりませんでした*5。
SNSによる所属欲求の相互充当があまねく定着した結果、私達はますます投稿やトピックスをリツイート・シェアするようになり、ときに、数千人~数万人単位で所属欲求の相互充当をかたちづくるようになりました。2016年に相次いだエンタメ作品の大ヒットや種々の炎上騒動などの背景には、SNSを用いて所属欲求を充たせる喜びを知り、それをもモチベーション源としながらコミュニケーションに時間を費やす現代人の社会適応の姿があります。
20世紀後半から21世紀のはじめにかけて、多くの日本人は承認欲求に夢中になり、所属欲求を忘れかけました。しかし、社会的生物としてのホモ・サピエンスの性質が変わったわけではない以上、いつでもどこでも誰とでも所属欲求を充たせる手段が与えられれば、所属欲求がそれに即したかたちで復活したのは当然だったのかもしれません。
なんにせよ現代人は、SNS上で所属欲求にも強く動機付けられながら群れ集い、旧来とは異なったかたちの世論、流行、党派性といったものを生み出すようになりました。次回は、そのような新しい所属欲求のかたちがもたらす、可能性と危険性について、述べてみる予定です。
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